乃木坂
六本木の国立新美術館では「メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年」が
開かれています。
会期は5月30日(月)まで、火曜日は休館日です。

ニューヨークのメトロポリタン美術館のヨーロッパ絵画部門の所蔵する約2500点から
ルネサンスのフラ・アンジェリコからポスト印象派のゴーギャンまで、65点を選んで
展示しています。
作品数が多いので、今日は「I.信仰とルネサンス」を載せます。
フラ・アンジェリコ(本名 グイド・ディ・ピエトロ) 「キリストの磔刑」 1420-23年頃

小さな作品ですが、人物をよく観るとジヨット(1267-1337)の影響を受けていることが
分かります。
フラ・フィリッポ・リッピ 「玉座の聖母子と二人の天使」 1440年頃

フィリッポ・リッピ(1406-1469)はフィレンツェの画家で、ボッティチェリの師です。
ピエロ・ディ・コジモ(本名 ピエロ・ディ・ロレンツォ・ディ・ピエロ・ダントニオ)
「狩りの場面」 1494–1500年頃

ピエロ・ディ・コジモ(1462年頃 - 1521)はフィレンツェで活動した画家です。
男や半人半獣の人物たちが棍棒を振り上げたり、熊に喰らい付いたりと
暴れ回っています。
青白い死体も短縮法で描かれていて、いかにも俺は短縮法が使えるぞとでも
言いたげです。
ラファエロ・サンツィオ(サンティ) 「ゲッセマネの祈り」 1504年頃

20~21歳頃に描かれた小さな作品で、女子修道院の祭壇画の最下部に描かれて
いたそうです。
新約聖書で、最後の晩餐の後にゲッセマネの園を訪れたイエスが祈っている間、
弟子たちが眠り込んでいる場面です。
イエスの言葉にある「杯」も描き込まれています。
ルカス・クラーナハ(父) 「パリスの審判」 1528年頃

トロイア戦争の元になった、パリスがヘラ・アテナ・アプロディテの三美神のうち
誰が一番美しいかを選んでいる場面で、パリスは甲冑を着て、三美神は
思い思いのポーズを取っています。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 「ヴィーナスとアドニス」 1550年代

命の危険が待っていることも知らず、好きな狩りに出かけようとするアドニスと、
それを懸命に押し止めようとするヴィーナス(アフロディテ)です。
二人の体が絡み合い、バロック的な動きのある画面になっています。
パオロ・ヴェロネーゼ(本名 パオロ・カリアーリ)
「少年とグレイハウンド」 おそらく1570年代

地味ですが、上品で深みのある色調です。
パオロ・ヴェロネーゼ(1528-88)はティントレットと共にルネサンス後期の
ヴェネツィアを代表する画家で、色遣いが抜群です。
エル・グレコ(本名 ドメニコス・テオトコプーロス)
「羊飼いの礼拝」 1605–10年頃

誕生したイエスを羊飼いが礼拝する場面で、幼児イエスは光り輝き、
エル・グレコらしい、上へと向かう沸き立つような躍動感があります。
展覧会のHPです。
chariot
六本木の国立新美術館では「メトロポリタン美術館展 西洋絵画の500年」が
開かれています。
会期は5月30日(月)まで、火曜日は休館日です。

ニューヨークのメトロポリタン美術館のヨーロッパ絵画部門の所蔵する約2500点から
ルネサンスのフラ・アンジェリコからポスト印象派のゴーギャンまで、65点を選んで
展示しています。
作品数が多いので、今日は「I.信仰とルネサンス」を載せます。
フラ・アンジェリコ(本名 グイド・ディ・ピエトロ) 「キリストの磔刑」 1420-23年頃

小さな作品ですが、人物をよく観るとジヨット(1267-1337)の影響を受けていることが
分かります。
フラ・フィリッポ・リッピ 「玉座の聖母子と二人の天使」 1440年頃

フィリッポ・リッピ(1406-1469)はフィレンツェの画家で、ボッティチェリの師です。
ピエロ・ディ・コジモ(本名 ピエロ・ディ・ロレンツォ・ディ・ピエロ・ダントニオ)
「狩りの場面」 1494–1500年頃

ピエロ・ディ・コジモ(1462年頃 - 1521)はフィレンツェで活動した画家です。
男や半人半獣の人物たちが棍棒を振り上げたり、熊に喰らい付いたりと
暴れ回っています。
青白い死体も短縮法で描かれていて、いかにも俺は短縮法が使えるぞとでも
言いたげです。
ラファエロ・サンツィオ(サンティ) 「ゲッセマネの祈り」 1504年頃

20~21歳頃に描かれた小さな作品で、女子修道院の祭壇画の最下部に描かれて
いたそうです。
新約聖書で、最後の晩餐の後にゲッセマネの園を訪れたイエスが祈っている間、
弟子たちが眠り込んでいる場面です。
イエスの言葉にある「杯」も描き込まれています。
ルカス・クラーナハ(父) 「パリスの審判」 1528年頃

トロイア戦争の元になった、パリスがヘラ・アテナ・アプロディテの三美神のうち
誰が一番美しいかを選んでいる場面で、パリスは甲冑を着て、三美神は
思い思いのポーズを取っています。
ティツィアーノ・ヴェチェッリオ 「ヴィーナスとアドニス」 1550年代

命の危険が待っていることも知らず、好きな狩りに出かけようとするアドニスと、
それを懸命に押し止めようとするヴィーナス(アフロディテ)です。
二人の体が絡み合い、バロック的な動きのある画面になっています。
パオロ・ヴェロネーゼ(本名 パオロ・カリアーリ)
「少年とグレイハウンド」 おそらく1570年代

地味ですが、上品で深みのある色調です。
パオロ・ヴェロネーゼ(1528-88)はティントレットと共にルネサンス後期の
ヴェネツィアを代表する画家で、色遣いが抜群です。
エル・グレコ(本名 ドメニコス・テオトコプーロス)
「羊飼いの礼拝」 1605–10年頃

誕生したイエスを羊飼いが礼拝する場面で、幼児イエスは光り輝き、
エル・グレコらしい、上へと向かう沸き立つような躍動感があります。
展覧会のHPです。
湯島・神保町
夜の湯島天神を通りました。

吊り灯篭も梅の模様です。


咲いている梅も増えてきました。


月も出ていました。

風の無い夜だったので、木の下には甘い香りが漂っていました。
春の夜のやみはあやなし梅の花色こそ見えねかやはかくるる
凡河内躬恒
湯島では3日13日(日)まで「第14回 ねこまつり at 湯島」が開かれていて、
あちこちのお店が参加しています。
湯島天神近くの「イーグル カフェ」も参加していて、猫がフェルメールの
「真珠の耳飾りの少女」の姿になった絵もかざってあります。


以前、「イーグル カフェ」に行った時の記事です。
神保町も歩いてみました。
神保町に集まっているスノーボード店は北京オリンピックのおかげで、
訪れるお客さんが増えているようです。

優美堂は神田小川町2丁目の靖国通りにあった額縁店で、再生プロジェクトにより
リノベーションして、現在はコミュニティアートスペースになっています。

おや、犬がいると思って後で調べたら、名前はののという秋田犬でした。



「優美堂再生プロジェクト」の記事です。
優美堂のHPです。
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夜の湯島天神を通りました。

吊り灯篭も梅の模様です。


咲いている梅も増えてきました。


月も出ていました。

風の無い夜だったので、木の下には甘い香りが漂っていました。
春の夜のやみはあやなし梅の花色こそ見えねかやはかくるる
凡河内躬恒
湯島では3日13日(日)まで「第14回 ねこまつり at 湯島」が開かれていて、
あちこちのお店が参加しています。
湯島天神近くの「イーグル カフェ」も参加していて、猫がフェルメールの
「真珠の耳飾りの少女」の姿になった絵もかざってあります。


以前、「イーグル カフェ」に行った時の記事です。
神保町も歩いてみました。
神保町に集まっているスノーボード店は北京オリンピックのおかげで、
訪れるお客さんが増えているようです。

優美堂は神田小川町2丁目の靖国通りにあった額縁店で、再生プロジェクトにより
リノベーションして、現在はコミュニティアートスペースになっています。

おや、犬がいると思って後で調べたら、名前はののという秋田犬でした。



「優美堂再生プロジェクト」の記事です。
優美堂のHPです。
渋谷
Bunkamuraザ・ミュージアムでは「ミロ展 日本を夢みて」が開かれています。
会期は4月17日(日)までです。

ジョアン・ミロ(1893-1983)は日本に深い関心を寄せていた画家で、展覧会では
日本との関係にも注目しています。
ミロはバルセロナの生まれで、1912年にバルセロナの美術学校に入学しています。
「アンリク・クリストフル・リカルの肖像」 1917年 ニューヨーク近代美術館

アンリク・クリストフル・リカルは美術学校の友人で、ともに日本文化への
関心を持っていました。
油彩画ですが、背景に日本の浮世絵をコラージュしてあります。
ちりめん絵という、幕末から明治にかけて輸出された安価な浮世絵で、
絵師の名も不詳ということです。
パレットも描かれていてリカルが画学生であることを示しています。
シャツの太い縞が大胆で、色彩も輝いて元気の良い絵です。
「花と蝶」 1922-23年 横浜美術館

ハイビスカスとカンナを差した花瓶に蝶を配していて、日本の活け花のような
趣きのある絵です。
リカルは戦国時代の連歌師、荒木田守武の句をカタルーニャ語に訳してもいます。
落花枝(らっかえ)にかへると見れば胡蝶かな
ミロは1918年にバルセロナの画廊で初の個展を開いています。
その後パリに出て、シュルレアリスムの運動に参加していますが、作風は他の
シュルレアリスムの画家とかなり違います。
「パイプを吸う男」 1925年 富山県立近代美術館

ミロの画風が出来上がっています。
パイプの煙がぷかぷかと浮いていて、ミロの作品にはどこかとぼけた味わいがあります。
「焼けた森の中の人物たちによる構成」 1931年 ジュアン・ミロ財団、バルセロナ

日本で最初に公開されたミロの作品で、1932年から日本で開かれた
巴里東京新興美術展に出展されています。
ミロなど、シュルレアリスムの絵画や詩は山中散生や瀧口修造たちによって
戦前から日本に紹介されています。
「絵画(カタツムリ、女、花、星)」 1934年 国立ソフィア王妃芸術センター

