東京
丸善丸の内本店4階ギャラリーでは、今年も「橋本不二子 作品展」が
開かれています。
会期は11月5日(火)までです。

橋本不二子さん(1935~)は明るい透明な色彩の水彩やアクリルで
花の絵を永年、描き続けています。
ガラス器や陶磁器などに活けられたさまざまな草花の絵や版画、
来年のカレンダーや絵葉書が展示販売されています。




炻器の花瓶で、戦前に橋本さんのお父さんがドイツから持ち帰ったもので、
お母さんが大切にし、草花を活けていたそうです。

2018年の「橋本不二子展」の記事です。
橋本不二子さんのHPです。
今年も終りが近付き、カレンダーや手帳の販売される頃になりました。
chariot
丸善丸の内本店4階ギャラリーでは、今年も「橋本不二子 作品展」が
開かれています。
会期は11月5日(火)までです。

橋本不二子さん(1935~)は明るい透明な色彩の水彩やアクリルで
花の絵を永年、描き続けています。
ガラス器や陶磁器などに活けられたさまざまな草花の絵や版画、
来年のカレンダーや絵葉書が展示販売されています。




炻器の花瓶で、戦前に橋本さんのお父さんがドイツから持ち帰ったもので、
お母さんが大切にし、草花を活けていたそうです。

2018年の「橋本不二子展」の記事です。
橋本不二子さんのHPです。
今年も終りが近付き、カレンダーや手帳の販売される頃になりました。
みなとみらい
みなとみらいの横浜美術館では、「ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」展が
開かれています。
会期は2020年1月13日(月)まで、休館日は木曜日です。

パリのオランジュリー美術館コレクションである、印象派とエコール・ド・パリの画家12人の
作品を展示する展覧会です。
自動車修理工から身を起こしたポール・ギヨーム(1891―1934)は画商となり、自らも
コレクターとなって印象派とエコール・ド・パリの画家などの作品を収集しています。
ポールの没後にコレクションは妻のジュリエット・ラカーズ(ドメニカ、1898―1977)により
再編され、後にフランス政府に売却されています。
オランジュリー美術館はこれらを展示する美術館で、改装期間中を利用しての
展覧会とのことです。
展覧会で展示されているのはシスレー、モネ、ルノワール、セザンヌ、ルソー、マティス
、ピカソ、モディリアーニ、ヴァン・ドンゲン、ドラン、ローランサン、ユトリロ、スーティンの
約70点です。
アルフレッド・シスレー 「モンビュイソンからルヴシエンヌへの道」 1875年

ルーヴシエンヌはパリの西のセーヌ川沿いにあり、ピサロやシスレー、
ルノワールたち印象派の画家が一時住んで、風景を描いています。
地平線を低くした、シスレーらしい、おだやかな景色です。
クロード・モネ 「アルジャントゥイユ」 1875年

モネは1871年からパリ郊外のアルジャントゥイユに移り住んでいます。
第1回印象派展の翌年の作品で、セーヌ川に浮かぶ小舟の帆柱が、
点々と雲の浮かぶ空と水面をつないでいます。
オーギュスト・ルノワール 「ピアノを弾く少女たち」 1892年

印象派の中で最初の国家買上げのため、制作依頼を受けたルノワールは
6点のヴァージョンを制作しています。
美術長官によって選ばれ、現在、オルセー美術館の所蔵する作品の構想用に
この作品は描かれたと思われます。
(参考)
「ピアノを弾く少女たち」 1892年 オルセー美術館

「ピアノを弾くイヴォンヌと クリスティーヌ・ルロール」
オーギュスト・ルノワール 1897-98年頃

画家のアンリ・ルロールの娘たちを描いていて、白い服がイヴォンヌです。
服の色に合わせて、2人の肌の色も少し違えてあります。
壁にはドガの、競馬と踊り子を描いた絵が飾ってあります。
ピアノは裕福な家庭の象徴で、ルロール家の雰囲気を伝えています。
「ピアノを弾く少女たち」が縦長の画面で、アップライトピアノ、長い髪、
垂らしたリボンなど、縦を意識しているのに対し、こちらはグランドピアノ、
額縁、伸ばした腕など、横の向きを意識しています。
ポールの没後、ジュリエット・ラカーズ(ドメニカ)が1937年に購入した作品で、
ドメニカはルノワールを好んでいます。
ドメニカはポールが早くに亡くなった後、再婚し、コレクションにもいろいろ
手を加えています。
オーギュスト・ルノワール 「桃」 1881‒1882年頃

桃の紅色が鮮やかで、テーブルクロスの白もやわらかです。
ルノワールは静物画も魅力的です。
ポール・セザンヌ 「りんごとビスケット」 1879‒1880年頃

木箱の横線が画面を3つに区切った、面白い形です。
ルノワールの華やぎに対して、こちらには無駄の無い、がっちりとした
存在感があります。
セザンヌの作品のほとんどはドメニカの購入したものです。
アンリ・ルソー 「婚礼」 1905年頃

記念写真のように人物が並んでいて、手前に黒犬がいるのがご愛敬です。
後列向かって右側のヒゲの人物がルソー自身とのことです。
黒色に囲まれて、花嫁のドレスの白が際立っています。
アンリ・マティス 「赤いキュロットのオダリスク」 1924‒1925年頃

アングルのグランド・オダリスクに倣っていますが、絵の中心は背景の花模様で、
テーブルに置いた花もその中に溶け込んでいます。
ポール・ギヨームは1918年にマティスとピカソの展覧会を開いています。
ポールの没後、ドメニカはマティスがニースに滞在した1917-1929年の作品のみを
残しています。
パブロ・ピカソ 「布をまとう裸婦」 1921‒1923年頃

第一次世界大戦後の、ピカソがキュビスムから新古典主義に移った頃の作品です。
ポールはキュビスムを理解していましたが、ドメニカはピカソのキュビスムの作品の
ほとんどを売却しています。
マリー・ローランサン 「マドモアゼル・シャネルの肖像」 1923年

マリー・ローランサンは、恋人だった詩人のギヨーム・アポリネールの紹介で、
ポール・ギヨームと出会っています。
売れっ子だったローランサンに肖像画を描いてもらうことが当時の流行だったので、
ココ・シャネルも頼んでいます。
ところが、この絵を気に入らず、受け取りを拒否しています。
ローランサンも気が強く、口も悪い人だったので、ココ・シャネルを「オーヴェルニュの
田舎娘」とののしっています(ローランサンはパリ生まれ)。
モーリス・ユトリロ 「サン=ピエール教会」 1914年

ユトリロが最も高い評価を受けている、「白の時代」の作品で、モンマルトルの
サン=ピエール教会を寂寥感を込めて描いています。
ユトリロはモンマルトル生まれで、葬儀もサン=ピエール教会で行われています。
ポール・ギヨームは1922年にユトリロの個展を開いています。
シャイム・スーティン 「小さな菓子職人」 1922‒1923年

スーティンはロシア帝国時代のベラルーシで貧しいユダヤ人の家に11人兄弟の
10人目に生まれ、身体が弱くて家族から疎まれ、偶像を禁止するユダヤ教の
戒律から絵を描くことを許されなかったため、
パリに出てきています。
マイノリティの中のマイノリティといった境遇のためか、作品は荒々しく、
大きくゆがんでもいます。
描く対象として、共感の故か、恵まれない労働者をよく選んでいます。
パリでスーティンをよく世話したのが、同じユダヤ人のモディリアーニとのことです。
ポール・ギヨームはスーティンに関心を持った最初の人物の一人ということで
、多くの作品を購入し、スーティンの国際的評価を高めています。
今回は、まとまって観る機会の少ないスーティンの作品、8点が展示されています。
アメデオ・モディリアーニ 「新しき水先案内人ポール・ギヨームの肖像」 1915年

ポール・ギヨームはモディリアーニを支援し、アトリエを提供したりしています。
モディリアーニは嬉しかったのか、絵にイタリア語で「Novo Pilota(新しい水先案内人)」と
書き込んでいます。
アメデオ・モディリアーニ 「アントニア」 1915年頃

特有の長い首、瞳の無い目で描かれ、単純な形には当時盛んだったキュビスムの
影響も感じられます。
キース・ヴァン・ドンゲン 「ポール・ギヨームの肖像」 1930年頃

ポール・ギヨームは美術界への功労により、レジオンドヌール勲章を受けています。
その記念に注文した肖像画で、胸の赤い勲章が映えるように青色のダブルの服と
ネクタイ姿で描かれた、センスの良い作品です。
アンドレ・ドラン 「大きな帽子を被るポール・ギヨーム夫人の肖像」 1928-29年

帽子に囲まれた、意志の強そうな顔がくっきりと描かれています。
ドランはフォーヴィズムの画家でしたが、第一次世界大戦後に、落着いた新古典主義の
画風に変わっています。
アンドレ・ドラン 「アルルカンとピエロ」 1924年頃

大きな作品で、右のピエロはドランがモデルと思われます。
ギヨーム夫妻はドランを高く評価し、この絵も早くから居間の中央に置かれていました。
「大きな帽子を被るポール・ギヨーム夫人の肖像」の後ろにもこの絵が描かれています。
ドランの作品は展覧会でも最も多く、13点が展示されています。
ポール・ギヨーム夫妻とエコール・ド・パリの画家たちとの関わりも分かり、
なかなか見応えのある展覧会です。
展覧会のHPです。
chariot
みなとみらいの横浜美術館では、「ルノワールとパリに恋した12人の画家たち」展が
開かれています。
会期は2020年1月13日(月)まで、休館日は木曜日です。

パリのオランジュリー美術館コレクションである、印象派とエコール・ド・パリの画家12人の
作品を展示する展覧会です。
自動車修理工から身を起こしたポール・ギヨーム(1891―1934)は画商となり、自らも
コレクターとなって印象派とエコール・ド・パリの画家などの作品を収集しています。
ポールの没後にコレクションは妻のジュリエット・ラカーズ(ドメニカ、1898―1977)により
再編され、後にフランス政府に売却されています。
オランジュリー美術館はこれらを展示する美術館で、改装期間中を利用しての
展覧会とのことです。
展覧会で展示されているのはシスレー、モネ、ルノワール、セザンヌ、ルソー、マティス
、ピカソ、モディリアーニ、ヴァン・ドンゲン、ドラン、ローランサン、ユトリロ、スーティンの
約70点です。
アルフレッド・シスレー 「モンビュイソンからルヴシエンヌへの道」 1875年

ルーヴシエンヌはパリの西のセーヌ川沿いにあり、ピサロやシスレー、
ルノワールたち印象派の画家が一時住んで、風景を描いています。
地平線を低くした、シスレーらしい、おだやかな景色です。
クロード・モネ 「アルジャントゥイユ」 1875年

モネは1871年からパリ郊外のアルジャントゥイユに移り住んでいます。
第1回印象派展の翌年の作品で、セーヌ川に浮かぶ小舟の帆柱が、
点々と雲の浮かぶ空と水面をつないでいます。
オーギュスト・ルノワール 「ピアノを弾く少女たち」 1892年

