日比谷・有楽町
日比谷の出光美術館では「茶の湯の床飾り」展が開かれています。
会期は5月28日(日)までです。

茶の湯の掛物として珍重された書や画を出光美術館のコレクションを中心に展示する
展覧会です。
第Ⅰ章 床飾りのはじまり―唐絵と墨跡
「平沙落雁図」 牧谿 南宋時代 重要文化財

元は「瀟湘八景図」の巻子本だったのを足利義満が座敷飾りのため切断したもので、
他に根津美術館の「漁村夕照図」や京都国立博物館の「遠浦帰帆図」などとして
何点か残っています。
牧谿は南宋から元時代にかけての禅僧の画家で、南中国の湿り気のある大気を
感じさせる作品は特に日本で好まれています。
足利義政のコレクションである東山御物を管理していた能阿弥(1397-1471)の
記録によれば、保有していた中国絵画279幅のうち、103幅が牧谿だったそうです。
「叭々鳥図」 牧谿 南宋時代 重要文化財

叭々鳥(ははちょう)はムクドリ科の黒い鳥です。
輪郭線を使わない、没骨(もっこつ)という技法によって描いています。
手早い筆運びですが、鳥の姿を的確に捉えています。
左下に「牧谿」印、右下に足利義満の「天山」印が捺されています。
元はMOA美術館と五島美術館の所蔵する「叭々鳥図」と一組の
三福対だったと思われます。
「偈頌」 宗峰妙超(大燈国師)
鎌倉時代末期~南北朝時代初期 重要文化財

宋代の臨済宗の僧、白雲守端の語録を書いています。
宗峰妙超(1283-1338)は臨済宗の僧で、京都の大徳寺の開山であり、
書にも秀でていました。
堺の南宗寺や姫路酒井家の旧蔵でした。
「青磁袴腰香炉」 龍泉窯 南宋時代~元時代 重要文化財

3本足の青銅器を模した径約22㎝の大きな香炉で、胴の部分が袴を着けた
ような形から名付けられました。
浙江省の龍泉窯は青磁の産地として有名です。
「唐物茶壷 銘 羽衣」 広東系 明時代

高さ32cmの大きな壷で、大らかな姿をしています。
飴色の釉薬には薄く雲のような黒色が浮かんでいます。
蓋をした紙に書かれた「竹庵」は茶の名前と思われます。
香辛料などを入れた生活雑器だった物ですが、輸入され、茶壷として使われました。
侘茶の流行と共に茶席ではあまり使われなくなりましたが、贈答用の品として
珍重されました。
堺高石屋道勺、加賀前田家の伝来です。
「八ツ橋図屏風」(左隻) 酒井抱一 六曲一双 出光美術館

尾形光琳の「八橋図屏風」を写したものですが、葉によって色の濃さを変えて
表裏を表し、かきつばたの数を少なくしてすっきりとまとめられています。
橋板にも少し緑色が入っています。
紙ではなく絹地に金箔を貼り、さらに金泥を刷いて、より輝くようにしている
とのことです。
第Ⅱ章 茶の湯の広まり― 一行書の登場
「待花軒図」 画:伝 周文 賛:大岳周崇ほか八僧 室町時代


春を待つ庵の中には主の蔵書が見え、従者が庭を掃いている静かな風景です。
周文(生没年不詳)は相国寺の僧で、如拙に絵を学び、雪舟の師ともなっています。
足利将軍家の絵の御用も務めていますが、真筆と特定される作品はありません。
大岳周崇(1345-1423)は臨済宗の僧で、足利義満の帰依を受けています。
画題にちなんだ漢詩を賛として加える詩画軸が流行していました。
一行書 「賓中主々中賓」 江月宗玩 江戸時代前期

江月宗玩(1574-1643)は茶人の津田宗及の子で、臨済宗の僧です。
この一行書は「主」の字が「・」と「王」、々の字も「・」になっているので、
上からも下からも同じ字が並んでいるように見えます。
「破墨山水図」 画:雪舟 賛:景徐周麟 室町時代

玉澗の簡潔な筆遣いに倣って、岩塊や川を行く小舟が描かれています。
明に渡航した雪舟は宋・元時代の水墨画に傾倒したようです。
「和歌色紙」 後陽成天皇 桃山時代 重要美術品

5月7日までの展示です。
金泥で雲と水流、燕子花、水草を描いた色紙に平安時代の歌人、源師時
(1017-1136)の歌を書いています。
絵柄を考えて、歌を選んでいます。
むらさきの いろにそみゆる かきつはた いけのぬなはの はひかゝりつつ
源師時(1077-1136)は平安時代後期の歌人で、堀河百首に納められた歌です。
堀河百首は堀川天皇に献じられた百首歌で、16名の歌人の歌を集めています。
「青磁浮牡丹不遊環耳花生」 龍泉窯 南宋時代

古代青銅器の形を模していますが、耳に付けた環は釉薬によって器に
貼り付いて動かないので、「不遊環」の名が付いています。
龍泉窯は浙江省龍泉市周辺にあった窯で、南宋から元代に青磁を生産していました。
澄んだ青色の、貫入(釉薬のヒビ)のほとんど無い器体が特徴です。
宋代の中国では牡丹が熱狂的に愛好されていたそうです。
特集 茶の湯と物語
「酒呑童子絵巻」 江戸時代中期
源頼光と四天王に藤原保昌の6人が八幡、住吉、熊野三神の導きにより、
大江山の酒呑童子を討ち取る物語です。
神より授かった神便鬼毒酒を酒盛りで鬼たちに勧める場面が展示されていて、
鬼にはそろそろ毒が回っています。
「銚子画賛」 仙厓 江戸時代後期
毒酒は鬼には毒ですが、人を元気付ける効能がありました。
大江山鬼か岩やの一挑子 毒と薬は飲む人にあり
銚子と酒杯が描かれ、酒飲みへの諫めが書いてあります。
「四季花木図屏風」 鈴木其一 六曲一双 江戸時代後期
右隻

左隻

右隻には白牡丹を囲むように紅白梅、蒲公英、菫、燕子花が
描かれています。
左隻に描かれているのは楓、白菊、桔梗、水仙、薮柑子です。
お酒呑童子のヤシの庭には四季の花が咲き乱れてました。
第Ⅲ章 近代数寄者の新たな趣向
「佐竹本三十六歌仙絵巻 柿本人麿」
画:伝 藤原信実 詞書:伝 後京極良経 鎌倉時代 重要文化財

大名の佐竹家に伝わった鎌倉時代の三十六歌仙絵巻です。
元は2巻の絵巻だったのが、大正時代に巻頭部分の「住吉明神」を含め、
37枚に切断されたものです。
直衣(のうし)に、烏帽子、右手に筆、左手に紙を持って座った老人の姿です。
平安時代に、歌人の藤原兼房が夢の中で柿本人麻呂に会ったという逸話があり、
その時見たという姿で人麻呂は描かれるようになったということです。
ほのゝとあかしのうらのあさきりに
しまかくれゆく舟をしそおもふ
「継色紙」 伝 小野道風 平安時代 重要文化財