フランスの実業家の依頼によるタペストリーの原寸大の下絵です。
文字も描き込まれていて、リズム感があります。
画面の中に絵と文字があるというのは東洋画の一つの特徴です。
「ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子」 1945年 福岡市美術館

第2次世界大戦中にマヨルカ島に籠っていた時の作品です。
教会のオルガンの響き、ステンドグラスの輝きを絵画化しています。
「絵画」 1966年 ピラール&ジュアン・ミロ財団、マジョルカ

1966年に来日し、帰国した1か月後に描いた作品です。
日本の書に触発された作品で、油彩ですが木炭も使われ、にじみ、はねも
表現されています。
ミロが収集していた日本の民芸品や大津絵も展示されていて、ミロの日本文化への
関心の深さが窺えます。
展覧会のHPです。
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Bunkamuraザ・ミュージアムでは「ミロ展 日本を夢みて」が開かれています。
会期は4月17日(日)までです。

ジョアン・ミロ(1893-1983)は日本に深い関心を寄せていた画家で、展覧会では
日本との関係にも注目しています。
ミロはバルセロナの生まれで、1912年にバルセロナの美術学校に入学しています。
「アンリク・クリストフル・リカルの肖像」 1917年 ニューヨーク近代美術館

アンリク・クリストフル・リカルは美術学校の友人で、ともに日本文化への
関心を持っていました。
油彩画ですが、背景に日本の浮世絵をコラージュしてあります。
ちりめん絵という、幕末から明治にかけて輸出された安価な浮世絵で、
絵師の名も不詳ということです。
パレットも描かれていてリカルが画学生であることを示しています。
シャツの太い縞が大胆で、色彩も輝いて元気の良い絵です。
「花と蝶」 1922-23年 横浜美術館

ハイビスカスとカンナを差した花瓶に蝶を配していて、日本の活け花のような
趣きのある絵です。
リカルは戦国時代の連歌師、荒木田守武の句をカタルーニャ語に訳してもいます。
落花枝(らっかえ)にかへると見れば胡蝶かな
ミロは1918年にバルセロナの画廊で初の個展を開いています。
その後パリに出て、シュルレアリスムの運動に参加していますが、作風は他の
シュルレアリスムの画家とかなり違います。
「パイプを吸う男」 1925年 富山県立近代美術館

ミロの画風が出来上がっています。
パイプの煙がぷかぷかと浮いていて、ミロの作品にはどこかとぼけた味わいがあります。
「焼けた森の中の人物たちによる構成」 1931年 ジュアン・ミロ財団、バルセロナ

日本で最初に公開されたミロの作品で、1932年から日本で開かれた
巴里東京新興美術展に出展されています。
ミロなど、シュルレアリスムの絵画や詩は山中散生や瀧口修造たちによって
戦前から日本に紹介されています。
「絵画(カタツムリ、女、花、星)」 1934年 国立ソフィア王妃芸術センター

フランスの実業家の依頼によるタペストリーの原寸大の下絵です。
文字も描き込まれていて、リズム感があります。
画面の中に絵と文字があるというのは東洋画の一つの特徴です。
「ゴシック聖堂でオルガン演奏を聞いている踊り子」 1945年 福岡市美術館

第2次世界大戦中にマヨルカ島に籠っていた時の作品です。
教会のオルガンの響き、ステンドグラスの輝きを絵画化しています。
「絵画」 1966年 ピラール&ジュアン・ミロ財団、マジョルカ

1966年に来日し、帰国した1か月後に描いた作品です。
日本の書に触発された作品で、油彩ですが木炭も使われ、にじみ、はねも
表現されています。
ミロが収集していた日本の民芸品や大津絵も展示されていて、ミロの日本文化への
関心の深さが窺えます。
展覧会のHPです。
上野
上野の東京都美術館では、「ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと
17世紀オランダ絵画展」が開かれています。
会期は4月3日(日)までです。


大規模修復事業の終わったヨハネス・フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」を始め、
ドレスデン国立古典絵画館所蔵の17世紀オランダ絵画、約70点を展示する展覧会です。
ドレスデン国立古典絵画館はドレスデン国立美術館の一部で、ザクセン選帝侯の
コレクションを基礎としています。
17世紀オランダは貿易で栄えた都市市民の嗜好を反映して、神話や歴史を離れた
人物画、風俗画、静物画、風景画などが数多く描かれており、今見ても親しみやすさが
あります。
ヨハネス・フェルメール 「窓辺で手紙を読む女」 1657-59年頃
縦83㎝、横64.5cmの大きさです。
左側の窓から差し込む光に照らされた女性という、フェルメールのスタイルになっています。
1979年のX線調査の結果、当初は壁にキューピッドの絵が描かれていて、後に上塗りで
隠されていたことが分かりました。
「ヴァージナルの前に立つ女」の画中画にもなっている絵です。
当初はフェルメール自身が上塗りしたと考えられていましたが、その後の細密な調査で
上塗りはフェルメールの死後にされたことが判明しました。
この絵は長くレンブラントの作と思われていて、1742年にザクセン選帝侯のコレクションに
入った時、レンブラントの作品らしく見せるため、壁の部分を上塗りしたのではないかとの
説があるそうです。
レンブラントは生前から有名だったのに比べ、当時はフェルメールはそれほど知られて
いなかったとのことです。
確かにキューピッドを隠すと、風俗画より人物の内面性を感じさせる絵になります。
今回、修復が終わって当初の姿になった作品が展示されています。
隣には修復前の絵の複製も展示されていて、印象の違いが分かります。
これは修復途中の画像で、キューピッドの姿が現れだしています。


キューピッドの絵は仮面を踏みつけていて、真の愛は嘘に勝つという寓意を表しており、
手紙を読む女性という題材に意味付けをしているように見えます。
女性の衣服や手前の毛織物、染付の大皿から転がった果物も細密に描かれ、質感も
表されています。
影の表現も上手く、手紙を持つ手の影も実に巧みに描かれています。
窓ガラスには女性自身も写っていますが、窓の外の景色はまったく描かれていません。
観る人の意識を窓の外に向けさせない工夫でしょうか、フェルメールは窓を描いても
外の景色を描きません。
レンブラント・ファン・レイン 「若きサスキアの肖像」 1633年

初期の作品で、妻となるサスキアを描いています。
顔の下半分と首にスポットライトのように光を当て、暗い背景から浮かび上がらせています。
レンブラントはこの年にサスキアと婚約していて、サスキアは多くの作品のモデルとなります。
ハブリエル・メツー 「レースを編む女」 1661-64年頃


ハブリエル・メツー(1629 -1667)はライデンやアムステルダムで活動した風俗画家です。
落着いた色調で、衣服の毛皮や絹の質感まで表されています。
足元のアンカには猫が乗っています。
猫は西洋画では不純な官能の象徴とされていますが、この絵では猫は寒がりという
習性を捉えているように見えます。
ヘラルト・テル・ボルフ 「手を洗う女」 1655-56年頃

召使の差し出す水差しの水で手を洗う女性を描いていて、絹のドレスの表現も巧みです。
手を洗うという行為にも何かの寓意があるようです。
ヘラルト・テル・ボルフ(1617 - 1681)は肖像画家、風俗画家で、各国を旅行し、
1648に結ばれた三十年戦争の講和条約のウエストファリア条約の一部である
ミュンスター条約の締結調印の場面も描いています。
ヤン・ステーン 「ハガルの追放」 1655-57年頃


縦136cmの大きな絵で、旧約聖書創世記の一場面です。
アブラハムが奴隷のサライと自分とハガルの間の子、イシュマエルを戸口から追い出し、
それを頼んだ妻のサライは息子のイサクのシラミを取ってあげています。
イシュマエルはアラブ人の祖とされる人物です。
家庭内のいざこざといった描き振りで、聖書の話なのにシラミを取るといった
当時の庶民の日常を描き込んでいます。
泣いているハガルが水瓶を提げているのは後の荒野での渇きと神の救済を
表しているのでしょうか。
ヤン・ステーン(1626-1679)はライデンやハールレムで活動した画家で、
猥雑な情景の風俗画で有名です。
ヤン・デ・ヘーム 「花瓶と果物」 1670-72年頃

精密な筆遣いによって暗い背景から浮かび上がるようにみずみずしい花や果物を
描いています。
ヤン・デ・ヘーム(1606-1684以前)は細密な静物画を得意とした画家です。
ヤーコプ・ファン・ライスダール 「城山の前の滝」 1665-70年頃


急流や倒木、深い森林、沸き上がる雲など劇的な構成で、遠くの丘には城砦も見えます。
ヤーコプ・ファン・ライスダール(1628 – 1682)は17世紀オランダの代表的な風景画家です。
フェルメールの作品が展示されているということで評判の高い展覧会で、かなりの観覧者が
訪れていました。
展覧会のHPです。
chariot
上野の東京都美術館では、「ドレスデン国立古典絵画館所蔵 フェルメールと
17世紀オランダ絵画展」が開かれています。
会期は4月3日(日)までです。


大規模修復事業の終わったヨハネス・フェルメールの「窓辺で手紙を読む女」を始め、
ドレスデン国立古典絵画館所蔵の17世紀オランダ絵画、約70点を展示する展覧会です。
ドレスデン国立古典絵画館はドレスデン国立美術館の一部で、ザクセン選帝侯の
コレクションを基礎としています。
17世紀オランダは貿易で栄えた都市市民の嗜好を反映して、神話や歴史を離れた
人物画、風俗画、静物画、風景画などが数多く描かれており、今見ても親しみやすさが
あります。
ヨハネス・フェルメール 「窓辺で手紙を読む女」 1657-59年頃
縦83㎝、横64.5cmの大きさです。
左側の窓から差し込む光に照らされた女性という、フェルメールのスタイルになっています。
1979年のX線調査の結果、当初は壁にキューピッドの絵が描かれていて、後に上塗りで
隠されていたことが分かりました。
「ヴァージナルの前に立つ女」の画中画にもなっている絵です。
当初はフェルメール自身が上塗りしたと考えられていましたが、その後の細密な調査で
上塗りはフェルメールの死後にされたことが判明しました。
この絵は長くレンブラントの作と思われていて、1742年にザクセン選帝侯のコレクションに
入った時、レンブラントの作品らしく見せるため、壁の部分を上塗りしたのではないかとの
説があるそうです。
レンブラントは生前から有名だったのに比べ、当時はフェルメールはそれほど知られて
いなかったとのことです。
確かにキューピッドを隠すと、風俗画より人物の内面性を感じさせる絵になります。
今回、修復が終わって当初の姿になった作品が展示されています。
隣には修復前の絵の複製も展示されていて、印象の違いが分かります。
これは修復途中の画像で、キューピッドの姿が現れだしています。