印象派の中で最初の国家買上げのため、制作依頼を受けたルノワールは
6点のヴァージョンを制作しています。
美術長官によって選ばれ、現在、オルセー美術館の所蔵する作品の構想用に
この作品は描かれたと思われます。
(参考)
「ピアノを弾く少女たち」 1892年 オルセー美術館

「ピアノを弾くイヴォンヌと クリスティーヌ・ルロール」
オーギュスト・ルノワール 1897-98年頃

画家のアンリ・ルロールの娘たちを描いていて、白い服がイヴォンヌです。
服の色に合わせて、2人の肌の色も少し違えてあります。
壁にはドガの、競馬と踊り子を描いた絵が飾ってあります。
ピアノは裕福な家庭の象徴で、ルロール家の雰囲気を伝えています。
「ピアノを弾く少女たち」が縦長の画面で、アップライトピアノ、長い髪、
垂らしたリボンなど、縦を意識しているのに対し、こちらはグランドピアノ、
額縁、伸ばした腕など、横の向きを意識しています。
ポールの没後、ジュリエット・ラカーズ(ドメニカ)が1937年に購入した作品で、
ドメニカはルノワールを好んでいます。
ドメニカはポールが早くに亡くなった後、再婚し、コレクションにもいろいろ
手を加えています。
オーギュスト・ルノワール 「桃」 1881‒1882年頃

桃の紅色が鮮やかで、テーブルクロスの白もやわらかです。
ルノワールは静物画も魅力的です。
ポール・セザンヌ 「りんごとビスケット」 1879‒1880年頃

木箱の横線が画面を3つに区切った、面白い形です。
ルノワールの華やぎに対して、こちらには無駄の無い、がっちりとした
存在感があります。
セザンヌの作品のほとんどはドメニカの購入したものです。
アンリ・ルソー 「婚礼」 1905年頃

記念写真のように人物が並んでいて、手前に黒犬がいるのがご愛敬です。
後列向かって右側のヒゲの人物がルソー自身とのことです。
黒色に囲まれて、花嫁のドレスの白が際立っています。
アンリ・マティス 「赤いキュロットのオダリスク」 1924‒1925年頃

アングルのグランド・オダリスクに倣っていますが、絵の中心は背景の花模様で、
テーブルに置いた花もその中に溶け込んでいます。
ポール・ギヨームは1918年にマティスとピカソの展覧会を開いています。
ポールの没後、ドメニカはマティスがニースに滞在した1917-1929年の作品のみを
残しています。
パブロ・ピカソ 「布をまとう裸婦」 1921‒1923年頃

第一次世界大戦後の、ピカソがキュビスムから新古典主義に移った頃の作品です。
ポールはキュビスムを理解していましたが、ドメニカはピカソのキュビスムの作品の
ほとんどを売却しています。
マリー・ローランサン 「マドモアゼル・シャネルの肖像」 1923年

マリー・ローランサンは、恋人だった詩人のギヨーム・アポリネールの紹介で、
ポール・ギヨームと出会っています。
売れっ子だったローランサンに肖像画を描いてもらうことが当時の流行だったので、
ココ・シャネルも頼んでいます。
ところが、この絵を気に入らず、受け取りを拒否しています。
ローランサンも気が強く、口も悪い人だったので、ココ・シャネルを「オーヴェルニュの
田舎娘」とののしっています(ローランサンはパリ生まれ)。
モーリス・ユトリロ 「サン=ピエール教会」 1914年

ユトリロが最も高い評価を受けている、「白の時代」の作品で、モンマルトルの
サン=ピエール教会を寂寥感を込めて描いています。
ユトリロはモンマルトル生まれで、葬儀もサン=ピエール教会で行われています。
ポール・ギヨームは1922年にユトリロの個展を開いています。
シャイム・スーティン 「小さな菓子職人」 1922‒1923年

スーティンはロシア帝国時代のベラルーシで貧しいユダヤ人の家に11人兄弟の
10人目に生まれ、身体が弱くて家族から疎まれ、偶像を禁止するユダヤ教の
戒律から絵を描くことを許されなかったため、
パリに出てきています。
マイノリティの中のマイノリティといった境遇のためか、作品は荒々しく、
大きくゆがんでもいます。
描く対象として、共感の故か、恵まれない労働者をよく選んでいます。
パリでスーティンをよく世話したのが、同じユダヤ人のモディリアーニとのことです。
ポール・ギヨームはスーティンに関心を持った最初の人物の一人ということで
、多くの作品を購入し、スーティンの国際的評価を高めています。
今回は、まとまって観る機会の少ないスーティンの作品、8点が展示されています。
アメデオ・モディリアーニ 「新しき水先案内人ポール・ギヨームの肖像」 1915年

ポール・ギヨームはモディリアーニを支援し、アトリエを提供したりしています。
モディリアーニは嬉しかったのか、絵にイタリア語で「Novo Pilota(新しい水先案内人)」と
書き込んでいます。
アメデオ・モディリアーニ 「アントニア」 1915年頃

特有の長い首、瞳の無い目で描かれ、単純な形には当時盛んだったキュビスムの
影響も感じられます。
キース・ヴァン・ドンゲン 「ポール・ギヨームの肖像」 1930年頃

ポール・ギヨームは美術界への功労により、レジオンドヌール勲章を受けています。
その記念に注文した肖像画で、胸の赤い勲章が映えるように青色のダブルの服と
ネクタイ姿で描かれた、センスの良い作品です。
アンドレ・ドラン 「大きな帽子を被るポール・ギヨーム夫人の肖像」 1928-29年

帽子に囲まれた、意志の強そうな顔がくっきりと描かれています。
ドランはフォーヴィズムの画家でしたが、第一次世界大戦後に、落着いた新古典主義の
画風に変わっています。
アンドレ・ドラン 「アルルカンとピエロ」 1924年頃

大きな作品で、右のピエロはドランがモデルと思われます。
ギヨーム夫妻はドランを高く評価し、この絵も早くから居間の中央に置かれていました。
「大きな帽子を被るポール・ギヨーム夫人の肖像」の後ろにもこの絵が描かれています。
ドランの作品は展覧会でも最も多く、13点が展示されています。
ポール・ギヨーム夫妻とエコール・ド・パリの画家たちとの関わりも分かり、
なかなか見応えのある展覧会です。
展覧会のHPです。
両国
「カフェ三笠 江戸東京博物館店」は両国の江戸東京博物館の1階にあります。
場所は墨田区横網1-4-1です。

2018年に銀座洋食三笠會館江戸東京博物館店と同時にオープンしました。
店内は約30席、全席禁煙、あっさりしたつくりで、入館券が無くても利用できます。

アルコールやスイーツもありますが、フードはハヤシライスのみです。
ハヤシライスハーフサイズセット1090円です。


三笠會館特製の豪快なプリンが付いた、お得なセットです。
江戸東京博物館の4階には和食レストランの「桜茶寮」もあります。
「桜茶寮」に行った時の記事です。
江戸東京博物館では11月4日(月・祝)まで、「士 サムライー天下太平を支えた人びとー」展が
開かれています。
「士 サムライー天下太平を支えた人びとー」展の記事です。
chariot
「カフェ三笠 江戸東京博物館店」は両国の江戸東京博物館の1階にあります。
場所は墨田区横網1-4-1です。

2018年に銀座洋食三笠會館江戸東京博物館店と同時にオープンしました。
店内は約30席、全席禁煙、あっさりしたつくりで、入館券が無くても利用できます。

アルコールやスイーツもありますが、フードはハヤシライスのみです。
ハヤシライスハーフサイズセット1090円です。


三笠會館特製の豪快なプリンが付いた、お得なセットです。
江戸東京博物館の4階には和食レストランの「桜茶寮」もあります。
「桜茶寮」に行った時の記事です。
江戸東京博物館では11月4日(月・祝)まで、「士 サムライー天下太平を支えた人びとー」展が
開かれています。
「士 サムライー天下太平を支えた人びとー」展の記事です。
三越前
日本橋の三井記念美術館では特別展、「茶の湯の名碗 高麗茶碗」が開かれています。
会期は12月1日(日)までです。

会期中、一部展示替えがありますので、展覧会のHPでご確認下さい。
高麗茶碗は朝鮮で焼かれた器で、茶の湯の茶碗に見立てられた茶碗と、
日本のために焼かれた茶碗に分けられます。
高麗茶碗といいますが、多くは朝鮮時代に焼かれたものです。
見立てられた茶碗の多くは16世紀に焼かれています。
日本のために焼かれた茶碗には御所丸茶碗、半使(はんす)茶碗や御本茶碗などがあり、
多くは16世紀末から17世紀初めに焼かれています。
(見立てられた茶碗)
「大井戸茶碗 有楽井戸」 朝鮮時代・16世紀 東京国立博物館

大井戸の名の通り、大きな茶碗です。
胴の上の部分が少し立ち、釉薬の照りも落着き、高台にかいらぎ(釉薬の縮れ)があります。
織田有楽斎の所有とされ、松永安左エ門の寄贈です。
「蕎麦茶碗 銘花曇」 朝鮮時代・16世紀 三井記念美術館

めぐっている青灰色から花曇の名があります。
蕎麦茶碗は平たい形で、口縁に向かって開いているのが特徴です。
「粉引茶碗 三好粉引」 朝鮮時代・16世紀 三井記念美術館

粉引茶碗は生地に白化粧をした上に釉をかけていて、粉を吹いたような肌をしています。
釉の掛け残しの火間(ひま)がくっきりと付いています。
戦国時代の武将、三好長慶(1522-1564)が所持していたので、この名があります。
粉引茶碗は作例が少なく、「三好粉引」「松平粉引」「津田粉引」が代表例とのことです。
「三島茶碗 二徳三島」 朝鮮時代・16世紀 三井記念美術館

三島茶碗は細かい模様が伊豆の三嶋大社の配布していた三島暦に似ている茶碗です。
千利休が所持し、後に二徳という袋師が所持したことからこの名があります。
見込みには模様が入っていますが、胴の外側には横線が一本入っているだけです。
「紅葉呉器茶碗 銘菊月」 朝鮮時代・16世紀

呉器茶碗は禅寺で使う木碗に似て、胴が丸く高台が高く裾広がりになっている
茶碗のことです。
釉色の赤いのを紅葉呉器といいます。
(日本向けに焼かれた茶碗)
御所丸茶碗 古田高麗 朝鮮時代・16~17世紀 三井記念美術館

御所丸とは桃山時代の朝鮮との御用貿易船のことです。
日本の茶人の注文により朝鮮で焼かれ、朝鮮貿易船で運ばれた品と思われます。
古田織部の所持とされ、厚手でぶっくりしており、くびれの入った胴にゆがみがあります。
御所丸茶碗としては古い作とされています。
御所丸茶碗 朝鮮時代・17世紀 三井記念美術館

楕円形で白釉と黒釉の掛かった片身替りと呼ばれる色合いになっています。
えぐるようなへらの削り跡も付いていて、個性の強い姿をしています。
ちょっと吹雪饅頭を思い出します。
絵半使割高台茶碗 朝鮮時代・17世紀 藤田美術館