「継色紙」は平安時代の名筆の一つで、「寸松庵色紙」、「升色紙」とともに
「三色紙」と呼ばれています。
元は万葉集、古今和歌集などの和歌を集めた冊子本で、優美な仮名の散らし書きで
書かれています。
大聖寺藩前田家の旧蔵で、近代に切断され、軸装されています。
むめのかの ふりおく ゆきにうつり せは
たれかは ゝなを わきて をらまし
「高野切第一種」 伝 紀貫之 平安時代 重要文化財

「高野切」は現存する古今和歌集最古の歌集で、一部が高野山に伝来したので
この名が付いています。
福岡藩黒田家の旧蔵です。
寛平のおほんときのきさいのみやの
うたあわせのうた
よみひとしら須
むめのかをそてにうつしてととめては
はるはすくともかたみならまし
寛平御時后宮歌合は寛平年間(889~893)に宇多天皇の母后班子の催した
歌合せです。
歌を寄せた紀貫之、紀友則、壬生忠岑らは三十六歌仙に選ばれています。
「石山切 伊勢集」 伝 藤原公任 平安時代後期 重要美術品

雅な切継の料紙に書かれていて、王朝美を極めています。
「石山切」は白河天皇の六十の賀を祝って制作された、「西本願寺本三十六人家集」の
うち、「貫之集下」と「伊勢集」のことです。
西本願寺の所蔵でしたが、昭和4年(1929)に2つの集が分割され、断簡になった時に
付けられた名です。
昔は本願寺が石山(後の大阪城)にあったことにちなんでいます。
をりとめてみまくほしきにふちのはな
影をたにとやなみのよるらむ
式部卿宮うせさせたまひて四十九日はてて人々家々ちりまかりいづるに
かなしさぞまさりにまさる人のみに
いかにおほかるなみだとかしる
君によりはかきしにや我はせむ
こひかへすべきいのちならねば
式部卿宮とは宇多天皇の第四皇子、敦慶親王のことで、美男として知られ、
伊勢との間に歌人の中務が生まれています。
「糸桜・萩図」 酒井抱一 江戸時代後期

糸桜の枝が奇抜な形に曲がっています。
短冊と色紙には酒井抱一自作の句が自筆で書かれています。
糸桜 そめやすき 人のこゝろや 糸さくら
萩 白萩や 有明残る 臼の跡
「古染付菱口中蕪耳付花生」 景徳鎮窯 明時代末期

大きな菱形の口で、「寿」の字が入り、雷文、縞文、蓮弁文が施されています。
日本の茶人の注文で作られたと思われます。
明治の元勲、井上馨の旧蔵です。
第Ⅳ章 煎茶の掛物
「紫交趾釉鳳凰文急須」 青木木米 江戸時代後期
「白泥煙霞幽賞涼炉・炉座」 青木木米 天保3年(1832)

高欄付きの炉座と煎茶の涼炉の上に急須が置かれています。
急須は元は中国で湯を沸かす道具でした。
涼炉の風を通す窓の中に女性が二人入っており、胴に「煙霞幽賞」と彫られています。
涼炉は火を入れる消耗品のため、残っている品は多くありません。
「高麗写荒磯文急須」 青木木米 江戸時代後期

煎茶の茶器を多く手掛けた青木木米の作品です。
急須なので、高さ9.4㎝と小振りです。
胴の上部分には雲間から現れた太陽、波間から飛び上がる鮭、下の部分には
霊芝が彫られています。
箱書に「高麗写」とあり、白高麗と呼ばれる白磁を焼いた中国の徳化窯を
意識したと思われます。
「木米喫茶図」 田能村竹田 文政6年(1823)


文人画家、豊後の田能村竹田(1777 - 1835)が青木木米を訪ね、
煎茶で歓待された時の様子です。
小さな炉を前に、茶碗を手に座った木米は如何にもくつろいでいます。
賛には、音曲と化粧の巷にあって、煎茶を吟味して楽しんでいるとあります。
青木木米は文人として頼山陽や田能村竹田、上田秋成らと交流しています。
展覧会のHPです。
chariot
日比谷の出光美術館では「茶の湯の床飾り」展が開かれています。
会期は5月28日(日)までです。

茶の湯の掛物として珍重された書や画を出光美術館のコレクションを中心に展示する
展覧会です。
第Ⅰ章 床飾りのはじまり―唐絵と墨跡
「平沙落雁図」 牧谿 南宋時代 重要文化財

元は「瀟湘八景図」の巻子本だったのを足利義満が座敷飾りのため切断したもので、
他に根津美術館の「漁村夕照図」や京都国立博物館の「遠浦帰帆図」などとして
何点か残っています。
牧谿は南宋から元時代にかけての禅僧の画家で、南中国の湿り気のある大気を
感じさせる作品は特に日本で好まれています。
足利義政のコレクションである東山御物を管理していた能阿弥(1397-1471)の
記録によれば、保有していた中国絵画279幅のうち、103幅が牧谿だったそうです。
「叭々鳥図」 牧谿 南宋時代 重要文化財

叭々鳥(ははちょう)はムクドリ科の黒い鳥です。
輪郭線を使わない、没骨(もっこつ)という技法によって描いています。
手早い筆運びですが、鳥の姿を的確に捉えています。
左下に「牧谿」印、右下に足利義満の「天山」印が捺されています。
元はMOA美術館と五島美術館の所蔵する「叭々鳥図」と一組の
三福対だったと思われます。
「偈頌」 宗峰妙超(大燈国師)
鎌倉時代末期~南北朝時代初期 重要文化財

宋代の臨済宗の僧、白雲守端の語録を書いています。
宗峰妙超(1283-1338)は臨済宗の僧で、京都の大徳寺の開山であり、
書にも秀でていました。
堺の南宗寺や姫路酒井家の旧蔵でした。
「青磁袴腰香炉」 龍泉窯 南宋時代~元時代 重要文化財

3本足の青銅器を模した径約22㎝の大きな香炉で、胴の部分が袴を着けた
ような形から名付けられました。
浙江省の龍泉窯は青磁の産地として有名です。
「唐物茶壷 銘 羽衣」 広東系 明時代

高さ32cmの大きな壷で、大らかな姿をしています。
飴色の釉薬には薄く雲のような黒色が浮かんでいます。
蓋をした紙に書かれた「竹庵」は茶の名前と思われます。
香辛料などを入れた生活雑器だった物ですが、輸入され、茶壷として使われました。
侘茶の流行と共に茶席ではあまり使われなくなりましたが、贈答用の品として
珍重されました。
堺高石屋道勺、加賀前田家の伝来です。
「八ツ橋図屏風」(左隻) 酒井抱一 六曲一双 出光美術館

尾形光琳の「八橋図屏風」を写したものですが、葉によって色の濃さを変えて
表裏を表し、かきつばたの数を少なくしてすっきりとまとめられています。
橋板にも少し緑色が入っています。
紙ではなく絹地に金箔を貼り、さらに金泥を刷いて、より輝くようにしている
とのことです。
第Ⅱ章 茶の湯の広まり― 一行書の登場
「待花軒図」 画:伝 周文 賛:大岳周崇ほか八僧 室町時代


春を待つ庵の中には主の蔵書が見え、従者が庭を掃いている静かな風景です。
周文(生没年不詳)は相国寺の僧で、如拙に絵を学び、雪舟の師ともなっています。
足利将軍家の絵の御用も務めていますが、真筆と特定される作品はありません。
大岳周崇(1345-1423)は臨済宗の僧で、足利義満の帰依を受けています。
画題にちなんだ漢詩を賛として加える詩画軸が流行していました。
一行書 「賓中主々中賓」 江月宗玩 江戸時代前期