キューピッドの絵は仮面を踏みつけていて、真の愛は嘘に勝つという寓意を表しており、
手紙を読む女性という題材に意味付けをしているように見えます。
女性の衣服や手前の毛織物、染付の大皿から転がった果物も細密に描かれ、質感も
表されています。
影の表現も上手く、手紙を持つ手の影も実に巧みに描かれています。
窓ガラスには女性自身も写っていますが、窓の外の景色はまったく描かれていません。
観る人の意識を窓の外に向けさせない工夫でしょうか、フェルメールは窓を描いても
外の景色を描きません。
レンブラント・ファン・レイン 「若きサスキアの肖像」 1633年

初期の作品で、妻となるサスキアを描いています。
顔の下半分と首にスポットライトのように光を当て、暗い背景から浮かび上がらせています。
レンブラントはこの年にサスキアと婚約していて、サスキアは多くの作品のモデルとなります。
ハブリエル・メツー 「レースを編む女」 1661-64年頃


ハブリエル・メツー(1629 -1667)はライデンやアムステルダムで活動した風俗画家です。
落着いた色調で、衣服の毛皮や絹の質感まで表されています。
足元のアンカには猫が乗っています。
猫は西洋画では不純な官能の象徴とされていますが、この絵では猫は寒がりという
習性を捉えているように見えます。
ヘラルト・テル・ボルフ 「手を洗う女」 1655-56年頃

召使の差し出す水差しの水で手を洗う女性を描いていて、絹のドレスの表現も巧みです。
手を洗うという行為にも何かの寓意があるようです。
ヘラルト・テル・ボルフ(1617 - 1681)は肖像画家、風俗画家で、各国を旅行し、
1648に結ばれた三十年戦争の講和条約のウエストファリア条約の一部である
ミュンスター条約の締結調印の場面も描いています。
ヤン・ステーン 「ハガルの追放」 1655-57年頃


縦136cmの大きな絵で、旧約聖書創世記の一場面です。
アブラハムが奴隷のサライと自分とハガルの間の子、イシュマエルを戸口から追い出し、
それを頼んだ妻のサライは息子のイサクのシラミを取ってあげています。
イシュマエルはアラブ人の祖とされる人物です。
家庭内のいざこざといった描き振りで、聖書の話なのにシラミを取るといった
当時の庶民の日常を描き込んでいます。
泣いているハガルが水瓶を提げているのは後の荒野での渇きと神の救済を
表しているのでしょうか。
ヤン・ステーン(1626-1679)はライデンやハールレムで活動した画家で、
猥雑な情景の風俗画で有名です。
ヤン・デ・ヘーム 「花瓶と果物」 1670-72年頃

精密な筆遣いによって暗い背景から浮かび上がるようにみずみずしい花や果物を
描いています。
ヤン・デ・ヘーム(1606-1684以前)は細密な静物画を得意とした画家です。
ヤーコプ・ファン・ライスダール 「城山の前の滝」 1665-70年頃


急流や倒木、深い森林、沸き上がる雲など劇的な構成で、遠くの丘には城砦も見えます。
ヤーコプ・ファン・ライスダール(1628 – 1682)は17世紀オランダの代表的な風景画家です。
フェルメールの作品が展示されているということで評判の高い展覧会で、かなりの観覧者が
訪れていました。
展覧会のHPです。
三越前
日本橋三越本店7階催物会場では「岩合光昭写真展 こねこ」が開かれています。
会期は2月28日(月)まで、入場料は一般1000円です。

日本の他、ヨーロッパ、アフリカ、アジアなど世界各地で元気に遊ぶ子猫たちの写真、
約150点が展示され、それぞれに短いコメントも添えられています。
子猫がとびきりやんちゃで可愛いのは世界共通です。
催事場の隣には広い販売所が設けられ、さまざまな猫グッズがたくさん置かれていて、
見るだけで楽しくなります。
展覧会のHPです。
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日本橋三越本店7階催物会場では「岩合光昭写真展 こねこ」が開かれています。
会期は2月28日(月)まで、入場料は一般1000円です。

日本の他、ヨーロッパ、アフリカ、アジアなど世界各地で元気に遊ぶ子猫たちの写真、
約150点が展示され、それぞれに短いコメントも添えられています。
子猫がとびきりやんちゃで可愛いのは世界共通です。
催事場の隣には広い販売所が設けられ、さまざまな猫グッズがたくさん置かれていて、
見るだけで楽しくなります。
展覧会のHPです。
六本木・乃木坂
サントリー美術館では御大典記念 特別展、「よみがえる正倉院宝物―再現模造にみる
天平の技―」が開かれています。
会期は3月27日(日)まで、休館日は火曜日です。

正倉院宝物は明治時代に宮内省正倉院御物整理掛が修理と模造を始め、
昭和47年(1972)からは宮内庁正倉院事務所によって模造製作が行なわれ、
数百件以上の作品が製作されています。
展覧会ではそのうち100件以上が展示されています。
「螺鈿紫檀五絃琵琶」 [木地]坂本曲齋(三代)[象嵌]新田紀雲
[加飾]北村昭斎、松浦直子[絃]丸三ハシモト株式会社
平成23~30年(2011~18) 宮内庁正倉院事務所蔵


頭部が真っ直ぐに伸びている、インド起源の五絃琵琶で、唐から伝来し、古代の品で
現存するのは正倉院所蔵の1品のみとのことです。
フタコブラクダの背に敷物を掛けて乗った人物が琵琶を奏でています。
よく見るとこちらは頭部が直角に折れた、イラン起源の四弦琵琶です。
紫檀の木地に夜光貝の螺鈿や玳瑁(たいまい)で見事な装飾が施されています。
弦には上皇后陛下の飼育されている日本在来種の蚕、小石丸の糸が使われています。
木地の紫檀の歪みの補正などのため、制作には8年も要しているとのことです。
「磁鼓」 加藤卓男 昭和62年(1987) 宮内庁正倉院事務所蔵

緑・黄・白の釉薬を施した陶製の鼓の胴で、唐三彩に似た趣きがあります。
くびれた胴の鼓は唐楽で用いる細腰鼓の一種で、インド発祥とのことです。
加藤卓男(1917-2005)は人間国宝の陶芸家で、ラスター彩や正倉院三彩などの
再現を手掛けています。
磁鼓は大阪府の交野、岐阜県の五斗蒔、信楽の土を混ぜて製作しています。
「酔胡王面」 財団法人美術院 国宝修理所
平成14~15年(2002~03) 宮内庁正倉院事務所蔵

伎楽面で、酔っぱらった胡人(ペルシャ人)の王様を表しています。
同じく酔っぱらった酔胡従たちと一緒に舞うという、のどかな演目です。
伎楽は推古天皇の時に中国から伝えられたとする演劇です。
冠の色彩も華やかで、ほとんど脱落していた顎髭は黒毛馬の尾毛を
植え付けて再現しています。
「黄銅合子」 [鋳造]般若勘溪 [彫金]浦島紫星
平成16年(2004) 宮内庁正倉院事務所蔵

高さ約15㎝の香を入れる容器で、五重相輪の形をした部分はガラス玉など、
約50点の部品で出来ています。
高岡銅器の技術で製作されました。
「紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく)」 吉田文之
昭和53年(1978) 宮内庁正倉院事務所蔵


長さ約30㎝、儀礼用の物差しと思われます。
象牙を紅や緑で染め、それを彫って模様を出す撥鏤という技法で鳳凰、おしどり、
宝相華文などがこの上なく繊細に彫られています。
吉田文之(1915-2004)は撥鏤のぎじゅつにより人間国宝に認定されています。
「子日目利箒(ねのひのめとぎのほうき) 附 粉地彩絵倚几」
森川杜園 明治時代(19世紀) 奈良国立博物館蔵

養蚕の儀式で用いられる箒で、メドハギを束ねてあります。
森川杜園(1820-1894)は彫刻家で、現在の奈良一刀彫の創始者でもあります。
「赤地唐花文錦」 ㈱川島織物 平成14年(2002) 宮内庁正倉院事務所蔵


唐花文(宝相華文)が織られた錦で、原品は仏堂を飾る幡(ばん)に使われていました。
模造に当たっては、糸は上皇后陛下が育てられた小石丸の糸を使い、皇居内に
自生する日本茜で染めています。
6色の緯糸を使い、当時の錦の織り幅より倍の幅のため、2人並んで織ったそうです。
「螺鈿箱」 [素地]川北良造 [髹漆・加飾]北村大通 [嚫]高田義男
昭和51~52・54年(1976~77・79) 宮内庁正倉院事務所蔵

紺玉帯(こんぎょくのおび)という革ベルトを納める箱でした。
桧の黒漆塗りで、螺鈿や水晶で装飾されています。
「紺玉帯」 牧田三郎 昭和55年(1980) 宮内庁正倉院事務所蔵
四角や丸のラピスラズリの板を貼って飾ったベルトで、バックルの部分は現代と同じです。
「紅牙撥鏤碁子・紺牙撥鏤碁子」 村松親月 平成8年(1996) 奈良国立博物館蔵
白と黒でなく、紅と紺の碁石で、可愛い鳥が彫ってあります。
「正倉院古文書正集 第七巻 道鏡牒・良弁牒ほか」
国立歴史民俗博物館 昭和58年(1984) 宮内庁正倉院事務所蔵
東大寺の開山、良弁(689-774)や孝謙天皇に寵愛された道鏡(700?-772)の
自筆書状を納めた巻の模造です。
道鏡の書状には天平宝字七年三月十日の日付があります。
正倉院にはかつて多数の武具類も保管されていたのが、道鏡と対立していた
藤原仲麻呂が天平宝字8年(764)に起こした藤原仲麻呂の乱の時に持ち出され、
そのまま、還ってこなかったそうです。
「続修正倉院古文書 第二十巻(写経生請暇解)」
国立歴史民俗博物館 昭和62年(1987) 宮内庁正倉院事務所蔵
お経を書写する写経生の休暇願を集めています。
作業衣の洗濯や母親の看病など、いろいろの理由で休んでいたようです。
こんな日常業務についての書類がよく残っていたものです。
どれも国風文化が生まれる平安時代より前の時代の物品なので、大陸文化の
華を感じます。
今では絶えてしまった技法もあり、材料の入手も大変だったことでしょうが、
よくこれだけ見事に再現できたものだと感心します。
是非、これからもこの技を継承していってほしいものです。
展覧会のHPです。
chariot
サントリー美術館では御大典記念 特別展、「よみがえる正倉院宝物―再現模造にみる
天平の技―」が開かれています。
会期は3月27日(日)まで、休館日は火曜日です。