半使茶碗は朝鮮通信使に同道した通訳(半使)が持参し、対馬藩に売った茶碗です。
呉器に似た形で、木のようなものが描かれ、高台に切込みがあります。
「御本立鶴茶碗 銘千歳」 朝鮮時代・17世紀 三井記念美術館

御本茶碗は17世紀から18世紀中頃に対馬藩が釜山の倭館を設け、家臣を派遣し、
御本(手本)に従って焼かれた茶碗です。
薄手の筒型茶碗で、徳川家光の描いた鶴の絵を下絵にしています。
展示室には対馬藩から倭館に送られた、茶碗や花器の詳細な手本も展示されています。
「彫三島茶碗」 朝鮮時代・17世紀 三井記念美術館

茶碗の内にも外にも桧垣文や花文が彫られ、白土で象嵌された、装飾的な茶碗です。
「狂言袴茶碗 銘浪花筒」 朝鮮時代・17世紀 東京国立博物館

薄手の茶碗で、丸文と飛鳥文を象嵌し、青磁釉を掛けています。
狂言役者の袴の文様に似ていることからこの名があります。
大阪の鴻池家に伝来しています。
「伊羅保片身替茶碗 千種伊羅保」 朝鮮時代・17世紀

伊羅保茶碗はざらついた表面が特徴で、見込みに刷毛目が付いています。
片身替は二つの釉薬を掛け分けてあります。
「絵御本松竹梅文茶碗」 朝鮮時代・17~18世紀 三井記念美術館

展示室入口に置かれています。
いかにも日本的な好みの絵柄です。
100個ほども並んだ茶碗を見ていると、高麗茶碗も色々な種類があるものだと思います。
特に、井戸茶碗など初期の見立て茶碗には作為が無く、素朴な味わいを楽しめます。
展覧会のHPです。
次回の展覧会は「国宝雪松図と明治天皇への献茶」です。
会期は12月14日(土)から2020年1月30日(木)までです。

chariot
日本橋の三井記念美術館では特別展、「茶の湯の名碗 高麗茶碗」が開かれています。
会期は12月1日(日)までです。

会期中、一部展示替えがありますので、展覧会のHPでご確認下さい。
高麗茶碗は朝鮮で焼かれた器で、茶の湯の茶碗に見立てられた茶碗と、
日本のために焼かれた茶碗に分けられます。
高麗茶碗といいますが、多くは朝鮮時代に焼かれたものです。
見立てられた茶碗の多くは16世紀に焼かれています。
日本のために焼かれた茶碗には御所丸茶碗、半使(はんす)茶碗や御本茶碗などがあり、
多くは16世紀末から17世紀初めに焼かれています。
(見立てられた茶碗)
「大井戸茶碗 有楽井戸」 朝鮮時代・16世紀 東京国立博物館

大井戸の名の通り、大きな茶碗です。
胴の上の部分が少し立ち、釉薬の照りも落着き、高台にかいらぎ(釉薬の縮れ)があります。
織田有楽斎の所有とされ、松永安左エ門の寄贈です。
「蕎麦茶碗 銘花曇」 朝鮮時代・16世紀 三井記念美術館

めぐっている青灰色から花曇の名があります。
蕎麦茶碗は平たい形で、口縁に向かって開いているのが特徴です。
「粉引茶碗 三好粉引」 朝鮮時代・16世紀 三井記念美術館

粉引茶碗は生地に白化粧をした上に釉をかけていて、粉を吹いたような肌をしています。
釉の掛け残しの火間(ひま)がくっきりと付いています。
戦国時代の武将、三好長慶(1522-1564)が所持していたので、この名があります。
粉引茶碗は作例が少なく、「三好粉引」「松平粉引」「津田粉引」が代表例とのことです。
「三島茶碗 二徳三島」 朝鮮時代・16世紀 三井記念美術館

三島茶碗は細かい模様が伊豆の三嶋大社の配布していた三島暦に似ている茶碗です。
千利休が所持し、後に二徳という袋師が所持したことからこの名があります。
見込みには模様が入っていますが、胴の外側には横線が一本入っているだけです。
「紅葉呉器茶碗 銘菊月」 朝鮮時代・16世紀

呉器茶碗は禅寺で使う木碗に似て、胴が丸く高台が高く裾広がりになっている
茶碗のことです。
釉色の赤いのを紅葉呉器といいます。
(日本向けに焼かれた茶碗)
御所丸茶碗 古田高麗 朝鮮時代・16~17世紀 三井記念美術館

御所丸とは桃山時代の朝鮮との御用貿易船のことです。
日本の茶人の注文により朝鮮で焼かれ、朝鮮貿易船で運ばれた品と思われます。
古田織部の所持とされ、厚手でぶっくりしており、くびれの入った胴にゆがみがあります。
御所丸茶碗としては古い作とされています。
御所丸茶碗 朝鮮時代・17世紀 三井記念美術館

楕円形で白釉と黒釉の掛かった片身替りと呼ばれる色合いになっています。
えぐるようなへらの削り跡も付いていて、個性の強い姿をしています。
ちょっと吹雪饅頭を思い出します。
絵半使割高台茶碗 朝鮮時代・17世紀 藤田美術館

半使茶碗は朝鮮通信使に同道した通訳(半使)が持参し、対馬藩に売った茶碗です。
呉器に似た形で、木のようなものが描かれ、高台に切込みがあります。
「御本立鶴茶碗 銘千歳」 朝鮮時代・17世紀 三井記念美術館

御本茶碗は17世紀から18世紀中頃に対馬藩が釜山の倭館を設け、家臣を派遣し、
御本(手本)に従って焼かれた茶碗です。
薄手の筒型茶碗で、徳川家光の描いた鶴の絵を下絵にしています。
展示室には対馬藩から倭館に送られた、茶碗や花器の詳細な手本も展示されています。
「彫三島茶碗」 朝鮮時代・17世紀 三井記念美術館

茶碗の内にも外にも桧垣文や花文が彫られ、白土で象嵌された、装飾的な茶碗です。
「狂言袴茶碗 銘浪花筒」 朝鮮時代・17世紀 東京国立博物館

薄手の茶碗で、丸文と飛鳥文を象嵌し、青磁釉を掛けています。
狂言役者の袴の文様に似ていることからこの名があります。
大阪の鴻池家に伝来しています。
「伊羅保片身替茶碗 千種伊羅保」 朝鮮時代・17世紀

伊羅保茶碗はざらついた表面が特徴で、見込みに刷毛目が付いています。
片身替は二つの釉薬を掛け分けてあります。
「絵御本松竹梅文茶碗」 朝鮮時代・17~18世紀 三井記念美術館

展示室入口に置かれています。
いかにも日本的な好みの絵柄です。
100個ほども並んだ茶碗を見ていると、高麗茶碗も色々な種類があるものだと思います。
特に、井戸茶碗など初期の見立て茶碗には作為が無く、素朴な味わいを楽しめます。
展覧会のHPです。
次回の展覧会は「国宝雪松図と明治天皇への献茶」です。
会期は12月14日(土)から2020年1月30日(木)までです。

渋谷
渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムでは、「リヒテンシュタイン 侯爵家の至宝展」が
開かれています。
会期は12月23日(月)までです。
追記:会期が12月26日(木)まで延長されました。

1719年に成立したリヒテンシュタイン公国の建国300年を記念する展覧会で、
リヒテンシュタイン侯爵家の所蔵する美術工芸品、約130点が展示されています。
スイスとオーストリアの間に位置するリヒテンシュタインはリヒテンシュタイン公、
ヨハン・アダム・アンドレアス(1662-1712)が1699年に現在のリヒテンシュタイン
に当たる所領を購入し、神聖ローマ皇帝が1719年にリヒテンシュタイン公領として
認めたことに始まります。
リヒテンシュタイン家はリヒテンシュタインの他にもヨーロッパの各地に広い所領を
持っています。
現在、人口約3万人のリヒテンシュタインでなぜ、この展覧会で見るような豪華な
コレクションを形成したのかと思いましたが、その成り立ちを知って納得しました。
「リヒテンシュタイン侯フランツ1世、8歳の肖像」 ヨーゼフ・ノイゲバウアー 1861年

フランツ1世(1853-1938)は84歳の長命で、従来はリヒテンシュタイン公が
リヒテンシュタインを訪れることは無かったのですが、夫妻はよく訪れ、慈善事業も
行なったということです。
「聖バルバラ」 ルーカス・クラーナハ(父) 1520年以降

聖バルバラは3世紀に小アジアのニコメディアで殉教したとされる女性です。
小さな作品で、聖バルバラはクラーナハ特有の体をくねらせた姿で描かれ、
金で飾った画面は豪華です。
「ペルセウスとアンドロメダ」 ペーテル・パウル・ルーベンスと工房 1622年以降

ルーベンスらしい、バロックの躍動的な画面で、ペルセウスのマントの赤と
アンドロメダの白い肌が際立っています。
ギリシャ神話の、英雄ペルセウスが海の怪獣を退治して、生贄にされそうになった
アンドロメダを救う話で、討たれた怪獣は海に落ちています。
ペルセウスの乗っていた、翼のある天馬、ペガサスも描かれています。
「雅な宴」 ヨハン・ゲオルク・プラッツァー 1736年

ロココ時代のヴァトーの始めたとされる、上流階級の人々が野外での宴を描く、
雅宴画(フェート・ギャラント)という画題の作品です。
まことに優雅な雰囲気ですが、この約半世紀後にフランス革命が起こり、
のどかな世界は吹き飛んでしまいます。
フランス革命に続くナポレオン戦争により、1806年に神聖ローマ皇帝は崩壊し、
リヒテンシュタインは独立しています。
「イシュル近くのヒュッテンエック高原からのハルシュタット湖の眺望」
フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー 1840年

ハルシュタット湖はオーストリアの湖で、山々に差す柔らかな光を表しています。
フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー(1793-1865)はオーストリアの
ビーダーマイヤー時代の画家で、細密な画風による肖像画、風景画、静物画を
描いています。
フランス革命とナポレオンの疾風怒濤の時代を過ぎ、旧体制(アンシャン・
レジーム)の時代に戻った19世紀前半のヨーロッパでは、理想主義に走らず、
日常生活に価値を見出す、ビーダーマイヤーと呼ばれる様式が流行しています。
「磁器の花瓶の花、燭台、銀器」 フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー 1839年

細密な描写で花や磁器、金属の質感まで表しています。
「染付山水文金具付ポプリ蓋物」
磁器:有田 1680-1700年
金属装飾:イグナーツ・ヨーゼフ・ヴェルト 1775/1785年

ヨーロッパの上流社会では中国の景徳鎮の磁器が珍重され、盛んに輸入されて
いましたが、17世紀の明清交替の混乱期には代わって日本の有田焼を輸入
するようになります。
壷などに金属装飾を加えて、別の用途に使われたりもしています。
会場の一部は撮影可能です。