江月宗玩(1574-1643)は茶人の津田宗及の子で、臨済宗の僧です。
この一行書は「主」の字が「・」と「王」、々の字も「・」になっているので、
上からも下からも同じ字が並んでいるように見えます。
「破墨山水図」 画:雪舟 賛:景徐周麟 室町時代

玉澗の簡潔な筆遣いに倣って、岩塊や川を行く小舟が描かれています。
明に渡航した雪舟は宋・元時代の水墨画に傾倒したようです。
「和歌色紙」 後陽成天皇 桃山時代 重要美術品

5月7日までの展示です。
金泥で雲と水流、燕子花、水草を描いた色紙に平安時代の歌人、源師時
(1017-1136)の歌を書いています。
絵柄を考えて、歌を選んでいます。
むらさきの いろにそみゆる かきつはた いけのぬなはの はひかゝりつつ
源師時(1077-1136)は平安時代後期の歌人で、堀河百首に納められた歌です。
堀河百首は堀川天皇に献じられた百首歌で、16名の歌人の歌を集めています。
「青磁浮牡丹不遊環耳花生」 龍泉窯 南宋時代

古代青銅器の形を模していますが、耳に付けた環は釉薬によって器に
貼り付いて動かないので、「不遊環」の名が付いています。
龍泉窯は浙江省龍泉市周辺にあった窯で、南宋から元代に青磁を生産していました。
澄んだ青色の、貫入(釉薬のヒビ)のほとんど無い器体が特徴です。
宋代の中国では牡丹が熱狂的に愛好されていたそうです。
特集 茶の湯と物語
「酒呑童子絵巻」 江戸時代中期
源頼光と四天王に藤原保昌の6人が八幡、住吉、熊野三神の導きにより、
大江山の酒呑童子を討ち取る物語です。
神より授かった神便鬼毒酒を酒盛りで鬼たちに勧める場面が展示されていて、
鬼にはそろそろ毒が回っています。
「銚子画賛」 仙厓 江戸時代後期
毒酒は鬼には毒ですが、人を元気付ける効能がありました。
大江山鬼か岩やの一挑子 毒と薬は飲む人にあり
銚子と酒杯が描かれ、酒飲みへの諫めが書いてあります。
「四季花木図屏風」 鈴木其一 六曲一双 江戸時代後期
右隻

左隻

右隻には白牡丹を囲むように紅白梅、蒲公英、菫、燕子花が
描かれています。
左隻に描かれているのは楓、白菊、桔梗、水仙、薮柑子です。
お酒呑童子のヤシの庭には四季の花が咲き乱れてました。
第Ⅲ章 近代数寄者の新たな趣向
「佐竹本三十六歌仙絵巻 柿本人麿」
画:伝 藤原信実 詞書:伝 後京極良経 鎌倉時代 重要文化財

大名の佐竹家に伝わった鎌倉時代の三十六歌仙絵巻です。
元は2巻の絵巻だったのが、大正時代に巻頭部分の「住吉明神」を含め、
37枚に切断されたものです。
直衣(のうし)に、烏帽子、右手に筆、左手に紙を持って座った老人の姿です。
平安時代に、歌人の藤原兼房が夢の中で柿本人麻呂に会ったという逸話があり、
その時見たという姿で人麻呂は描かれるようになったということです。
ほのゝとあかしのうらのあさきりに
しまかくれゆく舟をしそおもふ
「継色紙」 伝 小野道風 平安時代 重要文化財

「継色紙」は平安時代の名筆の一つで、「寸松庵色紙」、「升色紙」とともに
「三色紙」と呼ばれています。
元は万葉集、古今和歌集などの和歌を集めた冊子本で、優美な仮名の散らし書きで
書かれています。
大聖寺藩前田家の旧蔵で、近代に切断され、軸装されています。
むめのかの ふりおく ゆきにうつり せは
たれかは ゝなを わきて をらまし
「高野切第一種」 伝 紀貫之 平安時代 重要文化財

「高野切」は現存する古今和歌集最古の歌集で、一部が高野山に伝来したので
この名が付いています。
福岡藩黒田家の旧蔵です。
寛平のおほんときのきさいのみやの
うたあわせのうた
よみひとしら須
むめのかをそてにうつしてととめては
はるはすくともかたみならまし
寛平御時后宮歌合は寛平年間(889~893)に宇多天皇の母后班子の催した
歌合せです。
歌を寄せた紀貫之、紀友則、壬生忠岑らは三十六歌仙に選ばれています。
「石山切 伊勢集」 伝 藤原公任 平安時代後期 重要美術品

雅な切継の料紙に書かれていて、王朝美を極めています。
「石山切」は白河天皇の六十の賀を祝って制作された、「西本願寺本三十六人家集」の
うち、「貫之集下」と「伊勢集」のことです。
西本願寺の所蔵でしたが、昭和4年(1929)に2つの集が分割され、断簡になった時に
付けられた名です。
昔は本願寺が石山(後の大阪城)にあったことにちなんでいます。
をりとめてみまくほしきにふちのはな
影をたにとやなみのよるらむ
式部卿宮うせさせたまひて四十九日はてて人々家々ちりまかりいづるに
かなしさぞまさりにまさる人のみに
いかにおほかるなみだとかしる
君によりはかきしにや我はせむ
こひかへすべきいのちならねば
式部卿宮とは宇多天皇の第四皇子、敦慶親王のことで、美男として知られ、
伊勢との間に歌人の中務が生まれています。
「糸桜・萩図」 酒井抱一 江戸時代後期

糸桜の枝が奇抜な形に曲がっています。
短冊と色紙には酒井抱一自作の句が自筆で書かれています。
糸桜 そめやすき 人のこゝろや 糸さくら
萩 白萩や 有明残る 臼の跡
「古染付菱口中蕪耳付花生」 景徳鎮窯 明時代末期

大きな菱形の口で、「寿」の字が入り、雷文、縞文、蓮弁文が施されています。
日本の茶人の注文で作られたと思われます。
明治の元勲、井上馨の旧蔵です。
第Ⅳ章 煎茶の掛物
「紫交趾釉鳳凰文急須」 青木木米 江戸時代後期
「白泥煙霞幽賞涼炉・炉座」 青木木米 天保3年(1832)

高欄付きの炉座と煎茶の涼炉の上に急須が置かれています。
急須は元は中国で湯を沸かす道具でした。
涼炉の風を通す窓の中に女性が二人入っており、胴に「煙霞幽賞」と彫られています。
涼炉は火を入れる消耗品のため、残っている品は多くありません。
「高麗写荒磯文急須」 青木木米 江戸時代後期

煎茶の茶器を多く手掛けた青木木米の作品です。
急須なので、高さ9.4㎝と小振りです。
胴の上部分には雲間から現れた太陽、波間から飛び上がる鮭、下の部分には
霊芝が彫られています。
箱書に「高麗写」とあり、白高麗と呼ばれる白磁を焼いた中国の徳化窯を
意識したと思われます。
「木米喫茶図」 田能村竹田 文政6年(1823)