正倉院宝物は明治時代に宮内省正倉院御物整理掛が修理と模造を始め、
昭和47年(1972)からは宮内庁正倉院事務所によって模造製作が行なわれ、
数百件以上の作品が製作されています。
展覧会ではそのうち100件以上が展示されています。
「螺鈿紫檀五絃琵琶」 [木地]坂本曲齋(三代)[象嵌]新田紀雲
[加飾]北村昭斎、松浦直子[絃]丸三ハシモト株式会社
平成23~30年(2011~18) 宮内庁正倉院事務所蔵


頭部が真っ直ぐに伸びている、インド起源の五絃琵琶で、唐から伝来し、古代の品で
現存するのは正倉院所蔵の1品のみとのことです。
フタコブラクダの背に敷物を掛けて乗った人物が琵琶を奏でています。
よく見るとこちらは頭部が直角に折れた、イラン起源の四弦琵琶です。
紫檀の木地に夜光貝の螺鈿や玳瑁(たいまい)で見事な装飾が施されています。
弦には上皇后陛下の飼育されている日本在来種の蚕、小石丸の糸が使われています。
木地の紫檀の歪みの補正などのため、制作には8年も要しているとのことです。
「磁鼓」 加藤卓男 昭和62年(1987) 宮内庁正倉院事務所蔵

緑・黄・白の釉薬を施した陶製の鼓の胴で、唐三彩に似た趣きがあります。
くびれた胴の鼓は唐楽で用いる細腰鼓の一種で、インド発祥とのことです。
加藤卓男(1917-2005)は人間国宝の陶芸家で、ラスター彩や正倉院三彩などの
再現を手掛けています。
磁鼓は大阪府の交野、岐阜県の五斗蒔、信楽の土を混ぜて製作しています。
「酔胡王面」 財団法人美術院 国宝修理所
平成14~15年(2002~03) 宮内庁正倉院事務所蔵

伎楽面で、酔っぱらった胡人(ペルシャ人)の王様を表しています。
同じく酔っぱらった酔胡従たちと一緒に舞うという、のどかな演目です。
伎楽は推古天皇の時に中国から伝えられたとする演劇です。
冠の色彩も華やかで、ほとんど脱落していた顎髭は黒毛馬の尾毛を
植え付けて再現しています。
「黄銅合子」 [鋳造]般若勘溪 [彫金]浦島紫星
平成16年(2004) 宮内庁正倉院事務所蔵

高さ約15㎝の香を入れる容器で、五重相輪の形をした部分はガラス玉など、
約50点の部品で出来ています。
高岡銅器の技術で製作されました。
「紅牙撥鏤尺(こうげばちるのしゃく)」 吉田文之
昭和53年(1978) 宮内庁正倉院事務所蔵



長さ約30㎝、儀礼用の物差しと思われます。
象牙を紅や緑で染め、それを彫って模様を出す撥鏤という技法で鳳凰、おしどり、
宝相華文などがこの上なく繊細に彫られています。
吉田文之(1915-2004)は撥鏤のぎじゅつにより人間国宝に認定されています。
「子日目利箒(ねのひのめとぎのほうき) 附 粉地彩絵倚几」
森川杜園 明治時代(19世紀) 奈良国立博物館蔵

養蚕の儀式で用いられる箒で、メドハギを束ねてあります。
森川杜園(1820-1894)は彫刻家で、現在の奈良一刀彫の創始者でもあります。
「赤地唐花文錦」 ㈱川島織物 平成14年(2002) 宮内庁正倉院事務所蔵


唐花文(宝相華文)が織られた錦で、原品は仏堂を飾る幡(ばん)に使われていました。
模造に当たっては、糸は上皇后陛下が育てられた小石丸の糸を使い、皇居内に
自生する日本茜で染めています。
6色の緯糸を使い、当時の錦の織り幅より倍の幅のため、2人並んで織ったそうです。
「螺鈿箱」 [素地]川北良造 [髹漆・加飾]北村大通 [嚫]高田義男
昭和51~52・54年(1976~77・79) 宮内庁正倉院事務所蔵

紺玉帯(こんぎょくのおび)という革ベルトを納める箱でした。
桧の黒漆塗りで、螺鈿や水晶で装飾されています。
「紺玉帯」 牧田三郎 昭和55年(1980) 宮内庁正倉院事務所蔵
四角や丸のラピスラズリの板を貼って飾ったベルトで、バックルの部分は現代と同じです。
「紅牙撥鏤碁子・紺牙撥鏤碁子」 村松親月 平成8年(1996) 奈良国立博物館蔵
白と黒でなく、紅と紺の碁石で、可愛い鳥が彫ってあります。
「正倉院古文書正集 第七巻 道鏡牒・良弁牒ほか」
国立歴史民俗博物館 昭和58年(1984) 宮内庁正倉院事務所蔵
東大寺の開山、良弁(689-774)や孝謙天皇に寵愛された道鏡(700?-772)の
自筆書状を納めた巻の模造です。
道鏡の書状には天平宝字七年三月十日の日付があります。
正倉院にはかつて多数の武具類も保管されていたのが、道鏡と対立していた
藤原仲麻呂が天平宝字8年(764)に起こした藤原仲麻呂の乱の時に持ち出され、
そのまま、還ってこなかったそうです。
「続修正倉院古文書 第二十巻(写経生請暇解)」
国立歴史民俗博物館 昭和62年(1987) 宮内庁正倉院事務所蔵
お経を書写する写経生の休暇願を集めています。
作業衣の洗濯や母親の看病など、いろいろの理由で休んでいたようです。
こんな日常業務についての書類がよく残っていたものです。
どれも国風文化が生まれる平安時代より前の時代の物品なので、大陸文化の
華を感じます。
今では絶えてしまった技法もあり、材料の入手も大変だったことでしょうが、
よくこれだけ見事に再現できたものだと感心します。
是非、これからもこの技を継承していってほしいものです。
展覧会のHPです。
東京
丸善丸の内本店4階ギャラリーでは「丸猫展 Catアートフェスタ Part2」が開かれています。
会期は2月22(火)までです。
2月20日(日)は法定点検のため休業とのことです。

出店作家は以下の通りです。
天野千恵美(絵画・立体)/五十嵐俊介(張り子)/岡村洋子(陶芸)/奥平浩美(ジュエリー)
小澤康麿(陶芸・絵画)/春日 粧(染色)/桐山暁(版画)/小出信久(ミニチュア木彫り)
鴻巣三千代(立体・絵画)/小島美知代(立体造形)/櫻井魔己子(立体造形)
松風直美(切り絵)/なつめみちこ(粘土・立体作品)/平林義教・利依子(七宝焼)
布施和佳子(絵画)/細山田匡宏(立体造形)/水谷満(陶芸他)/目羅健嗣(絵画)
会場で制作している作家の方もおられました。
目羅健嗣さんの作品は古今の名画の中に猫も一緒に描かれています。
布施和佳子さんの作品は可愛い猫がロンドン観光を楽しんだりしています。

ギャラリーだけでなく、丸善4階の店舗スペースのかなりの部分も使って、
さまざまな猫グッズが展示販売され、フロアは猫尽くしになっています。
chariot
丸善丸の内本店4階ギャラリーでは「丸猫展 Catアートフェスタ Part2」が開かれています。
会期は2月22(火)までです。
2月20日(日)は法定点検のため休業とのことです。

出店作家は以下の通りです。
天野千恵美(絵画・立体)/五十嵐俊介(張り子)/岡村洋子(陶芸)/奥平浩美(ジュエリー)
小澤康麿(陶芸・絵画)/春日 粧(染色)/桐山暁(版画)/小出信久(ミニチュア木彫り)
鴻巣三千代(立体・絵画)/小島美知代(立体造形)/櫻井魔己子(立体造形)
松風直美(切り絵)/なつめみちこ(粘土・立体作品)/平林義教・利依子(七宝焼)
布施和佳子(絵画)/細山田匡宏(立体造形)/水谷満(陶芸他)/目羅健嗣(絵画)
会場で制作している作家の方もおられました。
目羅健嗣さんの作品は古今の名画の中に猫も一緒に描かれています。
布施和佳子さんの作品は可愛い猫がロンドン観光を楽しんだりしています。

ギャラリーだけでなく、丸善4階の店舗スペースのかなりの部分も使って、
さまざまな猫グッズが展示販売され、フロアは猫尽くしになっています。
三越前
日本橋三越本店6階美術サロンでは2月21日(月)まで「陰翳礼賛 京都絵美 日本画展」が
開かれています。
京都絵美(みやこえみ)さん(1981-)は福岡県出身で、日本美術院院友、
創作と仏教絵画の研究を行なっておられます。
展覧会では咲き誇る牡丹を描いた六曲一隻の屏風や女性、花、孔雀を題材にした
作品が展示されています。
色調は淡く柔らかく、特に日本画の特徴のしなやかな線描が魅力です。
京都さんは2016年のSeed山種美術館日本画アワードでは大賞を受賞されています。
(参考)
京都絵美 「ゆめうつつ」 2016年

更紗を着た女性が夢を見ているような表情で、漂うように浮かび上がっています。
肌の色の濃淡やペイズリーの柄によって、日本画には珍しい立体感のある作品です。
*****
同じ6階の美術工芸サロンでは2月22日(火)まで「奈良一刀彫雛人形展」が
開かれています。

奈良一刀彫は奈良県の伝統工芸で、平安時代末期に春日大社の祭礼で
用いられたこと始まるとされています。
鑿の彫り跡を残した、角張った素朴な形に華やかな彩色を施すのが特徴で、
段飾雛や立雛、五月人形などが彫られています。
段飾雛 荒木義人作