「金地花文ティーセット」 ウィーン窯・帝国磁器製作所
アントン・デーリング イグナーツ・ヴィルトマン 1815年

ヨーロッパでは中国磁器に倣って磁器の製作が試みられ、まず1710年にマイセン窯が、
続いて1718年にウィーン窯が開かれています。
「金地花文クラテル形大花瓶」
ウィーン窯・帝国磁器製作所 ヨーゼフ・ガイアー 1828年頃

磁器にエナメル絵付がされています。
クラテルとは古代ギリシャで使われた、ワインと水を混ぜる壷とのことです。
右:「黒ブドウのある花の静物」
右:「白ブドウのある花の静物」
共にウィーン窯・帝国磁器製作所 ヨーゼフ・ニッグ 1838年

絵のように見えますが、磁器の板にエナメル絵付されたものです。
ヨーロッパの磁器には盛んに花の絵が描かれています。
神聖ローマ皇帝フランツ1世(1708-1765)はアカデミーに花卉画のクラスを設けています。
2017年には国立新美術館で、「リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家の秘宝」展が
開かれていました。
「リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家の秘宝」展の記事です。
展覧会のHPです。
次回の展覧会は「永遠のソール・ライター」展です。
会期は2020年1月9日(木)から3月8日(日)までです。

chariot
渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムでは、「リヒテンシュタイン 侯爵家の至宝展」が
開かれています。
会期は12月23日(月)までです。
追記:会期が12月26日(木)まで延長されました。

1719年に成立したリヒテンシュタイン公国の建国300年を記念する展覧会で、
リヒテンシュタイン侯爵家の所蔵する美術工芸品、約130点が展示されています。
スイスとオーストリアの間に位置するリヒテンシュタインはリヒテンシュタイン公、
ヨハン・アダム・アンドレアス(1662-1712)が1699年に現在のリヒテンシュタイン
に当たる所領を購入し、神聖ローマ皇帝が1719年にリヒテンシュタイン公領として
認めたことに始まります。
リヒテンシュタイン家はリヒテンシュタインの他にもヨーロッパの各地に広い所領を
持っています。
現在、人口約3万人のリヒテンシュタインでなぜ、この展覧会で見るような豪華な
コレクションを形成したのかと思いましたが、その成り立ちを知って納得しました。
「リヒテンシュタイン侯フランツ1世、8歳の肖像」 ヨーゼフ・ノイゲバウアー 1861年

フランツ1世(1853-1938)は84歳の長命で、従来はリヒテンシュタイン公が
リヒテンシュタインを訪れることは無かったのですが、夫妻はよく訪れ、慈善事業も
行なったということです。
「聖バルバラ」 ルーカス・クラーナハ(父) 1520年以降

聖バルバラは3世紀に小アジアのニコメディアで殉教したとされる女性です。
小さな作品で、聖バルバラはクラーナハ特有の体をくねらせた姿で描かれ、
金で飾った画面は豪華です。
「ペルセウスとアンドロメダ」 ペーテル・パウル・ルーベンスと工房 1622年以降

ルーベンスらしい、バロックの躍動的な画面で、ペルセウスのマントの赤と
アンドロメダの白い肌が際立っています。
ギリシャ神話の、英雄ペルセウスが海の怪獣を退治して、生贄にされそうになった
アンドロメダを救う話で、討たれた怪獣は海に落ちています。
ペルセウスの乗っていた、翼のある天馬、ペガサスも描かれています。
「雅な宴」 ヨハン・ゲオルク・プラッツァー 1736年

ロココ時代のヴァトーの始めたとされる、上流階級の人々が野外での宴を描く、
雅宴画(フェート・ギャラント)という画題の作品です。
まことに優雅な雰囲気ですが、この約半世紀後にフランス革命が起こり、
のどかな世界は吹き飛んでしまいます。
フランス革命に続くナポレオン戦争により、1806年に神聖ローマ皇帝は崩壊し、
リヒテンシュタインは独立しています。
「イシュル近くのヒュッテンエック高原からのハルシュタット湖の眺望」
フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー 1840年

ハルシュタット湖はオーストリアの湖で、山々に差す柔らかな光を表しています。
フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー(1793-1865)はオーストリアの
ビーダーマイヤー時代の画家で、細密な画風による肖像画、風景画、静物画を
描いています。
フランス革命とナポレオンの疾風怒濤の時代を過ぎ、旧体制(アンシャン・
レジーム)の時代に戻った19世紀前半のヨーロッパでは、理想主義に走らず、
日常生活に価値を見出す、ビーダーマイヤーと呼ばれる様式が流行しています。
「磁器の花瓶の花、燭台、銀器」 フェルディナント・ゲオルク・ヴァルトミュラー 1839年

細密な描写で花や磁器、金属の質感まで表しています。
「染付山水文金具付ポプリ蓋物」
磁器:有田 1680-1700年
金属装飾:イグナーツ・ヨーゼフ・ヴェルト 1775/1785年

ヨーロッパの上流社会では中国の景徳鎮の磁器が珍重され、盛んに輸入されて
いましたが、17世紀の明清交替の混乱期には代わって日本の有田焼を輸入
するようになります。
壷などに金属装飾を加えて、別の用途に使われたりもしています。
会場の一部は撮影可能です。

「金地花文ティーセット」 ウィーン窯・帝国磁器製作所
アントン・デーリング イグナーツ・ヴィルトマン 1815年

ヨーロッパでは中国磁器に倣って磁器の製作が試みられ、まず1710年にマイセン窯が、
続いて1718年にウィーン窯が開かれています。
「金地花文クラテル形大花瓶」
ウィーン窯・帝国磁器製作所 ヨーゼフ・ガイアー 1828年頃

磁器にエナメル絵付がされています。
クラテルとは古代ギリシャで使われた、ワインと水を混ぜる壷とのことです。
右:「黒ブドウのある花の静物」
右:「白ブドウのある花の静物」
共にウィーン窯・帝国磁器製作所 ヨーゼフ・ニッグ 1838年

絵のように見えますが、磁器の板にエナメル絵付されたものです。
ヨーロッパの磁器には盛んに花の絵が描かれています。
神聖ローマ皇帝フランツ1世(1708-1765)はアカデミーに花卉画のクラスを設けています。
2017年には国立新美術館で、「リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家の秘宝」展が
開かれていました。
「リヒテンシュタイン 華麗なる侯爵家の秘宝」展の記事です。
展覧会のHPです。
次回の展覧会は「永遠のソール・ライター」展です。
会期は2020年1月9日(木)から3月8日(日)までです。

上野
上野の国立西洋美術館では日本・オーストリア友好150周年記念、「ハプスブルク展
600年にわたる帝国コレクションの歴史」が開かれています。
会期は2020年1月26日(日)までです。

中世に始まり、東欧、スペイン、フランドル、イタリアなどを支配したハプスブルク家に
ついての展覧会です。
ウィーン美術史美術館とブダペスト国立西洋美術館の所蔵品を中心に約100件が
展示されています。
ハプスブルク家は10世紀にスイスに興った家で、13世紀にオーストリアに移り、
勢力を伸ばしています。
「ローマ王としてのマクシミリアン1世」 ベルンハルト・シュトリーゲルとその工房、
あるいは工房作 1507/08年頃 ウィーン美術史美術館

神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世( 1459–1519)は文武に秀でた帝王で、結婚政策により
スペイン、オランダ、ボヘミア、ハンガリー、ナポリ、シチリアなどを帝国に加え、
ハプスブルク家の隆盛の基を築いています。
また、アルブレヒト・デューラーなど、芸術家を保護しています。
甲冑が4領、展示されています。
「徒歩槍試合用甲冑」 オーストリア大公フェルディナント2世の
「鷲の紋章付き甲冑セット」より
イェルク・ゾイゼンホーファー(甲冑)およびハンス・ペルクハマー(エッチング)
インスブルック、1547年 ウィーン美術史美術館

フェルディナント2世(1529–1595)は神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の次男で、
ボヘミアやチロルを統治しています。
鷲の紋章が全面に彫られた、見事な鎧です。
マクシミリアン1世の甲冑も展示されていて、そのサイズからマクシミリアン1世は
かなりの長身だったことが分かります。
「神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の肖像」
ヨーゼフ・ハインツ(父) 1592年頃 ウィーン美術史美術館

ルドルフ2世( 1552–1612)はオーストリア系ハプスブルク家の皇帝で、
マクシミリアン1世の玄孫(孫の孫)に当たります。
芸術を庇護した教養人でしたが、政治的能力は低く、帝国内のカトリックと
プロテスタントの対立に悩まされています。
2018年にBunkamuraで開かれた、「ルドルフ2世の驚異の世界展」の記事です。
「スペイン国王フェリペ 4世の肖像」
ディエゴ・ベラスケス 1631-32年 ウィーン美術史美術館

フェリペ 4世( 1605–1665)はスペイン系ハプスブルク家の王で、ベラスケスを庇護し、
自らの肖像画も数多く描かせています。
「青いドレスの王女マルガリータ・テレサ」
ディエゴ・ベラスケス 1659年 ウィーン美術史美術館


マルガリータ・テレサ(1651–1673)はフェリペ 4世の娘で、ベラスケスの代表作、
「ラス・メニ―ナス」にも描かれています。
スペイン・ハプスブルク家は花婿候補のオーストリア・ハプスブルク家のレオポルト1世の
ためにベラスケスにマルガリータの肖像画を描かせ、3点をオーストリアに送っています。
豪華な青のドレスに身を包んだマルガリータは、幼いながら父のフェリペ 4世似の顔で、
輝く金髪がドレスの金と映り合っています。
マルガリータはレオポルト1世と結婚しますが、早くに亡くなっています。
「皇妃マリア・テレジアの肖像」
マルティン・ファン・メイテンス(子) 1745-50年頃 ウィーン美術史美術館

マリア・テレジア(1717–1780)はレオポルト1世の孫で、フランツ1世の皇后、
共同統治者です。
絵には自らが王である、オーストリア、ボヘミア、ハンガリーの3つの王冠も
描かれています。
マリア・テレジアは子沢山で、16人の子女を儲けており、マリー・アントワネットは
十一女です。
「フランス王妃マリー・アントワネットの肖像」
マリー・ルイーズ・エリザベト・ヴィジェ=ルブラン 1778年 ウィーン美術史美術館


マリー・アントワネット(1755–1793)は、新興のプロイセンに対抗するため、フランスとの
同盟をもくろむマリア・テレジアの意向により、14歳でブルボン家のフランス王太子、
後のルイ16世と結婚しています。
結婚してからも母はマリーの軽薄な性格と浪費癖が不幸な結果を生むのではないかと
危惧していますが、その心配は的中してしまいます。
結婚後に母の許に送った絵で、縦約2.5mと、とても大きく、夫のルイ16世や王冠も
描き込まれています。
マリー・ルイーズ・エリザベト・ヴィジェ=ルブラン(1755-1842)はマリー・アントワネットの
お気に入りの画家で、マリー・アントワネットをはじめ、各国の王侯貴族の肖像画を
手掛けています。
2011年に三菱一号館美術館で開かれた、「マリー=アントワネットの画家
ヴィジェ・ルブラン展」の記事です。
「オーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の肖像」
ヴィクトール・シュタウファー 1916年頃 ウィーン美術史美術館