文人画家、豊後の田能村竹田(1777 - 1835)が青木木米を訪ね、
煎茶で歓待された時の様子です。
小さな炉を前に、茶碗を手に座った木米は如何にもくつろいでいます。
賛には、音曲と化粧の巷にあって、煎茶を吟味して楽しんでいるとあります。
青木木米は文人として頼山陽や田能村竹田、上田秋成らと交流しています。
展覧会のHPです。
東京
丸の内オアゾ内の丸善丸の内本店4階ギャラリーABでは「FANTANIMA!2023 IMAGINE」が
開かれています。
会期は5月2日(火)までです。

FANTANIMA(ファンタニマ)はファンタジー(幻想)とアニマ(生命)を
合わせた、展覧会のための造語です。
国内外の約90名という多数の作家による人形作品が集まり、展示販売されています。
布、ウール、陶磁器など、素材も多様で、可愛いかったり、面白かったり、
まさしくファンタジックだったりなど、さまざまな動物、スタイルの人形があります。
外国作家が多いので、日本の人形とは雰囲気が異なる作品が多いのも見所です。
ウクライナ戦争の体験をモチーフにした作品もあります。
昨年はウクライナ戦争の勃発で、ウクライナの一部の作家の作品が輸送出来なかった
そうですが、今年はどうだったのでしょうか。
展覧会のHPには各作家のプロフィル、コメント、作品の写真が載っています。
展覧会のHPです。
chariot
丸の内オアゾ内の丸善丸の内本店4階ギャラリーABでは「FANTANIMA!2023 IMAGINE」が
開かれています。
会期は5月2日(火)までです。

FANTANIMA(ファンタニマ)はファンタジー(幻想)とアニマ(生命)を
合わせた、展覧会のための造語です。
国内外の約90名という多数の作家による人形作品が集まり、展示販売されています。
布、ウール、陶磁器など、素材も多様で、可愛いかったり、面白かったり、
まさしくファンタジックだったりなど、さまざまな動物、スタイルの人形があります。
外国作家が多いので、日本の人形とは雰囲気が異なる作品が多いのも見所です。
ウクライナ戦争の体験をモチーフにした作品もあります。
昨年はウクライナ戦争の勃発で、ウクライナの一部の作家の作品が輸送出来なかった
そうですが、今年はどうだったのでしょうか。
展覧会のHPには各作家のプロフィル、コメント、作品の写真が載っています。
展覧会のHPです。
上野
4月に展示替えになった東京国立博物館の総合文化展(平常展)の記事を3回に分け、
今日はその3です。
「綱絵巻」 室町時代・16世紀





渡辺綱が羅生門で鬼退治をした話と、源頼光の病の原因が牛鬼であると突き止め、
その腕を斬って持ち帰るが、母に化けた牛鬼に取り返された話です。
「見立山吹の里」 鈴木春信 江戸時代・18世紀

雨具を貸してほしいとの太田道灌の頼みを断った逸話に拠っています。
七重八重花は咲けども山吹のみの(実の・蓑)一つだに無きぞ悲しき
「新板風流五節句遊・五月」 岩井半四郎 歌川豊国 江戸時代・18世紀

五月の節句で、菖蒲を活けています。
「幼時を夢見る坂田金時」 鳥居清長 江戸時代 18世紀

坂田金時が足柄山で熊と遊んでいた金太郎の時代の夢を見ています。
坂田金時は伝説上の人物ですが、源頼光の四天王の一人で、頼光に従って
大江山の酒呑童子を退治したとされています。
「出陣図」 蹄斎北馬 江戸時代 19世紀

肉筆浮世絵で、源頼朝の命により土佐坊昌俊の軍勢が京都の源義経の屋敷を
襲撃し(堀川夜討)、義経が迎え討つ場面です。
義経は静御前から兜を受け取り、馬は勇んで足掻いています。
蹄斎北馬(1770‐1844)は御家人の子ですが家を継がず、葛飾北斎に入門し、
谷文晁の手伝いもしています。
肉筆美人画を多く描いています。
「五月幟」 歌川国芳 江戸時代 嘉永2年(1849)

天保の改革による取締まりで江戸を追放された父の市川海老蔵(7代目市川団十郎)を
追って大坂に行く8代目市川団十郎の出発を祝って、魚市の人たち制作しています。
魚市らしく鯉を大きく描き、鍾馗は市川海老蔵の顔になっています。
「色絵蝶牡丹文大皿」 伊万里 江戸時代 17世紀

紫を中心にした濃厚な色彩と絵柄で、古九谷との共通性を思わせます。
***
1階のジャンル別展示 14室では「特集 ニール号引き揚げ品—ウィーン万博をめぐる
日欧の工芸文化交流—」の展示があります。
1873年のウィーン万国博覧会に出展した日本の美術工芸品や、帰国に際し集められた
ヨーロッパの品々を積んだニール号が1874年に伊豆沖で嵐のため沈没しています。
その後に引き揚げられた品や、あらためて海外から寄贈された作品などの展示です。
「色絵金彩婦人図皿」 ドイツ・バイエルン 19世紀

引き揚げられた品で、バイエルン国王マクシミリアン2世の王妃マリーの肖像です。
マクシミリアン2世はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの従弟に当たります。
ドイツ帝国の中の領邦国家だったバイエルン王国は第1次世界大戦による
ドイツ敗北と共に、1918年に消滅しています。
「色絵金彩婦人獅子図木瓜形盆」 イギリス 19世紀

裸体の女性、ライオン、蛇、背景にはピラミッドが描かれた、オリエンタリズムに拠る
絵柄です。
「銹絵葡萄図角皿」 乾山 江戸時代18世紀

乾山によく見られる角皿ですが、陶器で低温焼成のためか変色が進んでいます。
「鼈甲製鳥籠」 長崎 江戸時代 19世紀


籠や止まり木もべっ甲で作った精巧な細工です。
よく海中で腐食せずにいたものです。
chariot
4月に展示替えになった東京国立博物館の総合文化展(平常展)の記事を3回に分け、
今日はその3です。
「綱絵巻」 室町時代・16世紀





渡辺綱が羅生門で鬼退治をした話と、源頼光の病の原因が牛鬼であると突き止め、
その腕を斬って持ち帰るが、母に化けた牛鬼に取り返された話です。
「見立山吹の里」 鈴木春信 江戸時代・18世紀

雨具を貸してほしいとの太田道灌の頼みを断った逸話に拠っています。
七重八重花は咲けども山吹のみの(実の・蓑)一つだに無きぞ悲しき
「新板風流五節句遊・五月」 岩井半四郎 歌川豊国 江戸時代・18世紀

五月の節句で、菖蒲を活けています。
「幼時を夢見る坂田金時」 鳥居清長 江戸時代 18世紀

坂田金時が足柄山で熊と遊んでいた金太郎の時代の夢を見ています。
坂田金時は伝説上の人物ですが、源頼光の四天王の一人で、頼光に従って
大江山の酒呑童子を退治したとされています。
「出陣図」 蹄斎北馬 江戸時代 19世紀