段飾雛 神泉作

段飾雛 鐵山作

立雛 前田浩幸作

立雛 義山作

五月人形 瀬谷桃源作

明るく愛らしいお雛様を見ていると、いよいよ春が近いなと思います。
chariot
日本橋三越本店6階美術サロンでは2月21日(月)まで「陰翳礼賛 京都絵美 日本画展」が
開かれています。
京都絵美(みやこえみ)さん(1981-)は福岡県出身で、日本美術院院友、
創作と仏教絵画の研究を行なっておられます。
展覧会では咲き誇る牡丹を描いた六曲一隻の屏風や女性、花、孔雀を題材にした
作品が展示されています。
色調は淡く柔らかく、特に日本画の特徴のしなやかな線描が魅力です。
京都さんは2016年のSeed山種美術館日本画アワードでは大賞を受賞されています。
(参考)
京都絵美 「ゆめうつつ」 2016年

更紗を着た女性が夢を見ているような表情で、漂うように浮かび上がっています。
肌の色の濃淡やペイズリーの柄によって、日本画には珍しい立体感のある作品です。
*****
同じ6階の美術工芸サロンでは2月22日(火)まで「奈良一刀彫雛人形展」が
開かれています。

奈良一刀彫は奈良県の伝統工芸で、平安時代末期に春日大社の祭礼で
用いられたこと始まるとされています。
鑿の彫り跡を残した、角張った素朴な形に華やかな彩色を施すのが特徴で、
段飾雛や立雛、五月人形などが彫られています。
段飾雛 荒木義人作

段飾雛 神泉作

段飾雛 鐵山作

立雛 前田浩幸作

立雛 義山作

五月人形 瀬谷桃源作

明るく愛らしいお雛様を見ていると、いよいよ春が近いなと思います。
地獄図
この前、六道の一つ、修羅道である戦いの絵を集めたので、今回は同じく六道の一つ、
地獄を描いた絵を揃えてみました。
「地獄極楽図屏風」 2曲1双 鎌倉時代・13~14世紀
京都・金戒光明寺蔵 重要文化財

右下に現世、左下に地獄、上には阿弥陀仏の浄土世界が広がっています。
現世では殺生、強盗の様、地獄では火に焼かれる人びとが描かれています。



「六道絵」 鎌倉時代 聖衆来迎寺 国宝

聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)は大津市にある、最澄を開基と伝える
天台宗のお寺です。
地獄、餓鬼、畜生など六道のさまを描いた15幅のうち、「等活地獄図」です。
「地蔵十王図」 紙本着色 13幅のうち4幅 江戸時代 東京・東覚寺


地獄で人は閻魔王はじめ秦広王・初江王など10人の王(十王)の裁きを受けることに
なっています。
秦広王は初七日、閻魔王は35日目に裁きを行ないます。
諸王にはそれぞれ、本地仏があり、閻魔王の本地仏は地蔵菩薩とされています。
稚拙な、ちょっと笑える表現の十王で、左上にはそれぞれの本地仏も描かれています。
右端の絵では亡者が天秤で罪の重さを量られたり、火の車に乗せられたりしていますが、
真中にキリシタンのような衣装の女性が描かれているのが不思議ということです。
東覚寺は田端にある真言宗のお寺で、門前に立っている、病気平癒を願って
体中に赤い紙を貼られた赤紙仁王で知られています。
「熊野観心十界曼荼羅」 紙本着色 江戸時代 個人蔵


熊野観心十界曼荼羅は大きな絵解き図で、画面上に人の一生を坂道にたとえた
「老いの坂」、その下に六道と声聞・縁覚・菩薩・仏の10の世界に分類した十界が
描かれています。
特に地獄図はさまざまな地獄が詳細に描かれています。
閻魔大王の前の浄玻璃鏡を見ると、僧を斬り殺そうとする男が映っていて、
裁かれる亡者の罪深さを示しています。
絵解きは熊野比丘尼と呼ばれる女性芸人が行なっていました。
熊野観心十界曼荼羅は60点ほどが現存しているそうです。
「五百羅漢図第23幅 六道 地獄」 狩野一信 江戸時代 増上寺

羅漢とは仏教の聖者で、十六羅漢や五百羅漢が有名です。
作者は幕末の絵師、狩野一信(1816-1863)で、縦172cm、横85cmの
大きな画面に羅漢たちが描かれ、全100幅で五百羅漢が揃います。
2幅で対になる形で構成されています。
氷でずたずたにされる亡者を熱線ビームを発して救う羅漢です。
このビームの表現はよく使われています。
「十王地獄図」 鎌倉時代末期~南北朝時代 出光美術館 重要文化財

双幅の片方で、上部には、右から初江王、五官王、変成王、平等王、五道転輪王が
居並び、裁きを行なっています。
亡者たちは腕を打ち砕かれたり、広げられた舌を牛の挽く鋤で切られたり、
さんざんに責めさいなまれています。


耐え難い寒さの八寒地獄には、亡者を救う観音菩薩が現れています。
地獄に仏とはこのことです。

「六道・十王図」 六幅対の内 「閻魔王図」 室町時代 出光美術館




地獄の十王の裁きの内、閻魔王の場面で、浄玻璃の鏡で生前の行ないを映され、
天秤で罪の重さを量られ、熱く煮えた銅を飲まされ、広げられた舌を牛の挽く鋤で
切られたりしています。
さてもさても地獄とは恐ろしい所で、行かずに済ませたいものです。
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この前、六道の一つ、修羅道である戦いの絵を集めたので、今回は同じく六道の一つ、
地獄を描いた絵を揃えてみました。
「地獄極楽図屏風」 2曲1双 鎌倉時代・13~14世紀
京都・金戒光明寺蔵 重要文化財

右下に現世、左下に地獄、上には阿弥陀仏の浄土世界が広がっています。
現世では殺生、強盗の様、地獄では火に焼かれる人びとが描かれています。



「六道絵」 鎌倉時代 聖衆来迎寺 国宝

聖衆来迎寺(しょうじゅらいこうじ)は大津市にある、最澄を開基と伝える
天台宗のお寺です。
地獄、餓鬼、畜生など六道のさまを描いた15幅のうち、「等活地獄図」です。
「地蔵十王図」 紙本着色 13幅のうち4幅 江戸時代 東京・東覚寺


地獄で人は閻魔王はじめ秦広王・初江王など10人の王(十王)の裁きを受けることに
なっています。
秦広王は初七日、閻魔王は35日目に裁きを行ないます。
諸王にはそれぞれ、本地仏があり、閻魔王の本地仏は地蔵菩薩とされています。
稚拙な、ちょっと笑える表現の十王で、左上にはそれぞれの本地仏も描かれています。
右端の絵では亡者が天秤で罪の重さを量られたり、火の車に乗せられたりしていますが、
真中にキリシタンのような衣装の女性が描かれているのが不思議ということです。
東覚寺は田端にある真言宗のお寺で、門前に立っている、病気平癒を願って
体中に赤い紙を貼られた赤紙仁王で知られています。
「熊野観心十界曼荼羅」 紙本着色 江戸時代 個人蔵


熊野観心十界曼荼羅は大きな絵解き図で、画面上に人の一生を坂道にたとえた
「老いの坂」、その下に六道と声聞・縁覚・菩薩・仏の10の世界に分類した十界が
描かれています。
特に地獄図はさまざまな地獄が詳細に描かれています。
閻魔大王の前の浄玻璃鏡を見ると、僧を斬り殺そうとする男が映っていて、
裁かれる亡者の罪深さを示しています。
絵解きは熊野比丘尼と呼ばれる女性芸人が行なっていました。
熊野観心十界曼荼羅は60点ほどが現存しているそうです。
「五百羅漢図第23幅 六道 地獄」 狩野一信 江戸時代 増上寺

羅漢とは仏教の聖者で、十六羅漢や五百羅漢が有名です。
作者は幕末の絵師、狩野一信(1816-1863)で、縦172cm、横85cmの
大きな画面に羅漢たちが描かれ、全100幅で五百羅漢が揃います。
2幅で対になる形で構成されています。
氷でずたずたにされる亡者を熱線ビームを発して救う羅漢です。
このビームの表現はよく使われています。
「十王地獄図」 鎌倉時代末期~南北朝時代 出光美術館 重要文化財

双幅の片方で、上部には、右から初江王、五官王、変成王、平等王、五道転輪王が
居並び、裁きを行なっています。
亡者たちは腕を打ち砕かれたり、広げられた舌を牛の挽く鋤で切られたり、
さんざんに責めさいなまれています。


耐え難い寒さの八寒地獄には、亡者を救う観音菩薩が現れています。
地獄に仏とはこのことです。

「六道・十王図」 六幅対の内 「閻魔王図」 室町時代 出光美術館




地獄の十王の裁きの内、閻魔王の場面で、浄玻璃の鏡で生前の行ないを映され、
天秤で罪の重さを量られ、熱く煮えた銅を飲まされ、広げられた舌を牛の挽く鋤で
切られたりしています。
さてもさても地獄とは恐ろしい所で、行かずに済ませたいものです。
戦い
日本であった戦いにちなんだ作品を集めてみました。
「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」 鎌倉時代・13世紀後半 ボストン美術館

「平治物語絵巻」は平安時代末期の平治の乱(1159年)の模様を描いた絵巻で、
合戦絵巻の最高峰とされています。
元は15巻ほどだったらしく、現在は3巻と断簡数枚、摸本2巻が残っています。
ボストン美術館の所蔵する「三条殿夜討巻」は藤原信頼、源義朝らの軍勢が
後白河上皇の三条殿を襲撃する場面です。
三条殿は炎上し、抵抗する者は首を掻かれています。

後白河上皇を確保し、その車を囲んで引揚げる軍勢です。

「平家物語 一の谷・屋島・壇ノ浦合戦図屏風」(部分)
八曲一双 江戸時代・17世紀 出光美術館

屋島の戦い(1185)で源氏方の那須与一が平家方の船に掲げた扇の的を
射落とす場面です。
一の谷に始まり壇ノ浦に終わる源平合戦を右隻から左隻にかけて描いた屏風で、
大勢の軍兵をびっしりと描き込み、色彩も濃厚で、迫力に満ちています。
一の谷での義経の鵯越え、熊谷直実と平敦盛、壇ノ浦での義経の八艘飛びなどの
場面も見えます。
左隻は二位尼と安徳天皇の入水で終わっています。
「蒙古襲来絵詞」 鎌倉時代・13世紀 宮内庁三の丸尚蔵館