神聖ローマ帝国はナポレオン戦争により1806年に消滅し、ハプスブルク家は
オーストリア帝国の支配者となります。
オーストリア帝国は領域内のハンガリーの要求に応え、1867年にオーストリア
=ハンガリー二重帝国となります。
フランツ・ヨーゼフ1世(1830–1916)はマリア・テレジアの玄孫(孫の孫)に当たります。
在位は68年と極めて長く、まじめな性格で、衰えていく帝国を何とか支えようとしますが、
1914年に皇位継承者が暗殺されたため(サラエボ事件)、セルビアに宣戦布告した
ことから第一次世界大戦が始まってしまいます。
フランツ・ヨーゼフは大戦中の1916年に亡くなり、次のオットー1世は1918年に国外亡命して、
帝国は崩壊しています。
「薄い青のドレスの皇妃エリザベト」
ヨーゼフ・ホラチェク 1858年 ウィーン美術史美術館

エリザベト(1837–1898)はバイエルン公の娘に生まれ、フランツ・ヨーゼフ1世に
見初められて16歳で結婚し、皇后となります。
しかし、ウイーンの窮屈な宮廷や皇后としての役割を嫌い続け、自分の美貌が
自分の立場を強くすることを知り、それを守るための努力を続けています。
50cmという驚異的なウエストを維持するため、食事は牛肉の肉汁か玉子の
白身だけ、毎日の運動を欠かさず、鉄アレイやバーベルも使っています。
絵でもその細いウエストが強調されています。
膝まで届く長い髪をセットするのに2、3時間かけ、洗うのは1日がかりだったと
いいます。
また、ウイーンを逃げ出すため、口実を設けてヨーロッパ中を旅し、「アハスエルス
(彷徨えるユダヤ人、永遠のユダヤ人)も私に比べれば出不精のようなもの」とまで
語っています。
結局、スイスのジュネーブで無政府主義者に胸を刺されて亡くなり、その彷徨える旅を
終えていますが、その奔放さから今でも人気の高い女性です。
2012年に日本橋三越本店で開かれた、「輝ける皇妃 エリザベート展」の記事です。
「ヨハネス・クレーベルガーの肖像」
アルブレヒト・デューラー 1526年 ウィーン美術史美術館

ヨハネス・クレーベルガー(1486–1546)とはどんな人かと思ったら、成金の嫌われ者と
いうことでした。
デューラー晩年の作品で、大枚の画料をもらったのでしょうか、品格をもたせるため
工夫して、古代彫刻風に描いています。
「オデュッセウスとキルケ」
バルトロメウス・スプランゲル 1580-85年頃 ウィーン美術史美術館

バルトロメウス・スプランゲル(1546-1611)はアントワープうまれで、神聖ローマ皇帝
マクシミリアン2世のウィーンで宮廷画家となり、その後、ルドルフ2世に従ってプラハに
移っています。
ホメーロス作の「オデュッセイア」では、魔女キルケの住む島に辿り着いた
オデュッセウスの一行はキルケから与えられた食物を食べ、薬草を持っていた
オデュッセウス以外は豚に変えられてしまいます。
絵ではキルケが人を動物に変えてしまう杖を手に、オデュッセウスに迫っているところです。
「宿屋のふたりの男と少女」
ディエゴ・ベラスケス 1618-19年頃 ブタペスト国立西洋美術館

ベラスケスの若い時の作品で、3人の人物の動きがつながっていて、ちょっとした
家庭ドラマを見るようです。
テーブルの上の、パン、レモン、グラスなどは、人物と独立した静物画のようです。
この作品は2009年に国立新美術館で開かれた、「THE ハプスブルク
-華麗なる王家と美の巨匠たち-」展にも展示されていましたが、その時の題名は
「食卓につく貧しい貴族」でした。
「村の縁日」 ダーフィット・テニールス(子) 1647年頃 ウィーン美術史美術館


お祭りで村の広場は飲めや踊れの大騒ぎの真っ最中です。
ダーフィット・テニールス(子)(1610-1690)はフランドルの画家で、農民の風俗などを
描いて、人気を得ています。
フランドルはハプスブルク家の領地の一つで、総督レオポルト・ヴィルヘルム・フォン
・エスターライヒ(1614-1662)は芸術家を庇護しています。
テニールスは総督のためにイタリア絵画なども収集し、特にイギリスの清教徒革命による
混乱時に、イギリスの王侯貴族の所有していたヴェネツィア派の絵画を多数取得しています。
「堕罪の場面のある楽園の風景」
ヤン・ブリューゲル(父) 1612-13年頃 ウィーン美術史美術館


ヤン・ブリューゲル(父)(1568-1625)はフランドルの画家、ピーテル・ブリューゲルの
次男で、花の絵が得意だったことから、花のブリューゲルと呼ばれています。
一つの画面にさまざまの動物を収める絵もよく描いていて、この絵でも様々な鳥や
動物が描き込まれ、アダムとイヴは奥の方に小さく見えるだけです。
「ベネデット・ヴァルキの肖像」
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1540年頃 ウィーン美術史美術館

ティツィアーノ(1488/1490頃-1576)はルネサンスを代表するヴェネツィアの画家で、
肖像画にも秀でています。
ベネデット・ヴァルキ(1503–1565)はイタリアの詩人、学者で、知的な風貌のモデルは
本を手にしています。
「甲冑をつけた男性の肖像」 ティントレット 1555年頃 ウィーン美術史美術館

ティントレット(1518-94)はティツィアーノの弟子で、ほとんどヴェネツィアを
出ることもなく、ルネサンス後期の
ヴェネツィアを代表する画家となっています。
男性の名前は不明ですが、ヴェネツィアらしく背景に船が見えます。
「ホロフェルネスの首を持つユディト」
ヴェロネーゼ 1580年頃 ウィーン美術史美術館

旧約聖書外典のユディト記に書かれた話で、ユディトは酔って寝込んだ
アッシリアの将軍ホロフェルネスの首を刎ねて、ユダヤの町を救っています。
クラナッハやクリムトも描いた有名な画題で、ユディトは獲った首を上気した
誇らしげな顔で召使に見せています。
パオロ・ヴェロネーゼ(1528-88)はティントレットと共に、ルネサンス後期の
ヴェネツィアを代表する画家で、特に色遣いが見事です。
スペイン・ハプスブルク家は1700年にフェリペ4世の子、カルロス2世の死によって
断絶しています。
オーストリア・ハプスブルク家も1918年に帝国を失っていますが、その子孫は
欧州議会(EUの議会)の議員を努め、
ベルリンの壁崩壊のきっかけとなった、ハンガリーとオーストリアの国境を開放する
1989年のヨーロッパ・ピクニック計画の中心人物ともなっています。
2009年には日本とオーストリア・ハンガリー二重帝国との国交締結140年を記念して、
国立新美術館で「THE ハプスブルク
-華麗なる王家と美の巨匠たち-」が開かれていました。
「THE ハプスブルク
-華麗なる王家と美の巨匠たち-」の記事です。
展覧会のHPです。
chariot
上野の国立西洋美術館では日本・オーストリア友好150周年記念、「ハプスブルク展
600年にわたる帝国コレクションの歴史」が開かれています。
会期は2020年1月26日(日)までです。

中世に始まり、東欧、スペイン、フランドル、イタリアなどを支配したハプスブルク家に
ついての展覧会です。
ウィーン美術史美術館とブダペスト国立西洋美術館の所蔵品を中心に約100件が
展示されています。
ハプスブルク家は10世紀にスイスに興った家で、13世紀にオーストリアに移り、
勢力を伸ばしています。
「ローマ王としてのマクシミリアン1世」 ベルンハルト・シュトリーゲルとその工房、
あるいは工房作 1507/08年頃 ウィーン美術史美術館

神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世( 1459–1519)は文武に秀でた帝王で、結婚政策により
スペイン、オランダ、ボヘミア、ハンガリー、ナポリ、シチリアなどを帝国に加え、
ハプスブルク家の隆盛の基を築いています。
また、アルブレヒト・デューラーなど、芸術家を保護しています。
甲冑が4領、展示されています。
「徒歩槍試合用甲冑」 オーストリア大公フェルディナント2世の
「鷲の紋章付き甲冑セット」より
イェルク・ゾイゼンホーファー(甲冑)およびハンス・ペルクハマー(エッチング)
インスブルック、1547年 ウィーン美術史美術館

フェルディナント2世(1529–1595)は神聖ローマ皇帝フェルディナント1世の次男で、
ボヘミアやチロルを統治しています。
鷲の紋章が全面に彫られた、見事な鎧です。
マクシミリアン1世の甲冑も展示されていて、そのサイズからマクシミリアン1世は
かなりの長身だったことが分かります。
「神聖ローマ皇帝ルドルフ2世の肖像」
ヨーゼフ・ハインツ(父) 1592年頃 ウィーン美術史美術館

ルドルフ2世( 1552–1612)はオーストリア系ハプスブルク家の皇帝で、
マクシミリアン1世の玄孫(孫の孫)に当たります。
芸術を庇護した教養人でしたが、政治的能力は低く、帝国内のカトリックと
プロテスタントの対立に悩まされています。
2018年にBunkamuraで開かれた、「ルドルフ2世の驚異の世界展」の記事です。
「スペイン国王フェリペ 4世の肖像」
ディエゴ・ベラスケス 1631-32年 ウィーン美術史美術館

フェリペ 4世( 1605–1665)はスペイン系ハプスブルク家の王で、ベラスケスを庇護し、
自らの肖像画も数多く描かせています。
「青いドレスの王女マルガリータ・テレサ」
ディエゴ・ベラスケス 1659年 ウィーン美術史美術館


マルガリータ・テレサ(1651–1673)はフェリペ 4世の娘で、ベラスケスの代表作、
「ラス・メニ―ナス」にも描かれています。
スペイン・ハプスブルク家は花婿候補のオーストリア・ハプスブルク家のレオポルト1世の
ためにベラスケスにマルガリータの肖像画を描かせ、3点をオーストリアに送っています。
豪華な青のドレスに身を包んだマルガリータは、幼いながら父のフェリペ 4世似の顔で、
輝く金髪がドレスの金と映り合っています。
マルガリータはレオポルト1世と結婚しますが、早くに亡くなっています。
「皇妃マリア・テレジアの肖像」
マルティン・ファン・メイテンス(子) 1745-50年頃 ウィーン美術史美術館

マリア・テレジア(1717–1780)はレオポルト1世の孫で、フランツ1世の皇后、
共同統治者です。
絵には自らが王である、オーストリア、ボヘミア、ハンガリーの3つの王冠も
描かれています。
マリア・テレジアは子沢山で、16人の子女を儲けており、マリー・アントワネットは
十一女です。
「フランス王妃マリー・アントワネットの肖像」
マリー・ルイーズ・エリザベト・ヴィジェ=ルブラン 1778年 ウィーン美術史美術館