肉筆浮世絵で、源頼朝の命により土佐坊昌俊の軍勢が京都の源義経の屋敷を
襲撃し(堀川夜討)、義経が迎え討つ場面です。
義経は静御前から兜を受け取り、馬は勇んで足掻いています。
蹄斎北馬(1770‐1844)は御家人の子ですが家を継がず、葛飾北斎に入門し、
谷文晁の手伝いもしています。
肉筆美人画を多く描いています。
「五月幟」 歌川国芳 江戸時代 嘉永2年(1849)

天保の改革による取締まりで江戸を追放された父の市川海老蔵(7代目市川団十郎)を
追って大坂に行く8代目市川団十郎の出発を祝って、魚市の人たち制作しています。
魚市らしく鯉を大きく描き、鍾馗は市川海老蔵の顔になっています。
「色絵蝶牡丹文大皿」 伊万里 江戸時代 17世紀

紫を中心にした濃厚な色彩と絵柄で、古九谷との共通性を思わせます。
***
1階のジャンル別展示 14室では「特集 ニール号引き揚げ品—ウィーン万博をめぐる
日欧の工芸文化交流—」の展示があります。
1873年のウィーン万国博覧会に出展した日本の美術工芸品や、帰国に際し集められた
ヨーロッパの品々を積んだニール号が1874年に伊豆沖で嵐のため沈没しています。
その後に引き揚げられた品や、あらためて海外から寄贈された作品などの展示です。
「色絵金彩婦人図皿」 ドイツ・バイエルン 19世紀

引き揚げられた品で、バイエルン国王マクシミリアン2世の王妃マリーの肖像です。
マクシミリアン2世はオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフの従弟に当たります。
ドイツ帝国の中の領邦国家だったバイエルン王国は第1次世界大戦による
ドイツ敗北と共に、1918年に消滅しています。
「色絵金彩婦人獅子図木瓜形盆」 イギリス 19世紀

裸体の女性、ライオン、蛇、背景にはピラミッドが描かれた、オリエンタリズムに拠る
絵柄です。
「銹絵葡萄図角皿」 乾山 江戸時代18世紀

乾山によく見られる角皿ですが、陶器で低温焼成のためか変色が進んでいます。
「鼈甲製鳥籠」 長崎 江戸時代 19世紀


籠や止まり木もべっ甲で作った精巧な細工です。
よく海中で腐食せずにいたものです。
上野
4月に展示替えになった東京国立博物館の総合文化展(平常展)の記事を3回に分け、
今日はその2で、屏風絵を載せます。
「花鳥図屏風」 海北友雪 江戸時代・17世紀



海北友雪(1598-1677)は海北友松(1533-1615)の子で、明智光秀の重臣で
友松と交流のあった斎藤利三が磔刑にされたとき、その遺骸を友松が
丁重に葬り、遺族を庇護したことから、利三の子である春日局は友雪を
庇護しています。
狩野派や大和絵など、さまざまな画風をこなし、禁裏御用も務めています。
「花鳥図屏風」 佚山黙隠 江戸時代・宝暦14年(1764)




佚山黙隠(1702-1778)は曹洞宗の僧で、書家としても知られています。
清の沈南蘋が伝えた細密な画風を長崎で学んでおり、画風は伊藤若冲に
通じるものがあります。
「秋山遊猿図」 森狙仙 江戸時代・19世紀 重要美術品

ちょっと愛嬌のある猿です。


森狙仙(1748-1821)は狩野派に学んだ後、写実的な画風を身に付けています。
特にふわりと繊細な毛並みの猿を描いた作品で有名で、猿の絵と言えば森狙仙と
呼ばれました。
「鹿図屏風」 柴田義董 江戸時代・19世紀




金屏風に牡鹿、牝鹿と秋草を取り合わせています。
柴田義董(1780-1819)は岡山の出身で、四条派の呉春に学んでいます。
古画の手本(粉本)をほとんど持たなかったということで、記憶力にも
優れていましたが、40歳で亡くなっています。
chariot
4月に展示替えになった東京国立博物館の総合文化展(平常展)の記事を3回に分け、
今日はその2で、屏風絵を載せます。
「花鳥図屏風」 海北友雪 江戸時代・17世紀



海北友雪(1598-1677)は海北友松(1533-1615)の子で、明智光秀の重臣で
友松と交流のあった斎藤利三が磔刑にされたとき、その遺骸を友松が
丁重に葬り、遺族を庇護したことから、利三の子である春日局は友雪を
庇護しています。
狩野派や大和絵など、さまざまな画風をこなし、禁裏御用も務めています。
「花鳥図屏風」 佚山黙隠 江戸時代・宝暦14年(1764)




佚山黙隠(1702-1778)は曹洞宗の僧で、書家としても知られています。
清の沈南蘋が伝えた細密な画風を長崎で学んでおり、画風は伊藤若冲に
通じるものがあります。
「秋山遊猿図」 森狙仙 江戸時代・19世紀 重要美術品

ちょっと愛嬌のある猿です。


森狙仙(1748-1821)は狩野派に学んだ後、写実的な画風を身に付けています。
特にふわりと繊細な毛並みの猿を描いた作品で有名で、猿の絵と言えば森狙仙と
呼ばれました。
「鹿図屏風」 柴田義董 江戸時代・19世紀




金屏風に牡鹿、牝鹿と秋草を取り合わせています。
柴田義董(1780-1819)は岡山の出身で、四条派の呉春に学んでいます。
古画の手本(粉本)をほとんど持たなかったということで、記憶力にも
優れていましたが、40歳で亡くなっています。
上野
4月に展示替えになった東京国立博物館の総合文化展(平常展)の記事を3回に分け、
今日その1で、仏画や書跡などを載せます。
「普賢菩薩像」 平安時代・12世紀 国宝


国宝室の展示です。
普賢菩薩は女人往生を説く法華経に登場するので、特に女性の信仰を集めています。
法華経に説かれた白色玉の身体をして、衣には截金が施され、白象に乗った
この上なく優美な姿で、天蓋には花が飾られています。
3年掛けた修理の後の展示ですが、写真は修理前のものです。
「白衣観音図」 吉山明兆筆、健中清勇賛 室町時代・15世紀

白衣観音(びゃくえかんのん)は三十三観音の一人で、白衣を着けています。
水墨のぼかしや濃淡など巧みに使い分けて描いています。
吉山明兆(1352-1431)は東福寺の画僧で、後の日本の仏画に大きな影響を
与えています。
健中清勇は建仁寺の121世住職です。
「白衣観音図」 伝 一之筆 室町時代・15世紀

衣を広げて座す観音の下には水流が波打ち、背景には滝も見えます。
縦2mを超える大きな作品で、儀式に使われたものと思われます。
一之(?-1394)は東福寺の画僧で、明兆に師事していますが
明兆よりかなり早く亡くなっているようです。
「文殊菩薩図」 伝 霊彩筆 室町時代・15世紀


湧き上がる雲が囲む構図で、繊細な線描が際立っています。
霊彩(生没年不詳)は明兆に師事したとも言われる画僧です。
寛正4年(1463)に朝鮮に渡り、世祖に「白衣観音図」を贈ったことが知られています。
「薬師如来坐像」 平安時代・11世紀 綜合警備保障株式会社蔵


右手は施無畏印、左手は与願印を結び、掌に薬壺を載せています。
丸みを帯びた穏やかな作風で、平安後期の定朝様でつくられています。
「称讃浄土仏摂受経」奈良時代・8世紀