文永の役(1274)、弘安の役(1281)での肥後の御家人、竹崎季長の活躍を描いた
2巻の絵巻物です。
弘安の役を描いた後巻では蒙古の軍船に乗り込んで、敵の首を掻いています。
別の軍船には戦鼓や銅鑼を打つ者、櫂を漕ぐ者などが描かれています。
「蒙古襲来絵詞」は画風、紙質などの違う紙が混じっていて、中世に別の絵を
集めて編集したのではないかとされています。
たしかに船に乗っている蒙古兵の描写は、場面によって違っているのが分かります。
安田靫彦 「出陣の舞」 1970年 山種美術館

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いに先立ち、幸若舞の「敦盛」を舞う信長の姿です。
「信長公記」によれば、信長は舞い終わると法螺貝を吹かせ、具足を着けさせ、
立ったままで湯漬けを搔き込んで出陣しています。
「賤ヶ岳合戦図屏風」 右隻 江戸時代中期 神奈川・馬の博物館

賤ヶ岳の戦いは天正11年(1583)、織田信長死後の後継者を巡る柴田勝家と
羽柴秀吉の近江の琵琶湖畔での戦いで、柴田勝家は羽柴秀吉に敗れ、越前の
北庄城でお市の方と共に自刃しています。
賤ヶ嶽の戦いでは勝家方だった前田利家の前線からの離脱により勝家の軍勢は
総崩れとなっています。
「賤ヶ岳合戦図屏風」 6曲1双 江戸時代後期 長浜市長浜城歴史博物館


右隻には瓢箪の馬印を立てた秀吉の本陣、加藤清正や福島正則など賤ヶ岳七本槍の
活躍が描かれています。
川邉御楯 「末森扶援画巻」(部分) 明治36年(1903) 前田育徳会


末森城の戦いは羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が小牧長久手で戦っていた
天正12年(1584)、織田徳川側だった越中の佐々成政に前田利家が出城の末森城を
攻められた戦いです。
奥村永福の守る末森城を佐々成政が15000で攻めますが、金沢にいた前田利家は
2500の兵で救援に駆け付け、佐々勢の背後を衝いて撃退しています。
前田利家の武功として最も有名な戦いで、前田家はこの記憶を長く伝えることに務め、
絵巻物を注文して、川邉御楯は7年掛けて完成させています。
「関ヶ原合戦図屏風」 江戸時代初期 大阪歴史博物館蔵 重要文化財

右隻は慶長5年(1600)9月14日の東西両軍が集結した状況で、大垣城も見えます。
(左隻部分)

合戦当日の9月15日の様子が描かれ、合戦の終盤、西軍が敗走し、島津の陣地に
火が放たれ、東軍が押し寄せています。
津軽家伝来の屏風で、徳川家康の養女、満天姫が津軽信枚に嫁いだ際の
嫁入り道具とされています。
「大坂城攻配陣之図」 元禄14 年(1701)9月22 日写 徳川林政史研究所

慶長19年(1614)の大坂冬の陣の籠城側と攻城側の武将の配置図です。
左下(南東)に見える半円が真田信繁(幸村)の構築した出丸(真田丸)です。
右下の攻城側に米沢中納言(上杉景勝)や片桐市正(且元)の名があります。
「雑兵物語」(部分) 江戸時代・18世紀 東京国立博物館

雑兵物語(ぞうひょうものがたり)は戦国時代の足軽たちの経験談や教訓を
まとめたものです。
足軽たちのリアルな姿を描いた絵が付いています。
鉄砲足軽小頭の朝日出右衛門と鉄砲足軽夕日入右衛門とあり、小頭は腕に
火縄を何本も巻き付けています。
「金扇馬標」 安土桃山時代 静岡・久能山東照宮

家康が戦陣に立てた馬印で、数本あったそうです。
大坂夏の陣で家康の本陣が真田信繁勢の突撃に遭って総崩れになった時、
馬印も倒されています。
家康の馬印が倒されたのは三方ケ原の戦いと大坂夏の陣の2回だけです。
「風流蛙大合戦之図」(部分) 元治元年(1864) 河鍋暁斎 河鍋暁斎記念美術館

元治元年の第一次長州征伐を蛙合戦(かわずがっせん)に見立てた、
大判3枚続きの浮世絵です。
蛙はメスを争って大勢のオスが争う蛙合戦を繰り広げることで知られています。
右の六葉葵紋の旗を立てた徳川勢が、左の沢潟紋の長州勢を水鉄砲で
攻撃しています。
実際の第一次長州征伐では戦闘は行われていません。
「末広五十三次 三島」 歌川広重(二代)/画 藤岡屋慶次郎/版
錦絵 慶応元年(1865)閏5月

将軍家茂は慶応元年(1865)に第2次長州征伐のため、3度目の上洛を行ないます。
今回は軍事行動のため、金の扇の馬印を立てた、物々しい陣容です。
西洋式の調練を受けた幕府歩兵隊が洋服に草鞋履き、剣付き鉄砲を担ぎ、
背嚢(ランドセル)を背負って、三嶋大社の前を進みます。
家茂は大坂城に入りますが、脚気のため若くして亡くなっています。
家茂上洛の様子は早速、8人の絵師による55枚の錦絵、「末広五十三次」として
出版されています。
宿場名は金扇の中に書かれ、家茂の上洛を暗示しています。
「末広」は扇を意味していますが、鳥羽伏見の戦いに幕府軍が敗れ、徳川慶喜が
江戸に逃げ帰ると金扇の馬印は大坂城に置き去りにされてしまいます。
「伏見鳥羽戦」 大下図 松林桂月 昭和初期 個人蔵


完成作の下図となった絵です。
現在、明治神宮の聖徳記念絵画館に展示されている、和洋の画家が
明治天皇一代記を描いた80枚の一部です。
歴史画家ではありませんが、山口県出身の松林桂月は毛利公の依頼と
いうこともあって、入念に調査して描いています。
戊辰戦争の発端となった慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いを描いていて、
伏見街道上での戦いでは、銃や大砲を放つ薩長軍は洋服を着て、腰に銃剣を
着けた上に刀をサーベルのように吊り、指揮官は軍刀で指揮しています。
攻めてくる幕府軍は会津藩を示す「會」の字の旗を立て、槍を振るって戦い、
大将は陣羽織を着て采配を振り、多くの兵は和服で、鎧を着ている者もいます。
新選組の永倉新八は鎧を着て出陣したものの、その重さに難渋したと後に
語っています。
後方には敗走する幕府軍が見え、拠点だった伏見奉行所が炎上しています。
「谷中の経王寺山門」


上野戦争は新政府への恭順を拒んだ武士たちが結成し、上野の山に立てこもった
彰義隊を新政府軍が慶応4年(1868)5月15日(新暦では7月4日)に掃討した戦いです。
西郷隆盛らの指揮する新政府軍のため、彰義隊は半日で壊滅しています。
彰義隊士が逃げ込んだため、新政府軍が射ち込んだ銃弾の跡が門扉に残っています。
chariot
日本であった戦いにちなんだ作品を集めてみました。
「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」 鎌倉時代・13世紀後半 ボストン美術館

「平治物語絵巻」は平安時代末期の平治の乱(1159年)の模様を描いた絵巻で、
合戦絵巻の最高峰とされています。
元は15巻ほどだったらしく、現在は3巻と断簡数枚、摸本2巻が残っています。
ボストン美術館の所蔵する「三条殿夜討巻」は藤原信頼、源義朝らの軍勢が
後白河上皇の三条殿を襲撃する場面です。
三条殿は炎上し、抵抗する者は首を掻かれています。

後白河上皇を確保し、その車を囲んで引揚げる軍勢です。

「平家物語 一の谷・屋島・壇ノ浦合戦図屏風」(部分)
八曲一双 江戸時代・17世紀 出光美術館

屋島の戦い(1185)で源氏方の那須与一が平家方の船に掲げた扇の的を
射落とす場面です。
一の谷に始まり壇ノ浦に終わる源平合戦を右隻から左隻にかけて描いた屏風で、
大勢の軍兵をびっしりと描き込み、色彩も濃厚で、迫力に満ちています。
一の谷での義経の鵯越え、熊谷直実と平敦盛、壇ノ浦での義経の八艘飛びなどの
場面も見えます。
左隻は二位尼と安徳天皇の入水で終わっています。
「蒙古襲来絵詞」 鎌倉時代・13世紀 宮内庁三の丸尚蔵館


文永の役(1274)、弘安の役(1281)での肥後の御家人、竹崎季長の活躍を描いた
2巻の絵巻物です。
弘安の役を描いた後巻では蒙古の軍船に乗り込んで、敵の首を掻いています。
別の軍船には戦鼓や銅鑼を打つ者、櫂を漕ぐ者などが描かれています。
「蒙古襲来絵詞」は画風、紙質などの違う紙が混じっていて、中世に別の絵を
集めて編集したのではないかとされています。
たしかに船に乗っている蒙古兵の描写は、場面によって違っているのが分かります。
安田靫彦 「出陣の舞」 1970年 山種美術館

永禄3年(1560)の桶狭間の戦いに先立ち、幸若舞の「敦盛」を舞う信長の姿です。
「信長公記」によれば、信長は舞い終わると法螺貝を吹かせ、具足を着けさせ、
立ったままで湯漬けを搔き込んで出陣しています。
「賤ヶ岳合戦図屏風」 右隻 江戸時代中期 神奈川・馬の博物館

賤ヶ岳の戦いは天正11年(1583)、織田信長死後の後継者を巡る柴田勝家と
羽柴秀吉の近江の琵琶湖畔での戦いで、柴田勝家は羽柴秀吉に敗れ、越前の
北庄城でお市の方と共に自刃しています。
賤ヶ嶽の戦いでは勝家方だった前田利家の前線からの離脱により勝家の軍勢は
総崩れとなっています。
「賤ヶ岳合戦図屏風」 6曲1双 江戸時代後期 長浜市長浜城歴史博物館