マリー・アントワネット(1755–1793)は、新興のプロイセンに対抗するため、フランスとの
同盟をもくろむマリア・テレジアの意向により、14歳でブルボン家のフランス王太子、
後のルイ16世と結婚しています。
結婚してからも母はマリーの軽薄な性格と浪費癖が不幸な結果を生むのではないかと
危惧していますが、その心配は的中してしまいます。
結婚後に母の許に送った絵で、縦約2.5mと、とても大きく、夫のルイ16世や王冠も
描き込まれています。
マリー・ルイーズ・エリザベト・ヴィジェ=ルブラン(1755-1842)はマリー・アントワネットの
お気に入りの画家で、マリー・アントワネットをはじめ、各国の王侯貴族の肖像画を
手掛けています。
2011年に三菱一号館美術館で開かれた、「マリー=アントワネットの画家
ヴィジェ・ルブラン展」の記事です。
「オーストリア=ハンガリー二重帝国皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の肖像」
ヴィクトール・シュタウファー 1916年頃 ウィーン美術史美術館

神聖ローマ帝国はナポレオン戦争により1806年に消滅し、ハプスブルク家は
オーストリア帝国の支配者となります。
オーストリア帝国は領域内のハンガリーの要求に応え、1867年にオーストリア
=ハンガリー二重帝国となります。
フランツ・ヨーゼフ1世(1830–1916)はマリア・テレジアの玄孫(孫の孫)に当たります。
在位は68年と極めて長く、まじめな性格で、衰えていく帝国を何とか支えようとしますが、
1914年に皇位継承者が暗殺されたため(サラエボ事件)、セルビアに宣戦布告した
ことから第一次世界大戦が始まってしまいます。
フランツ・ヨーゼフは大戦中の1916年に亡くなり、次のオットー1世は1918年に国外亡命して、
帝国は崩壊しています。
「薄い青のドレスの皇妃エリザベト」
ヨーゼフ・ホラチェク 1858年 ウィーン美術史美術館

エリザベト(1837–1898)はバイエルン公の娘に生まれ、フランツ・ヨーゼフ1世に
見初められて16歳で結婚し、皇后となります。
しかし、ウイーンの窮屈な宮廷や皇后としての役割を嫌い続け、自分の美貌が
自分の立場を強くすることを知り、それを守るための努力を続けています。
50cmという驚異的なウエストを維持するため、食事は牛肉の肉汁か玉子の
白身だけ、毎日の運動を欠かさず、鉄アレイやバーベルも使っています。
絵でもその細いウエストが強調されています。
膝まで届く長い髪をセットするのに2、3時間かけ、洗うのは1日がかりだったと
いいます。
また、ウイーンを逃げ出すため、口実を設けてヨーロッパ中を旅し、「アハスエルス
(彷徨えるユダヤ人、永遠のユダヤ人)も私に比べれば出不精のようなもの」とまで
語っています。
結局、スイスのジュネーブで無政府主義者に胸を刺されて亡くなり、その彷徨える旅を
終えていますが、その奔放さから今でも人気の高い女性です。
2012年に日本橋三越本店で開かれた、「輝ける皇妃 エリザベート展」の記事です。
「ヨハネス・クレーベルガーの肖像」
アルブレヒト・デューラー 1526年 ウィーン美術史美術館

ヨハネス・クレーベルガー(1486–1546)とはどんな人かと思ったら、成金の嫌われ者と
いうことでした。
デューラー晩年の作品で、大枚の画料をもらったのでしょうか、品格をもたせるため
工夫して、古代彫刻風に描いています。
「オデュッセウスとキルケ」
バルトロメウス・スプランゲル 1580-85年頃 ウィーン美術史美術館

バルトロメウス・スプランゲル(1546-1611)はアントワープうまれで、神聖ローマ皇帝
マクシミリアン2世のウィーンで宮廷画家となり、その後、ルドルフ2世に従ってプラハに
移っています。
ホメーロス作の「オデュッセイア」では、魔女キルケの住む島に辿り着いた
オデュッセウスの一行はキルケから与えられた食物を食べ、薬草を持っていた
オデュッセウス以外は豚に変えられてしまいます。
絵ではキルケが人を動物に変えてしまう杖を手に、オデュッセウスに迫っているところです。
「宿屋のふたりの男と少女」
ディエゴ・ベラスケス 1618-19年頃 ブタペスト国立西洋美術館

ベラスケスの若い時の作品で、3人の人物の動きがつながっていて、ちょっとした
家庭ドラマを見るようです。
テーブルの上の、パン、レモン、グラスなどは、人物と独立した静物画のようです。
この作品は2009年に国立新美術館で開かれた、「THE ハプスブルク
-華麗なる王家と美の巨匠たち-」展にも展示されていましたが、その時の題名は
「食卓につく貧しい貴族」でした。
「村の縁日」 ダーフィット・テニールス(子) 1647年頃 ウィーン美術史美術館


お祭りで村の広場は飲めや踊れの大騒ぎの真っ最中です。
ダーフィット・テニールス(子)(1610-1690)はフランドルの画家で、農民の風俗などを
描いて、人気を得ています。
フランドルはハプスブルク家の領地の一つで、総督レオポルト・ヴィルヘルム・フォン
・エスターライヒ(1614-1662)は芸術家を庇護しています。
テニールスは総督のためにイタリア絵画なども収集し、特にイギリスの清教徒革命による
混乱時に、イギリスの王侯貴族の所有していたヴェネツィア派の絵画を多数取得しています。
「堕罪の場面のある楽園の風景」
ヤン・ブリューゲル(父) 1612-13年頃 ウィーン美術史美術館


ヤン・ブリューゲル(父)(1568-1625)はフランドルの画家、ピーテル・ブリューゲルの
次男で、花の絵が得意だったことから、花のブリューゲルと呼ばれています。
一つの画面にさまざまの動物を収める絵もよく描いていて、この絵でも様々な鳥や
動物が描き込まれ、アダムとイヴは奥の方に小さく見えるだけです。
「ベネデット・ヴァルキの肖像」
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 1540年頃 ウィーン美術史美術館

ティツィアーノ(1488/1490頃-1576)はルネサンスを代表するヴェネツィアの画家で、
肖像画にも秀でています。
ベネデット・ヴァルキ(1503–1565)はイタリアの詩人、学者で、知的な風貌のモデルは
本を手にしています。
「甲冑をつけた男性の肖像」 ティントレット 1555年頃 ウィーン美術史美術館

ティントレット(1518-94)はティツィアーノの弟子で、ほとんどヴェネツィアを
出ることもなく、ルネサンス後期の
ヴェネツィアを代表する画家となっています。
男性の名前は不明ですが、ヴェネツィアらしく背景に船が見えます。
「ホロフェルネスの首を持つユディト」
ヴェロネーゼ 1580年頃 ウィーン美術史美術館

旧約聖書外典のユディト記に書かれた話で、ユディトは酔って寝込んだ
アッシリアの将軍ホロフェルネスの首を刎ねて、ユダヤの町を救っています。
クラナッハやクリムトも描いた有名な画題で、ユディトは獲った首を上気した
誇らしげな顔で召使に見せています。
パオロ・ヴェロネーゼ(1528-88)はティントレットと共に、ルネサンス後期の
ヴェネツィアを代表する画家で、特に色遣いが見事です。
スペイン・ハプスブルク家は1700年にフェリペ4世の子、カルロス2世の死によって
断絶しています。
オーストリア・ハプスブルク家も1918年に帝国を失っていますが、その子孫は
欧州議会(EUの議会)の議員を努め、
ベルリンの壁崩壊のきっかけとなった、ハンガリーとオーストリアの国境を開放する
1989年のヨーロッパ・ピクニック計画の中心人物ともなっています。
2009年には日本とオーストリア・ハンガリー二重帝国との国交締結140年を記念して、
国立新美術館で「THE ハプスブルク
-華麗なる王家と美の巨匠たち-」が開かれていました。
「THE ハプスブルク
-華麗なる王家と美の巨匠たち-」の記事です。
展覧会のHPです。
上野
「カフェ・アート」は上野の東京都美術館の1階にあります。
場所は台東区上野公園8-36です。

上野精養軒の運営しているお店で、美術館の開館時間と同じ、朝9:30から
開いています。
両側がガラスの広いスペースは明るく、50席ほどあって、全席禁煙です。

「コートールド美術館展 魅惑の印象派」を観た帰りに寄りました。
チーズケーキセット950円です。

チーズケーキは2層になっていて、しっとりとして美味しいです。
美術館のカフェらしく、図録を持ったお客さんなどがゆっくりおしゃべりを
楽しんでいました。
「コートールド美術館展 魅惑の印象派」の記事です。
東京都美術館の1階には、同じ精養軒の運営する「レストラン・サロン」が、
2階には「レストラン・ミューズ」があります。
chariot
「カフェ・アート」は上野の東京都美術館の1階にあります。
場所は台東区上野公園8-36です。

上野精養軒の運営しているお店で、美術館の開館時間と同じ、朝9:30から
開いています。
両側がガラスの広いスペースは明るく、50席ほどあって、全席禁煙です。

「コートールド美術館展 魅惑の印象派」を観た帰りに寄りました。
チーズケーキセット950円です。

チーズケーキは2層になっていて、しっとりとして美味しいです。
美術館のカフェらしく、図録を持ったお客さんなどがゆっくりおしゃべりを
楽しんでいました。
「コートールド美術館展 魅惑の印象派」の記事です。
東京都美術館の1階には、同じ精養軒の運営する「レストラン・サロン」が、
2階には「レストラン・ミューズ」があります。
恵比寿
広尾の山種美術館では開館10周年記念特別展、「大観・春草・玉堂・龍子
―日本画のパイオニアー」が開かれています。
会期は10月27日(日)までです。

日本画の革新に取組んだ、横山大観(1868-1958)、菱田春草(1874-1911)、
川合玉堂(1873-1957)、川端龍子(かわばたりゅうし、1885-1966)の
4人の作品の展示です。
菱田春草 「釣帰」 1901年

横山大観と菱田春草は日本美術院の創設に参加し、1900年頃からは光や空気感を
出すために輪郭線を使わないで描く技法を手掛けています。
輪郭線が無いため、ぼんやりした印象があり、当時は「朦朧体」と呼ばれ、
非難されています。
菱田春草 「月四題」のうち「秋」 1909-10年頃

1911年に36歳で亡くなった春草の、最晩年の作品です。
朦朧体を終えた春草はやがて琳派風の画風に行き着いています。
葡萄の葉は琳派のたらし込みの技法を用いています。
2014年に東京国立近代美術館で開かれた「菱田春草」展の記事です。
横山大観は菱田春草とともに日本画改革に取組み、春草の亡くなった後、
1913年には日本美術院を再興しています。
横山大観 「作右衛門の家」 1916年

男が鎌を手に飼葉を担いで帰ってくると、厩では馬が音を聞き付けて嬉しそうに
足掻いています。
作右衛門とは農民一般を表す名前です。
桐の木は大きな葉を付け、栗の木には青い実が生っています。
自然と人事が一体となった理想郷を描いていて、おだやかな味わいがあります。
横山大観 「喜撰山」 1919年