無量寿仏(阿弥陀仏)の極楽浄土の壮麗さを説いたお経です。
1行目に「三蔵法師玄奘奉」とあります。
白荼毘紙という厚手の紙に書かれています。
荼毘紙は釈迦の骨粉を漉き込んだものとされていましたが、マユミの樹皮から
作られていたことが分かりました。
「願文」 慈円筆 鎌倉時代・貞応3年(1224) 重要文化財

死期を悟った慈円(1155-1225)が乱れた臨終を迎えないようにと
比叡山の地主神である山王権現に奉った願文です。
父の関白藤原忠通の始めた法性寺流の書風で、力強さがあります。
「書状案断簡」 文覚筆 鎌倉時代・12~13世紀

文覚(生没年不詳)は伊豆に配流された源頼朝に挙兵を促したとされ、
荒法師として知られています。
誰かに宛てた手紙の下書きで、取り消し線が入っています。
「もんかハたすかり候なむや」と書かれています。
「詩歌屏風」 良寛筆 江戸時代・18世紀


和歌と漢詩が良寛特有の細く力強い字で書かれています。
良寛(1758-1831)は曹洞宗の僧で、書家として知られ、和歌や俳句、漢詩も
能くしています。
書は始めは平安時代の「秋萩帖」を手本とし、やがて独自の書風となっています。
「蘇詩帖」 頼山陽筆 江戸時代・19世紀

頼山陽(1781-1832)は歴史家、文人で、歴史書「日本外史」で有名です。
蘇軾の詩の抜き書きで、雄渾な書風です。
江上愁心千疊山
浮空積翠如雲煙
山耶雲耶遠莫知
烟空雲散山依然
chariot
4月に展示替えになった東京国立博物館の総合文化展(平常展)の記事を3回に分け、
今日その1で、仏画や書跡などを載せます。
「普賢菩薩像」 平安時代・12世紀 国宝


国宝室の展示です。
普賢菩薩は女人往生を説く法華経に登場するので、特に女性の信仰を集めています。
法華経に説かれた白色玉の身体をして、衣には截金が施され、白象に乗った
この上なく優美な姿で、天蓋には花が飾られています。
3年掛けた修理の後の展示ですが、写真は修理前のものです。
「白衣観音図」 吉山明兆筆、健中清勇賛 室町時代・15世紀

白衣観音(びゃくえかんのん)は三十三観音の一人で、白衣を着けています。
水墨のぼかしや濃淡など巧みに使い分けて描いています。
吉山明兆(1352-1431)は東福寺の画僧で、後の日本の仏画に大きな影響を
与えています。
健中清勇は建仁寺の121世住職です。
「白衣観音図」 伝 一之筆 室町時代・15世紀

衣を広げて座す観音の下には水流が波打ち、背景には滝も見えます。
縦2mを超える大きな作品で、儀式に使われたものと思われます。
一之(?-1394)は東福寺の画僧で、明兆に師事していますが
明兆よりかなり早く亡くなっているようです。
「文殊菩薩図」 伝 霊彩筆 室町時代・15世紀


湧き上がる雲が囲む構図で、繊細な線描が際立っています。
霊彩(生没年不詳)は明兆に師事したとも言われる画僧です。
寛正4年(1463)に朝鮮に渡り、世祖に「白衣観音図」を贈ったことが知られています。
「薬師如来坐像」 平安時代・11世紀 綜合警備保障株式会社蔵


右手は施無畏印、左手は与願印を結び、掌に薬壺を載せています。
丸みを帯びた穏やかな作風で、平安後期の定朝様でつくられています。
「称讃浄土仏摂受経」奈良時代・8世紀

無量寿仏(阿弥陀仏)の極楽浄土の壮麗さを説いたお経です。
1行目に「三蔵法師玄奘奉」とあります。
白荼毘紙という厚手の紙に書かれています。
荼毘紙は釈迦の骨粉を漉き込んだものとされていましたが、マユミの樹皮から
作られていたことが分かりました。
「願文」 慈円筆 鎌倉時代・貞応3年(1224) 重要文化財

死期を悟った慈円(1155-1225)が乱れた臨終を迎えないようにと
比叡山の地主神である山王権現に奉った願文です。
父の関白藤原忠通の始めた法性寺流の書風で、力強さがあります。
「書状案断簡」 文覚筆 鎌倉時代・12~13世紀

文覚(生没年不詳)は伊豆に配流された源頼朝に挙兵を促したとされ、
荒法師として知られています。
誰かに宛てた手紙の下書きで、取り消し線が入っています。
「もんかハたすかり候なむや」と書かれています。
「詩歌屏風」 良寛筆 江戸時代・18世紀


和歌と漢詩が良寛特有の細く力強い字で書かれています。
良寛(1758-1831)は曹洞宗の僧で、書家として知られ、和歌や俳句、漢詩も
能くしています。
書は始めは平安時代の「秋萩帖」を手本とし、やがて独自の書風となっています。
「蘇詩帖」 頼山陽筆 江戸時代・19世紀

頼山陽(1781-1832)は歴史家、文人で、歴史書「日本外史」で有名です。
蘇軾の詩の抜き書きで、雄渾な書風です。
江上愁心千疊山
浮空積翠如雲煙
山耶雲耶遠莫知
烟空雲散山依然
三越前
日本橋の三井記念美術館ではNHK大河ドラマ展「どうする家康」が開かれています。
会期は6月11日(日)までです。

会期中、かなりの展示替えがありますので、展覧会のHPでご確認下さい。
「金陀美具足」 桃山時代 16世紀 静岡・久能山東照宮博物館 重要文化財

徳川家康(1543‐1616)の初陣は永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの前哨戦である
今川方の大高城への兵糧の運び込みでした。
その時着用の甲冑とされ、漆を塗り金粉をまぶした金陀美(金溜塗)で、
装飾は無く、兜は前立ても無い頭形兜(ずなりかぶと)という、簡素な当世具足です。
隣には2代将軍秀忠の「茶糸威具足」も展示されていますが、かなり胴が太く、
秀忠は大きな体格だったようです。
「長篠合戦図屏風」 江戸時代 17世紀 名古屋市博物館


6曲1隻の屏風で、織田徳川連合軍が描かれています。
馬防柵の前に出て連吾川を越えて攻撃しています。
徳川家康の金扇の馬印も見えます。
「織田信長像」 狩野宗秀 天正11年(1583) 愛知・長興寺 重要文化財


5月30日からの展示です。
信長の一周忌に信長の家臣、与語久三郎正勝が狩野永徳の弟、狩野宗秀に
描かせたものです。
織田信長像の代表となる絵で、鼻は大きく、眉間の皺が癇の強そうな性格を
表しています。
長興寺は臨済宗の寺院で、城と間違えた信長の焼討ちにあったこともあります。
5月14日までは狩野永徳の描いた大徳寺蔵の織田信長像が展示されています。
「明智光秀像」(部分) 江戸時代 17世紀 岸和田・本徳寺

4月30日までの展示です。
明智光秀像として知られている唯一の画像です。
本徳寺は臨済宗の寺院で、明智光秀の子と伝わる南国梵桂の開基です。
「豊臣秀吉像 南化玄興賛」(部分) 狩野光信
桃山時代 16 ~ 17世紀 京都・高台寺 重要文化財