右隻には瓢箪の馬印を立てた秀吉の本陣、加藤清正や福島正則など賤ヶ岳七本槍の
活躍が描かれています。
川邉御楯 「末森扶援画巻」(部分) 明治36年(1903) 前田育徳会


末森城の戦いは羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍が小牧長久手で戦っていた
天正12年(1584)、織田徳川側だった越中の佐々成政に前田利家が出城の末森城を
攻められた戦いです。
奥村永福の守る末森城を佐々成政が15000で攻めますが、金沢にいた前田利家は
2500の兵で救援に駆け付け、佐々勢の背後を衝いて撃退しています。
前田利家の武功として最も有名な戦いで、前田家はこの記憶を長く伝えることに務め、
絵巻物を注文して、川邉御楯は7年掛けて完成させています。
「関ヶ原合戦図屏風」 江戸時代初期 大阪歴史博物館蔵 重要文化財

右隻は慶長5年(1600)9月14日の東西両軍が集結した状況で、大垣城も見えます。
(左隻部分)

合戦当日の9月15日の様子が描かれ、合戦の終盤、西軍が敗走し、島津の陣地に
火が放たれ、東軍が押し寄せています。
津軽家伝来の屏風で、徳川家康の養女、満天姫が津軽信枚に嫁いだ際の
嫁入り道具とされています。
「大坂城攻配陣之図」 元禄14 年(1701)9月22 日写 徳川林政史研究所

慶長19年(1614)の大坂冬の陣の籠城側と攻城側の武将の配置図です。
左下(南東)に見える半円が真田信繁(幸村)の構築した出丸(真田丸)です。
右下の攻城側に米沢中納言(上杉景勝)や片桐市正(且元)の名があります。
「雑兵物語」(部分) 江戸時代・18世紀 東京国立博物館

雑兵物語(ぞうひょうものがたり)は戦国時代の足軽たちの経験談や教訓を
まとめたものです。
足軽たちのリアルな姿を描いた絵が付いています。
鉄砲足軽小頭の朝日出右衛門と鉄砲足軽夕日入右衛門とあり、小頭は腕に
火縄を何本も巻き付けています。
「金扇馬標」 安土桃山時代 静岡・久能山東照宮

家康が戦陣に立てた馬印で、数本あったそうです。
大坂夏の陣で家康の本陣が真田信繁勢の突撃に遭って総崩れになった時、
馬印も倒されています。
家康の馬印が倒されたのは三方ケ原の戦いと大坂夏の陣の2回だけです。
「風流蛙大合戦之図」(部分) 元治元年(1864) 河鍋暁斎 河鍋暁斎記念美術館

元治元年の第一次長州征伐を蛙合戦(かわずがっせん)に見立てた、
大判3枚続きの浮世絵です。
蛙はメスを争って大勢のオスが争う蛙合戦を繰り広げることで知られています。
右の六葉葵紋の旗を立てた徳川勢が、左の沢潟紋の長州勢を水鉄砲で
攻撃しています。
実際の第一次長州征伐では戦闘は行われていません。
「末広五十三次 三島」 歌川広重(二代)/画 藤岡屋慶次郎/版
錦絵 慶応元年(1865)閏5月

将軍家茂は慶応元年(1865)に第2次長州征伐のため、3度目の上洛を行ないます。
今回は軍事行動のため、金の扇の馬印を立てた、物々しい陣容です。
西洋式の調練を受けた幕府歩兵隊が洋服に草鞋履き、剣付き鉄砲を担ぎ、
背嚢(ランドセル)を背負って、三嶋大社の前を進みます。
家茂は大坂城に入りますが、脚気のため若くして亡くなっています。
家茂上洛の様子は早速、8人の絵師による55枚の錦絵、「末広五十三次」として
出版されています。
宿場名は金扇の中に書かれ、家茂の上洛を暗示しています。
「末広」は扇を意味していますが、鳥羽伏見の戦いに幕府軍が敗れ、徳川慶喜が
江戸に逃げ帰ると金扇の馬印は大坂城に置き去りにされてしまいます。
「伏見鳥羽戦」 大下図 松林桂月 昭和初期 個人蔵


完成作の下図となった絵です。
現在、明治神宮の聖徳記念絵画館に展示されている、和洋の画家が
明治天皇一代記を描いた80枚の一部です。
歴史画家ではありませんが、山口県出身の松林桂月は毛利公の依頼と
いうこともあって、入念に調査して描いています。
戊辰戦争の発端となった慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いを描いていて、
伏見街道上での戦いでは、銃や大砲を放つ薩長軍は洋服を着て、腰に銃剣を
着けた上に刀をサーベルのように吊り、指揮官は軍刀で指揮しています。
攻めてくる幕府軍は会津藩を示す「會」の字の旗を立て、槍を振るって戦い、
大将は陣羽織を着て采配を振り、多くの兵は和服で、鎧を着ている者もいます。
新選組の永倉新八は鎧を着て出陣したものの、その重さに難渋したと後に
語っています。
後方には敗走する幕府軍が見え、拠点だった伏見奉行所が炎上しています。
「谷中の経王寺山門」


上野戦争は新政府への恭順を拒んだ武士たちが結成し、上野の山に立てこもった
彰義隊を新政府軍が慶応4年(1868)5月15日(新暦では7月4日)に掃討した戦いです。
西郷隆盛らの指揮する新政府軍のため、彰義隊は半日で壊滅しています。
彰義隊士が逃げ込んだため、新政府軍が射ち込んだ銃弾の跡が門扉に残っています。
女性画家
外国の女性画家の作品を集めてみました。
ヴィジェ・ルブラン 「フランス王妃、マリー=アントワネット」 個人蔵

エリザベト・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン(1755-1842)はフランスのルイ16世の王妃、
マリー・アントワネットと同年生まれで、王妃に気に入られ、その肖像画を描き、
友人としても親しく交流します。
ヴィジェ・ルブラン 「ポリニャック公爵夫人、ガブリエル・ヨランド・
クロード・マルティヌ・ド・ポラストン」 1782年 ヴェルサイユ宮殿美術館

空を背景にして人物を際立たせ、活き活きとした表情を巧みに表しています。
白と黒の対比がくっきりとして、帽子の花の飾りが華やかさを添えています。
羽飾りを付けた麦わら帽子姿は、ルーベンス(1577-1640)の「麦わら帽子の女
(シュザンヌ・フールマンの肖像)」へのオマージュとのことです。
ポリニャック公爵夫人(1749-1793)はマリー・アントワネットの深い寵愛を
受けますが、1789年にフランス革命が起きると、逸早くオーストリアに亡命し、
ウイーンで急死しています。
ヴィジェ・ルブラン 「自画像」 1800年 エルミタージュ美術館

フランス革命のため亡命したルブランがロシアの美術アカデミーに迎えられ、
その後アカデミーに寄贈した作品です。
仕事着らしい黒い服を着ていますが、首飾りやショールの金色の輝きを強調しています。
2011年に三菱一号館美術館で開かれた「ヴィジェ・ルブラン展」の記事です。
エドゥアール・マネ 「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」 1872年 オルセー美術館

ベルト・モリゾ(1841-1895)は印象派の画家で、コロ―に師事した後、マネに学び、
マネの絵のモデルにもなっています。
ベルト・モリゾ 「窓辺にいる画家の姉」 1869年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー

姉のエドマ・モリゾを描いています。
姉妹は共に画家を志しますが、エドマは結婚と出産のために絵を描くのを止め、
ベルトはそれを惜しんでいます。
扇の絵を見ている姿はエドマが画家であることを示しているそうです。
ベルトはよく家族を題材にしています。
ベルト・モリゾ 「バルコニーの女と子ども」 1872年

二人はセーヌ川を眺めていて、遠くのドームはナポレオンの葬られている
アンヴァリッド(廃兵院)です。
モデルは姉のエドマ、あるいはもう一人の姉妹、イヴ・ゴビヤールと推定され、
子どもはイヴの娘、ポール・ゴビヤールとのことです。
メアリー・カサット 「青いひじ掛け椅子の少女」 1878年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー

あちこちに置いたターコイズブルーのソファを中心にした作品で、女の子の
タータンチェックの帯やソックスも目を惹きます。
モデルをさせられている女の子は退屈でじっとしていられないといった表情です。
メアリー・カサット(1844-1926)はアメリカ出身で、ドガの紹介で印象派展に参加しています。
また、印象派の作品をアメリカに紹介もしています。
メアリー・カサット 「眠たい子どもを沐浴させる母親」 1880年 ロサンゼルス郡立美術館

メアリー・カサットのよく描いた母子像で、親密な親子の関係を二人の視線が表しています。
色彩もまとめられ、白い衣服の表現も巧みです。
ベラスケスなどの古典画を研究した成果でしょうか。
メアリー・カサット 「家族」 1893年 クライスラー美術館

聖母子と聖ヨハネ像のようで、聖ヨハネは十字架の杖の代わりにカーネーションを
持っています。
古典絵画の素養の深さを示しています。
メアリー・カサットの作品は人物の視線が活きているのが特徴です。
2016年に横浜美術館で開かれた「メアリー・カサット展」の記事です。
シュザンヌ・ヴァラドン 「自画像」 1927年 ユトリロ‐ヴァラドン美術館

シュザンヌ・ヴァラドン 「自画像」 1918年 大阪中之島美術館

シュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)はパリでシャヴァンヌやルノワール、ドガ、ロートレック
などの絵のモデルをしていました。
ルノワールの「都会のダンス」などにも描かれています。
自分でも絵を描くようになり、画家として認められていきます。
パリの街を抒情的に描いた作品で有名なモーリス・ユトリロ(1883-1955)の母でもあります。
自画像というと美化して描くことが多そうですが、この絵にはそういった甘さは無く、
意志の強そうな顔を力強い筆遣いで描き出しています。
シュザンヌ・ヴァラドン 「ユッテルの家族の肖像」 1921年 国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)

ヴァラドンは1896年に実業家のポール・ムジスと結婚しますが、後に別れ、
1914年にアンドレ・ユッテルと結婚します。
思い切りの良い、太い描線がシュザンヌの特徴で、3人の顔や姿を的確に
描いています。
2015年に損保ジャパン日本興亜美術館(現在のSOMPO美術館)で開かれた「ユトリロとヴァラドン 母と子の物語」展の記事です。
マリー・ローランサン 「優雅な舞踏会あるいは田舎での舞踏」
1913年 マリー・ローランサン美術館