百人一首に載っている、喜撰法師の歌に拠っています。
喜撰法師は宇治に住んでいたとされます。
わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり
金箋紙(裏に金箔を押した鳥の子紙の表面を薄く剥いだもの)に描いた
最初の作品で、明るく温かい地色が映えています。
京都の土の赤さを表現するために使ったと考えられるそうです。
横山大観 「心神」 1952年

「心神」には「富士山」の意味もあるということです。
大観は戦前戦後を通じ、富士山の絵を数多く描いています。
晩年の作品で、雲海に屹立する富士の孤高の姿に、
敗戦後の日本の復興への思いを込めているのでしょう。
2013年に横浜美術館で開かれた「横山大観展」の記事です。
川合玉堂は日本美術院の設立当初から参加し、情趣豊かな風景画を描いています。
川合玉堂 「春風春水」 1940年

川の急流に張ったワイヤーを使った渡し舟には農婦が乗り、
岩場には山桜が咲いています。
満々とした蒼い水の描写が印象的な作品です。
川合玉堂 「山雨一過」 1943(昭和18)年

雨上がりの山道の情景です。
谷から吹き上がる風に木々も草も馬子の蓑も揺れ、雲も千切れて飛んで行きます。
戦時中に作品とは思えない、おだやかな景色です。
川合玉堂 「早乙女」 1945(昭和20)年

終戦の年に描かれていますが、常と変わらぬ農村の営みです。
畦道は一気に引いたような太い線で、たらし込みも使われています。
田植は早乙女が中心になる農作業ですが、戦時中で男手の足りない
時でもあり、「銃後の守り」の意味も込めているそうです。
川合玉堂 「渓雨紅樹」 1946年

谷あいの村は雨に煙り、紅葉した木々の葉はうなだれています。
白抜きで表された道を傘を差した人が二人歩いています。
川合玉堂はよく風景の中に何人かの人を描いて、人のつながりを表しています。
写生の折に見かけた水車小屋の風景を気に入り、自宅の庭に水車を作って
その音を楽しんだということです。
2017年に山種美術館で開かれた「川合玉堂展」の記事です。
川端龍子は洋画を学んでいましたが日本画に転向し、横山大観の日本美術院に
参加しています。
そして青龍社を設立し、従来のいわゆる「床の間芸術」に対抗して、広い展示場での
展示に耐える、「会場芸術」を追及しています。
川端龍子 「鳴門」 1929(昭和4)年 山種美術館



横約8m以上もある大作で、濃い群青の波が渦巻く、迫力いっぱいの画面が
広がっています。
青龍社の第1回展の出品作で、「会場芸術」を目指す川端龍子の意気込みが
表れています。
松竹梅を横山大観、河合玉堂、川端龍子の三人で描いた三幅対も展示されています。
向こう気の強そうな大観と龍子ですが、おだやかな性格の玉堂が取り持ったようです。
山種美術館のHPです。
次回の展覧会は山種美術館広尾開館10周年記念特別展、「東山魁夷の青・奥田元宋の赤
―色で読み解く日本画―」です。
会期は11月2日(土)から12月22日(日)までです。

chariot
広尾の山種美術館では開館10周年記念特別展、「大観・春草・玉堂・龍子
―日本画のパイオニアー」が開かれています。
会期は10月27日(日)までです。

日本画の革新に取組んだ、横山大観(1868-1958)、菱田春草(1874-1911)、
川合玉堂(1873-1957)、川端龍子(かわばたりゅうし、1885-1966)の
4人の作品の展示です。
菱田春草 「釣帰」 1901年

横山大観と菱田春草は日本美術院の創設に参加し、1900年頃からは光や空気感を
出すために輪郭線を使わないで描く技法を手掛けています。
輪郭線が無いため、ぼんやりした印象があり、当時は「朦朧体」と呼ばれ、
非難されています。
菱田春草 「月四題」のうち「秋」 1909-10年頃

1911年に36歳で亡くなった春草の、最晩年の作品です。
朦朧体を終えた春草はやがて琳派風の画風に行き着いています。
葡萄の葉は琳派のたらし込みの技法を用いています。
2014年に東京国立近代美術館で開かれた「菱田春草」展の記事です。
横山大観は菱田春草とともに日本画改革に取組み、春草の亡くなった後、
1913年には日本美術院を再興しています。
横山大観 「作右衛門の家」 1916年

男が鎌を手に飼葉を担いで帰ってくると、厩では馬が音を聞き付けて嬉しそうに
足掻いています。
作右衛門とは農民一般を表す名前です。
桐の木は大きな葉を付け、栗の木には青い実が生っています。
自然と人事が一体となった理想郷を描いていて、おだやかな味わいがあります。
横山大観 「喜撰山」 1919年

百人一首に載っている、喜撰法師の歌に拠っています。
喜撰法師は宇治に住んでいたとされます。
わが庵は都のたつみしかぞすむ世をうぢ山と人はいふなり
金箋紙(裏に金箔を押した鳥の子紙の表面を薄く剥いだもの)に描いた
最初の作品で、明るく温かい地色が映えています。
京都の土の赤さを表現するために使ったと考えられるそうです。
横山大観 「心神」 1952年

「心神」には「富士山」の意味もあるということです。
大観は戦前戦後を通じ、富士山の絵を数多く描いています。
晩年の作品で、雲海に屹立する富士の孤高の姿に、
敗戦後の日本の復興への思いを込めているのでしょう。
2013年に横浜美術館で開かれた「横山大観展」の記事です。
川合玉堂は日本美術院の設立当初から参加し、情趣豊かな風景画を描いています。
川合玉堂 「春風春水」 1940年

川の急流に張ったワイヤーを使った渡し舟には農婦が乗り、
岩場には山桜が咲いています。
満々とした蒼い水の描写が印象的な作品です。
川合玉堂 「山雨一過」 1943(昭和18)年

雨上がりの山道の情景です。
谷から吹き上がる風に木々も草も馬子の蓑も揺れ、雲も千切れて飛んで行きます。
戦時中に作品とは思えない、おだやかな景色です。
川合玉堂 「早乙女」 1945(昭和20)年

終戦の年に描かれていますが、常と変わらぬ農村の営みです。
畦道は一気に引いたような太い線で、たらし込みも使われています。
田植は早乙女が中心になる農作業ですが、戦時中で男手の足りない
時でもあり、「銃後の守り」の意味も込めているそうです。
川合玉堂 「渓雨紅樹」 1946年

谷あいの村は雨に煙り、紅葉した木々の葉はうなだれています。
白抜きで表された道を傘を差した人が二人歩いています。
川合玉堂はよく風景の中に何人かの人を描いて、人のつながりを表しています。
写生の折に見かけた水車小屋の風景を気に入り、自宅の庭に水車を作って
その音を楽しんだということです。
2017年に山種美術館で開かれた「川合玉堂展」の記事です。
川端龍子は洋画を学んでいましたが日本画に転向し、横山大観の日本美術院に
参加しています。
そして青龍社を設立し、従来のいわゆる「床の間芸術」に対抗して、広い展示場での
展示に耐える、「会場芸術」を追及しています。
川端龍子 「鳴門」 1929(昭和4)年 山種美術館



横約8m以上もある大作で、濃い群青の波が渦巻く、迫力いっぱいの画面が
広がっています。
青龍社の第1回展の出品作で、「会場芸術」を目指す川端龍子の意気込みが
表れています。
松竹梅を横山大観、河合玉堂、川端龍子の三人で描いた三幅対も展示されています。
向こう気の強そうな大観と龍子ですが、おだやかな性格の玉堂が取り持ったようです。
山種美術館のHPです。
次回の展覧会は山種美術館広尾開館10周年記念特別展、「東山魁夷の青・奥田元宋の赤
―色で読み解く日本画―」です。
会期は11月2日(土)から12月22日(日)までです。

上野
上野の東京国立博物館平成館では御即位記念特別展、「正倉院の世界
―皇室がまもり伝えた美―」が開かれています。
会期は11月24日(日)までです。
11月4日までの前期と6日からの後期でかなりの展示替えがありますので、
展覧会のHPでご確認ください。

天皇陛下の即位を記念して、正倉院宝物と法隆寺献納宝物を同時に展示する展覧会です。
正倉院宝物は聖武天皇、光明皇后遺愛の品を東大寺に献納したものを中心にしたもので、
現在は宮内庁の正倉院事務所が管理しています。
「東大寺献物帳」(国家珍宝帳)(部分)
奈良時代・天平勝宝8歳(756年) 正倉院宝物

前期の展示です。
五巻ある献納品の目録の内の国家珍宝帳で、盧舎那仏に奉献すると記されています。
法隆寺献納宝物は孝謙天皇が献納した父聖武天皇の遺愛の品など、飛鳥・奈良時代の
宝物で、明治時代に法隆寺から皇室に献納され、現在は東京国立博物館の所蔵と
なっています。
「法隆寺献物帳」(部分) 奈良時代・天平勝宝8歳(756年) 東京国立博物館 国宝
前期の展示です。
孝謙天皇が献納した父聖武天皇の遺愛の品の目録です。
末尾には藤原仲麻呂や藤原永手らの自署もあります。
藤原仲麻呂は後に孝謙天皇が僧道鏡を寵愛したことに反発して、恵美押勝の乱(764年)を
起こし、敗死しますが、藤原永手は孝謙天皇に従っています。
「平螺鈿背円鏡」 中国 唐時代・8世紀 正倉院宝物


国家珍宝帳に載っている品で、前期の展示です。
螺鈿や琥珀で花鳥文を表し、間に小さなラピスラズリやトルコ石を埋めています。
単眼鏡で見ると、螺鈿には繊細な毛彫りが施されているのが分かります。
後期には似たデザインの「平螺鈿背八角鏡」が展示されます。
「螺鈿紫檀五絃琵琶」 中国 唐時代・8世紀 正倉院宝物



国家珍宝帳に載っている品で、前期の展示です。
頭部が真っ直ぐに伸びている、インド起源の五絃琵琶で、唐から伝来しています。
古代の品で現存するのは正倉院所蔵の1品のみとのことです。
紫檀の木地に夜光貝の螺鈿や玳瑁(たいまい)で見事な装飾がなされ、
螺鈿には毛彫りが施されています。
フタコブラクダの背に敷物を掛けて乗った人物が琵琶を奏でています。
よく見るとこちらは頭部が直角に折れた、イラン起源の四弦琵琶です。
正倉院の宝物の復元模造事業によって模造され、今年完成した螺鈿紫檀五絃琵琶も
一緒に展示されています。
「黄熟香」 東南アジア 正倉院宝物

蘭奢待(らんじゃたい)の別名があり、これは字の中に東・大・寺が入っているものです。
沈香(じんこう)という、焚くと良い香りのする香木で、古くから正倉院に納められています。
何十回か切り取られており、そのうち右から足利義政、織田信長、明治天皇による
切り取りを表す札が貼ってあります。
「伎楽面 酔胡王」 奈良時代・宝亀9年(778) 正倉院宝物