5月14日までの展示です。
高台寺は豊臣秀吉の正室北政所の建立した臨済宗の寺院です。
南化玄興は妙心寺58世住持で、多くの戦国大名の帰依を受け、田中吉政の
依頼で秀吉像に賛を書いています。
田中吉政は関ヶ原の戦いでは東軍に付き、石田三成を捕縛した功で柳川32万石の
大名に取り立てられています。
「聚楽第行幸図屏風」 江戸時代 17世紀 堺市博物館


5月14日までの展示です。
関白豊臣秀吉が天正16年(1588)に後陽成天皇を聚楽第に迎える盛儀を描いています。
元は6曲1双だったのを2曲1双に仕立て直したらしく、左右の隻の画面がつながって
いません。
「小面(花の小面)」 龍右衛門作
室町時代 14 〜 16世紀 三井記念美術館 重要文化財

豊臣秀吉が愛好したという「雪」・「月」・「花」の小面の一つで、特に後世の作の
手本となったそうです。
「雪」は金春太夫に、「月」は徳川家康に、「花」は金剛太夫に下賜されましたが、
「月」は江戸城の火災で焼失しています。
「豊臣秀吉自筆辞世和歌詠草」 豊臣秀吉
桃山時代 16世紀 大阪城天守閣 重要文化財
5月14日までの展示です。
つゆとをちつゆときへにしわかみかな なにわの事もゆめの又ゆめ
秀吉が夢と述懐した通り天下の大坂城は後に大坂夏の陣で焼亡してしまいました
「内府ちがいの条々」 慶長5年(1600)7月17日 大阪歴史博物館
5月16日からの展示です。
徳川家康が軍勢を率いて上杉景勝の会津征伐に赴いた隙を狙って、長束正家・増田長盛・
前田玄以の三奉行が発した家康への弾劾状です。
原本は確認されておらず、写しが何点か残っています。
「関ヶ原合戦図屏風(津軽屏風)」
桃山~江戸時代 16 ~ 17世紀 大阪歴史博物館 重要文化財

右隻は慶長5年(1600)9月14日の東西両軍が集結した状況で、大垣城も見えます。
(左隻部分)

合戦当日の9月15日の様子が描かれ、合戦の終盤、西軍が敗走し、島津の陣地に
火が放たれ、東軍が押し寄せています。
武具を剥がされ、首を取られた落ち武者も散らばっています。
津軽家伝来の屏風で、徳川家康の養女、満天姫が津軽信枚に嫁いだ際の
嫁入り道具とされています。
満天姫は家康の異母弟、松平康元の娘で、福島正則の養嗣子福島正之に嫁ぎますが、
正之に先立たれた後、津軽信枚の正室となります。
「大日本五道中図屏風(江戸~京都)」江戸時代 19世紀 三井記念美術館

8曲2双という長大な屏風で、徳川家康の事績を描き込んでいます。
駿府

久能山東照宮

家康は駿府で没後に駿府の久能山東照宮に葬られ、その後3代将軍家光によって
日光東照宮に改葬されています。
関ケ原には東西両軍の布陣が書かれています。

「大坂冬の陣図屏風」 江戸時代 19世紀 東京国立博物館

慶長19年(1614)の大坂冬の陣の様子です。
真田丸に立て籠もる赤備えの真田軍

寄せ手の作った弾除けの竹束や土塁

晩年の徳川家康が日常使っていた脇差、茶碗、香炉、硯などの品々も展示されています。
「洋時計」 1573年製 1581年改造 久能山東照宮博物館 重要文化財

房総沖で難破したスペイン船の船員を救助したお礼に慶長16年(1611)に
スペイン国王フェリペ3世から贈られた時計です。
ブリュッセルで製作され、マドリッドで改造された国内最古の時打ち時計です。
現場で救助を指揮したのは大多喜領主の本多忠朝で、忠朝は大坂夏の陣で
討死しています。
「短刀 無銘正宗 名物日向正宗」 鎌倉時代 14世紀 三井記念美術館 国宝

5月14日までの展示です。
豊臣秀吉から石田三成に下され、三成から妹婿の福原直高に与えられ、
関ヶ原の戦いで大垣城の守将だった直高から水野日向守勝成が分捕っています。
その後、紀州徳川家に渡り、昭和の始めに三井家の所有となっています。
細身で、反りの無い姿です。
茶室の如庵は家康ゆかりの茶道具の展示です。
徳川家康自筆 小倉色紙臨模 「こひすてふ…」
桃山~江戸時代 16~17世紀 愛知・徳川美術館
5月14日までの展示です。
百人一首にも載っている壬生忠見の歌です。
藤原定家の書風に似ているなと思ったら、定家の小倉色紙の模写で、
家康は定家様を好んだようです。
後水尾天皇宸翰神号「東照大権現」 後水尾天皇
江戸時代 17世紀 静岡・久能山東照宮博物館

5月14日までの展示です。
徳川家康は死後、神として祀られ、朝廷から東照大権現の神号を賜っています。
「太刀 無銘 光世 切付銘 妙純伝持 ソハヤノツルキウツスナリ」
伝三池光世 鎌倉時代 13世紀 静岡・久能山東照宮博物館 重要文化財

5月14日までの展示です。
身幅は広く、樋も入った、とても豪宕なつくりです。
家康の差料で常に身近に置かれていました。
死去の直前には罪人の試し斬りをさせ、西国への抑えとして切先を西に向けて
久能山東照宮に置くよう命じています。
しかし、家康の危惧した通り、幕末には島津や毛利など関ヶ原に敗れた西国諸藩を
中心とする勢力によって徳川幕府は滅びています。
「革柄蠟色鞘刀拵」 桃山~江戸時代 16 ~ 17世紀
静岡・久能山東照宮博物館 重要文化財
5月14日までの展示です。
無銘光世の拵えで、太刀ではなく打刀の拵えです。
鞘も蠟色一色の簡素なつくりになっています。
家康は派手好みではなく、の所持品も簡素な物を好んだようです。
豊臣秀吉が刀掛けに掛けてある五大老の刀を見て、誰の差料か言い当てたそうですが、
家康の好みも知っていたのでしょう。
天下を取るだけあって人物を見る目も確かだったようです。
展覧会のHPです。
chariot
日本橋の三井記念美術館ではNHK大河ドラマ展「どうする家康」が開かれています。
会期は6月11日(日)までです。

会期中、かなりの展示替えがありますので、展覧会のHPでご確認下さい。
「金陀美具足」 桃山時代 16世紀 静岡・久能山東照宮博物館 重要文化財

徳川家康(1543‐1616)の初陣は永禄3年(1560)の桶狭間の戦いの前哨戦である
今川方の大高城への兵糧の運び込みでした。
その時着用の甲冑とされ、漆を塗り金粉をまぶした金陀美(金溜塗)で、
装飾は無く、兜は前立ても無い頭形兜(ずなりかぶと)という、簡素な当世具足です。
隣には2代将軍秀忠の「茶糸威具足」も展示されていますが、かなり胴が太く、
秀忠は大きな体格だったようです。
「長篠合戦図屏風」 江戸時代 17世紀 名古屋市博物館