マリー・ローランサン(1883-1956)はパリに生まれ、画家を目指している時に
ジョルジュ・ブラックと知り合い、キュビズムの影響を受けます。
キュビズム風のきっぱりした画面構成ですが、少ない色数の淡いパステルカラーで
まとめ、甘美な雰囲気を持たせているところは、ローランサンの特徴が表れています。
マリー・ローランサン 「マドモアゼル・シャネルの肖像」 1923年 オランジュリー美術館

やがて、キュビズムから離れ始め、ローランサン独特の甘く優しい女性像を
描くようになります。
売れっ子だったローランサンに肖像画を描いてもらうことが当時の流行だったので、
ココ・シャネルも頼んでいます。
ところが、この絵を気に入らず、受け取りを拒否しています。
ローランサンも絵柄に似合わず気が強く、口も悪い人だったので、ココ・シャネルを
「オーヴェルニュの田舎娘」とののしっています。
マリー・ローランサン 「三人の若い女」
1953年頃 マリー・ローランサン美術館

60歳前後から描き始め、10年近くかけて死の数年前に完成した作品とのことです。
ギリシャ神話のミューズを思わせる3人の女性は首飾りや月桂冠やスカーフを
着けています。
顔を寄せ合った緊密な画面構成で、体の線が放射状に延びています。
赤、青、黄、緑、白、黒といった基本的な色だけでまとめて、とても
洗練されています。
その簡潔さにはキュビズムの面影を感じます。
ジョージア・オキーフ 「葉のかたち」 1924年 フィリップス・コレクション

ジョージア・オキーフ(1887-1986)はアメリカの女性画家で、画面いっぱいに
拡大して描かれた花や動物の頭の骨を描いた絵で有名です。
物の本質に迫る野太い描き方で、木の葉を重ね、色を変え、やや抽象化して
描いていて、縦に千切れた形が稲妻のようで印象的です。
ジョージア・オキーフ 「グレーの上のカラ・リリー」 1928年 ボストン美術館

大きく一輪の百合を描いていますが、極度に単純化され、抽象画に近くなっています。
ジョージア・オキーフは最も早く抽象画を描き始めた画家の一人でもあります。
ジョージア・オキーフ 「ランチョス教会、No.2、ニューメキシコ」
1929年 フィリップス・コレクション

土の壁が強い光で陽炎のように揺れています。
色彩も単純で、余計なものは溶け去ったような、半ば抽象的な造形です。
ベルト・モリゾの姉は画業を諦め、メアリー・カサットも画家になるのを両親から
反対されており、女性が画家になるのは簡単ではなかったようです。
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外国の女性画家の作品を集めてみました。
ヴィジェ・ルブラン 「フランス王妃、マリー=アントワネット」 個人蔵

エリザベト・ルイーズ・ヴィジェ・ルブラン(1755-1842)はフランスのルイ16世の王妃、
マリー・アントワネットと同年生まれで、王妃に気に入られ、その肖像画を描き、
友人としても親しく交流します。
ヴィジェ・ルブラン 「ポリニャック公爵夫人、ガブリエル・ヨランド・
クロード・マルティヌ・ド・ポラストン」 1782年 ヴェルサイユ宮殿美術館

空を背景にして人物を際立たせ、活き活きとした表情を巧みに表しています。
白と黒の対比がくっきりとして、帽子の花の飾りが華やかさを添えています。
羽飾りを付けた麦わら帽子姿は、ルーベンス(1577-1640)の「麦わら帽子の女
(シュザンヌ・フールマンの肖像)」へのオマージュとのことです。
ポリニャック公爵夫人(1749-1793)はマリー・アントワネットの深い寵愛を
受けますが、1789年にフランス革命が起きると、逸早くオーストリアに亡命し、
ウイーンで急死しています。
ヴィジェ・ルブラン 「自画像」 1800年 エルミタージュ美術館

フランス革命のため亡命したルブランがロシアの美術アカデミーに迎えられ、
その後アカデミーに寄贈した作品です。
仕事着らしい黒い服を着ていますが、首飾りやショールの金色の輝きを強調しています。
2011年に三菱一号館美術館で開かれた「ヴィジェ・ルブラン展」の記事です。
エドゥアール・マネ 「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」 1872年 オルセー美術館

ベルト・モリゾ(1841-1895)は印象派の画家で、コロ―に師事した後、マネに学び、
マネの絵のモデルにもなっています。
ベルト・モリゾ 「窓辺にいる画家の姉」 1869年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー

姉のエドマ・モリゾを描いています。
姉妹は共に画家を志しますが、エドマは結婚と出産のために絵を描くのを止め、
ベルトはそれを惜しんでいます。
扇の絵を見ている姿はエドマが画家であることを示しているそうです。
ベルトはよく家族を題材にしています。
ベルト・モリゾ 「バルコニーの女と子ども」 1872年

二人はセーヌ川を眺めていて、遠くのドームはナポレオンの葬られている
アンヴァリッド(廃兵院)です。
モデルは姉のエドマ、あるいはもう一人の姉妹、イヴ・ゴビヤールと推定され、
子どもはイヴの娘、ポール・ゴビヤールとのことです。
メアリー・カサット 「青いひじ掛け椅子の少女」 1878年 ワシントン・ナショナル・ギャラリー

あちこちに置いたターコイズブルーのソファを中心にした作品で、女の子の
タータンチェックの帯やソックスも目を惹きます。
モデルをさせられている女の子は退屈でじっとしていられないといった表情です。
メアリー・カサット(1844-1926)はアメリカ出身で、ドガの紹介で印象派展に参加しています。
また、印象派の作品をアメリカに紹介もしています。
メアリー・カサット 「眠たい子どもを沐浴させる母親」 1880年 ロサンゼルス郡立美術館

メアリー・カサットのよく描いた母子像で、親密な親子の関係を二人の視線が表しています。
色彩もまとめられ、白い衣服の表現も巧みです。
ベラスケスなどの古典画を研究した成果でしょうか。
メアリー・カサット 「家族」 1893年 クライスラー美術館

聖母子と聖ヨハネ像のようで、聖ヨハネは十字架の杖の代わりにカーネーションを
持っています。
古典絵画の素養の深さを示しています。
メアリー・カサットの作品は人物の視線が活きているのが特徴です。
2016年に横浜美術館で開かれた「メアリー・カサット展」の記事です。
シュザンヌ・ヴァラドン 「自画像」 1927年 ユトリロ‐ヴァラドン美術館

シュザンヌ・ヴァラドン 「自画像」 1918年 大阪中之島美術館

シュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)はパリでシャヴァンヌやルノワール、ドガ、ロートレック
などの絵のモデルをしていました。
ルノワールの「都会のダンス」などにも描かれています。
自分でも絵を描くようになり、画家として認められていきます。
パリの街を抒情的に描いた作品で有名なモーリス・ユトリロ(1883-1955)の母でもあります。
自画像というと美化して描くことが多そうですが、この絵にはそういった甘さは無く、
意志の強そうな顔を力強い筆遣いで描き出しています。
シュザンヌ・ヴァラドン 「ユッテルの家族の肖像」 1921年 国立近代美術館(ポンピドゥー・センター)

ヴァラドンは1896年に実業家のポール・ムジスと結婚しますが、後に別れ、
1914年にアンドレ・ユッテルと結婚します。
思い切りの良い、太い描線がシュザンヌの特徴で、3人の顔や姿を的確に
描いています。
2015年に損保ジャパン日本興亜美術館(現在のSOMPO美術館)で開かれた「ユトリロとヴァラドン 母と子の物語」展の記事です。
マリー・ローランサン 「優雅な舞踏会あるいは田舎での舞踏」
1913年 マリー・ローランサン美術館

マリー・ローランサン(1883-1956)はパリに生まれ、画家を目指している時に
ジョルジュ・ブラックと知り合い、キュビズムの影響を受けます。
キュビズム風のきっぱりした画面構成ですが、少ない色数の淡いパステルカラーで
まとめ、甘美な雰囲気を持たせているところは、ローランサンの特徴が表れています。
マリー・ローランサン 「マドモアゼル・シャネルの肖像」 1923年 オランジュリー美術館

やがて、キュビズムから離れ始め、ローランサン独特の甘く優しい女性像を
描くようになります。
売れっ子だったローランサンに肖像画を描いてもらうことが当時の流行だったので、
ココ・シャネルも頼んでいます。
ところが、この絵を気に入らず、受け取りを拒否しています。
ローランサンも絵柄に似合わず気が強く、口も悪い人だったので、ココ・シャネルを
「オーヴェルニュの田舎娘」とののしっています。
マリー・ローランサン 「三人の若い女」
1953年頃 マリー・ローランサン美術館

60歳前後から描き始め、10年近くかけて死の数年前に完成した作品とのことです。
ギリシャ神話のミューズを思わせる3人の女性は首飾りや月桂冠やスカーフを
着けています。
顔を寄せ合った緊密な画面構成で、体の線が放射状に延びています。
赤、青、黄、緑、白、黒といった基本的な色だけでまとめて、とても
洗練されています。
その簡潔さにはキュビズムの面影を感じます。
ジョージア・オキーフ 「葉のかたち」 1924年 フィリップス・コレクション

ジョージア・オキーフ(1887-1986)はアメリカの女性画家で、画面いっぱいに
拡大して描かれた花や動物の頭の骨を描いた絵で有名です。
物の本質に迫る野太い描き方で、木の葉を重ね、色を変え、やや抽象化して
描いていて、縦に千切れた形が稲妻のようで印象的です。
ジョージア・オキーフ 「グレーの上のカラ・リリー」 1928年 ボストン美術館

大きく一輪の百合を描いていますが、極度に単純化され、抽象画に近くなっています。
ジョージア・オキーフは最も早く抽象画を描き始めた画家の一人でもあります。
ジョージア・オキーフ 「ランチョス教会、No.2、ニューメキシコ」
1929年 フィリップス・コレクション

土の壁が強い光で陽炎のように揺れています。
色彩も単純で、余計なものは溶け去ったような、半ば抽象的な造形です。
ベルト・モリゾの姉は画業を諦め、メアリー・カサットも画家になるのを両親から
反対されており、女性が画家になるのは簡単ではなかったようです。