前期の展示です。
伎楽の中で、西方の王様と家来が酒宴を開き、酔っぱらって盛り上がるという、
まことに目出度い演目で使われます。
帽子をかぶった形で、鼻は大きく、ヒゲは動物の毛が付けてあります。
平成16年(2004)完成の色鮮やかな模造の面も一緒に展示されています。
会場の一部は撮影可能です。
明治32年(1899)模造の螺鈿紫檀五絃琵琶です。


実物大の正倉院が再現されていました。

学生時代に正倉院の前で記念写真を撮った時、文字通り高床式倉庫なのを見て
感心したことを思い出します。
正倉院の扉を模した撮影スポットもあります。

正倉院では収蔵品の塵芥(ゴミ)も集めて分類整理しているということで、
塵芥も展示されています。
奈良時代以来、長い期間にわたり、努力を重ねて文化財の保存管理や研究を
続けていることが分かります。
今年、宮内庁三の丸尚蔵館では「正倉院宝物を伝える―復元模造の製作事業と
保存継承」展が開かれていました。
「正倉院宝物を伝える―復元模造の製作事業と保存継承」展の記事です。
展覧会のHPです。
chariot
上野の東京国立博物館平成館では御即位記念特別展、「正倉院の世界
―皇室がまもり伝えた美―」が開かれています。
会期は11月24日(日)までです。
11月4日までの前期と6日からの後期でかなりの展示替えがありますので、
展覧会のHPでご確認ください。

天皇陛下の即位を記念して、正倉院宝物と法隆寺献納宝物を同時に展示する展覧会です。
正倉院宝物は聖武天皇、光明皇后遺愛の品を東大寺に献納したものを中心にしたもので、
現在は宮内庁の正倉院事務所が管理しています。
「東大寺献物帳」(国家珍宝帳)(部分)
奈良時代・天平勝宝8歳(756年) 正倉院宝物

前期の展示です。
五巻ある献納品の目録の内の国家珍宝帳で、盧舎那仏に奉献すると記されています。
法隆寺献納宝物は孝謙天皇が献納した父聖武天皇の遺愛の品など、飛鳥・奈良時代の
宝物で、明治時代に法隆寺から皇室に献納され、現在は東京国立博物館の所蔵と
なっています。
「法隆寺献物帳」(部分) 奈良時代・天平勝宝8歳(756年) 東京国立博物館 国宝
前期の展示です。
孝謙天皇が献納した父聖武天皇の遺愛の品の目録です。
末尾には藤原仲麻呂や藤原永手らの自署もあります。
藤原仲麻呂は後に孝謙天皇が僧道鏡を寵愛したことに反発して、恵美押勝の乱(764年)を
起こし、敗死しますが、藤原永手は孝謙天皇に従っています。
「平螺鈿背円鏡」 中国 唐時代・8世紀 正倉院宝物


国家珍宝帳に載っている品で、前期の展示です。
螺鈿や琥珀で花鳥文を表し、間に小さなラピスラズリやトルコ石を埋めています。
単眼鏡で見ると、螺鈿には繊細な毛彫りが施されているのが分かります。
後期には似たデザインの「平螺鈿背八角鏡」が展示されます。
「螺鈿紫檀五絃琵琶」 中国 唐時代・8世紀 正倉院宝物



国家珍宝帳に載っている品で、前期の展示です。
頭部が真っ直ぐに伸びている、インド起源の五絃琵琶で、唐から伝来しています。
古代の品で現存するのは正倉院所蔵の1品のみとのことです。
紫檀の木地に夜光貝の螺鈿や玳瑁(たいまい)で見事な装飾がなされ、
螺鈿には毛彫りが施されています。
フタコブラクダの背に敷物を掛けて乗った人物が琵琶を奏でています。
よく見るとこちらは頭部が直角に折れた、イラン起源の四弦琵琶です。
正倉院の宝物の復元模造事業によって模造され、今年完成した螺鈿紫檀五絃琵琶も
一緒に展示されています。
「黄熟香」 東南アジア 正倉院宝物

蘭奢待(らんじゃたい)の別名があり、これは字の中に東・大・寺が入っているものです。
沈香(じんこう)という、焚くと良い香りのする香木で、古くから正倉院に納められています。
何十回か切り取られており、そのうち右から足利義政、織田信長、明治天皇による
切り取りを表す札が貼ってあります。
「伎楽面 酔胡王」 奈良時代・宝亀9年(778) 正倉院宝物

前期の展示です。
伎楽の中で、西方の王様と家来が酒宴を開き、酔っぱらって盛り上がるという、
まことに目出度い演目で使われます。
帽子をかぶった形で、鼻は大きく、ヒゲは動物の毛が付けてあります。
平成16年(2004)完成の色鮮やかな模造の面も一緒に展示されています。
会場の一部は撮影可能です。
明治32年(1899)模造の螺鈿紫檀五絃琵琶です。


実物大の正倉院が再現されていました。

学生時代に正倉院の前で記念写真を撮った時、文字通り高床式倉庫なのを見て
感心したことを思い出します。
正倉院の扉を模した撮影スポットもあります。

正倉院では収蔵品の塵芥(ゴミ)も集めて分類整理しているということで、
塵芥も展示されています。
奈良時代以来、長い期間にわたり、努力を重ねて文化財の保存管理や研究を
続けていることが分かります。
今年、宮内庁三の丸尚蔵館では「正倉院宝物を伝える―復元模造の製作事業と
保存継承」展が開かれていました。
「正倉院宝物を伝える―復元模造の製作事業と保存継承」展の記事です。
展覧会のHPです。
大手町
大手町の宮内庁三の丸尚蔵館では「大礼―慶祝の形」展が開かれています。
会期は2020年1月19日(日)まで、休館日は毎週月曜日・金曜日、入館は無料です。
10月27日までの第1期と11月2日から12月8日までの第2期、12月14日からの第3期で
全点展示替えがありますので、
展覧会のHPでご確認下さい。

大正天皇と昭和天皇の御即位の大礼に際し、国内外から贈られた
お祝いの美術工芸品の展示です。
松岡映丘 「富嶽茶園」 昭和3年(1928)

部分

第1期の展示です。
昭和天皇御即位記念に静岡県茶業組合連合会議所より献上された掛軸です。
写生を繰り返したとのことで、茶摘み、大井川に架かる鉄橋、駿河湾、富士山と続く
景色が松岡映丘らしい色調で描かれています。
鏑木清方 「讃春」 6曲1双 昭和8年(1933)
右隻

左隻

部分

第1期の展示です。
昭和天皇御即位記念に三菱財閥の岩崎家より献上された屏風で、
右隻の皇居前広場では紺のセーラー服姿の女学生が二人、
タンポポを摘んだり、松の根元で休んだりしています。
向こうには当時の黒塗りの箱型自動車や、富士見櫓が見えます。
万葉集の巻頭歌、菜を摘む乙女に呼びかけたとされる、雄略天皇の歌を
思い出します。
左隻は隅田川に小舟を浮かべた水上生活者の情景です。
赤い着物のおかっぱ頭の小さな女の子が船底を覗き、中から母親が
優しく見上げています。
金具も捲れた古い和船ですが、バケツには桜の枝が活けてあります。
遠くの清洲橋の吊橋型の橋がぼんやり浮かんでいます。
近代的な鋼鉄橋を、鏑木清方らしく浮世絵風にあしらっています。
舟には七輪が載っていて、火が起きています。
仁徳天皇の「民のかまどはにぎはひにけり」の故事に依っているのでしょう。
清洲橋は関東大震災の復興事業として計画され、昭和3年に完成しており、
震災からの東京の復興の意味も表しています。
城櫓に自動車、鋼鉄橋に和船と、江戸と近代を上手く取り合わせていて、
上流家庭の子も庶民も、共に春を慶ぶ情景を描いたものですが、
隅田川の貧しい水上生活者を選んだのは、鏑木清方らしい着想だと思います。
「デンマーク汽船図花瓶」 (制作)ロイヤル・コペンハーゲン社,
(絵付)クリスチャン・ベンジャミン・オールセン/デンマーク 1928年

第1期の展示です。
昭和天皇御即位の大礼に際して、デンマーク王国国王クリスチャン10世より
贈呈されています。
クリスチャン・ベンジャミン・オールセン(1873-1935)は船の絵をよく描いた画家です。
展覧会のHPです。
chariot
大手町の宮内庁三の丸尚蔵館では「大礼―慶祝の形」展が開かれています。
会期は2020年1月19日(日)まで、休館日は毎週月曜日・金曜日、入館は無料です。
10月27日までの第1期と11月2日から12月8日までの第2期、12月14日からの第3期で
全点展示替えがありますので、
展覧会のHPでご確認下さい。

大正天皇と昭和天皇の御即位の大礼に際し、国内外から贈られた
お祝いの美術工芸品の展示です。
松岡映丘 「富嶽茶園」 昭和3年(1928)

部分

第1期の展示です。
昭和天皇御即位記念に静岡県茶業組合連合会議所より献上された掛軸です。
写生を繰り返したとのことで、茶摘み、大井川に架かる鉄橋、駿河湾、富士山と続く
景色が松岡映丘らしい色調で描かれています。
鏑木清方 「讃春」 6曲1双 昭和8年(1933)
右隻

左隻

部分

第1期の展示です。
昭和天皇御即位記念に三菱財閥の岩崎家より献上された屏風で、
右隻の皇居前広場では紺のセーラー服姿の女学生が二人、
タンポポを摘んだり、松の根元で休んだりしています。
向こうには当時の黒塗りの箱型自動車や、富士見櫓が見えます。
万葉集の巻頭歌、菜を摘む乙女に呼びかけたとされる、雄略天皇の歌を
思い出します。
左隻は隅田川に小舟を浮かべた水上生活者の情景です。
赤い着物のおかっぱ頭の小さな女の子が船底を覗き、中から母親が
優しく見上げています。
金具も捲れた古い和船ですが、バケツには桜の枝が活けてあります。
遠くの清洲橋の吊橋型の橋がぼんやり浮かんでいます。
近代的な鋼鉄橋を、鏑木清方らしく浮世絵風にあしらっています。
舟には七輪が載っていて、火が起きています。
仁徳天皇の「民のかまどはにぎはひにけり」の故事に依っているのでしょう。
清洲橋は関東大震災の復興事業として計画され、昭和3年に完成しており、
震災からの東京の復興の意味も表しています。
城櫓に自動車、鋼鉄橋に和船と、江戸と近代を上手く取り合わせていて、
上流家庭の子も庶民も、共に春を慶ぶ情景を描いたものですが、
隅田川の貧しい水上生活者を選んだのは、鏑木清方らしい着想だと思います。
「デンマーク汽船図花瓶」 (制作)ロイヤル・コペンハーゲン社,
(絵付)クリスチャン・ベンジャミン・オールセン/デンマーク 1928年

第1期の展示です。
昭和天皇御即位の大礼に際して、デンマーク王国国王クリスチャン10世より
贈呈されています。
クリスチャン・ベンジャミン・オールセン(1873-1935)は船の絵をよく描いた画家です。
展覧会のHPです。