6曲1隻の屏風で、織田徳川連合軍が描かれています。
馬防柵の前に出て連吾川を越えて攻撃しています。
徳川家康の金扇の馬印も見えます。
「織田信長像」 狩野宗秀 天正11年(1583) 愛知・長興寺 重要文化財


5月30日からの展示です。
信長の一周忌に信長の家臣、与語久三郎正勝が狩野永徳の弟、狩野宗秀に
描かせたものです。
織田信長像の代表となる絵で、鼻は大きく、眉間の皺が癇の強そうな性格を
表しています。
長興寺は臨済宗の寺院で、城と間違えた信長の焼討ちにあったこともあります。
5月14日までは狩野永徳の描いた大徳寺蔵の織田信長像が展示されています。
「明智光秀像」(部分) 江戸時代 17世紀 岸和田・本徳寺

4月30日までの展示です。
明智光秀像として知られている唯一の画像です。
本徳寺は臨済宗の寺院で、明智光秀の子と伝わる南国梵桂の開基です。
「豊臣秀吉像 南化玄興賛」(部分) 狩野光信
桃山時代 16 ~ 17世紀 京都・高台寺 重要文化財

5月14日までの展示です。
高台寺は豊臣秀吉の正室北政所の建立した臨済宗の寺院です。
南化玄興は妙心寺58世住持で、多くの戦国大名の帰依を受け、田中吉政の
依頼で秀吉像に賛を書いています。
田中吉政は関ヶ原の戦いでは東軍に付き、石田三成を捕縛した功で柳川32万石の
大名に取り立てられています。
「聚楽第行幸図屏風」 江戸時代 17世紀 堺市博物館


5月14日までの展示です。
関白豊臣秀吉が天正16年(1588)に後陽成天皇を聚楽第に迎える盛儀を描いています。
元は6曲1双だったのを2曲1双に仕立て直したらしく、左右の隻の画面がつながって
いません。
「小面(花の小面)」 龍右衛門作
室町時代 14 〜 16世紀 三井記念美術館 重要文化財

豊臣秀吉が愛好したという「雪」・「月」・「花」の小面の一つで、特に後世の作の
手本となったそうです。
「雪」は金春太夫に、「月」は徳川家康に、「花」は金剛太夫に下賜されましたが、
「月」は江戸城の火災で焼失しています。
「豊臣秀吉自筆辞世和歌詠草」 豊臣秀吉
桃山時代 16世紀 大阪城天守閣 重要文化財
5月14日までの展示です。
つゆとをちつゆときへにしわかみかな なにわの事もゆめの又ゆめ
秀吉が夢と述懐した通り天下の大坂城は後に大坂夏の陣で焼亡してしまいました
「内府ちがいの条々」 慶長5年(1600)7月17日 大阪歴史博物館
5月16日からの展示です。
徳川家康が軍勢を率いて上杉景勝の会津征伐に赴いた隙を狙って、長束正家・増田長盛・
前田玄以の三奉行が発した家康への弾劾状です。
原本は確認されておらず、写しが何点か残っています。
「関ヶ原合戦図屏風(津軽屏風)」
桃山~江戸時代 16 ~ 17世紀 大阪歴史博物館 重要文化財

右隻は慶長5年(1600)9月14日の東西両軍が集結した状況で、大垣城も見えます。
(左隻部分)

合戦当日の9月15日の様子が描かれ、合戦の終盤、西軍が敗走し、島津の陣地に
火が放たれ、東軍が押し寄せています。
武具を剥がされ、首を取られた落ち武者も散らばっています。
津軽家伝来の屏風で、徳川家康の養女、満天姫が津軽信枚に嫁いだ際の
嫁入り道具とされています。
満天姫は家康の異母弟、松平康元の娘で、福島正則の養嗣子福島正之に嫁ぎますが、
正之に先立たれた後、津軽信枚の正室となります。
「大日本五道中図屏風(江戸~京都)」江戸時代 19世紀 三井記念美術館

8曲2双という長大な屏風で、徳川家康の事績を描き込んでいます。
駿府

久能山東照宮

家康は駿府で没後に駿府の久能山東照宮に葬られ、その後3代将軍家光によって
日光東照宮に改葬されています。
関ケ原には東西両軍の布陣が書かれています。

「大坂冬の陣図屏風」 江戸時代 19世紀 東京国立博物館

慶長19年(1614)の大坂冬の陣の様子です。
真田丸に立て籠もる赤備えの真田軍

寄せ手の作った弾除けの竹束や土塁

晩年の徳川家康が日常使っていた脇差、茶碗、香炉、硯などの品々も展示されています。
「洋時計」 1573年製 1581年改造 久能山東照宮博物館 重要文化財

房総沖で難破したスペイン船の船員を救助したお礼に慶長16年(1611)に
スペイン国王フェリペ3世から贈られた時計です。
ブリュッセルで製作され、マドリッドで改造された国内最古の時打ち時計です。
現場で救助を指揮したのは大多喜領主の本多忠朝で、忠朝は大坂夏の陣で
討死しています。
「短刀 無銘正宗 名物日向正宗」 鎌倉時代 14世紀 三井記念美術館 国宝

5月14日までの展示です。
豊臣秀吉から石田三成に下され、三成から妹婿の福原直高に与えられ、
関ヶ原の戦いで大垣城の守将だった直高から水野日向守勝成が分捕っています。
その後、紀州徳川家に渡り、昭和の始めに三井家の所有となっています。
細身で、反りの無い姿です。
茶室の如庵は家康ゆかりの茶道具の展示です。
徳川家康自筆 小倉色紙臨模 「こひすてふ…」
桃山~江戸時代 16~17世紀 愛知・徳川美術館
5月14日までの展示です。
百人一首にも載っている壬生忠見の歌です。
藤原定家の書風に似ているなと思ったら、定家の小倉色紙の模写で、
家康は定家様を好んだようです。
後水尾天皇宸翰神号「東照大権現」 後水尾天皇
江戸時代 17世紀 静岡・久能山東照宮博物館

5月14日までの展示です。
徳川家康は死後、神として祀られ、朝廷から東照大権現の神号を賜っています。
「太刀 無銘 光世 切付銘 妙純伝持 ソハヤノツルキウツスナリ」
伝三池光世 鎌倉時代 13世紀 静岡・久能山東照宮博物館 重要文化財

5月14日までの展示です。
身幅は広く、樋も入った、とても豪宕なつくりです。
家康の差料で常に身近に置かれていました。
死去の直前には罪人の試し斬りをさせ、西国への抑えとして切先を西に向けて
久能山東照宮に置くよう命じています。
しかし、家康の危惧した通り、幕末には島津や毛利など関ヶ原に敗れた西国諸藩を
中心とする勢力によって徳川幕府は滅びています。
「革柄蠟色鞘刀拵」 桃山~江戸時代 16 ~ 17世紀
静岡・久能山東照宮博物館 重要文化財
5月14日までの展示です。
無銘光世の拵えで、太刀ではなく打刀の拵えです。
鞘も蠟色一色の簡素なつくりになっています。
家康は派手好みではなく、の所持品も簡素な物を好んだようです。
豊臣秀吉が刀掛けに掛けてある五大老の刀を見て、誰の差料か言い当てたそうですが、
家康の好みも知っていたのでしょう。
天下を取るだけあって人物を見る目も確かだったようです。
展覧会のHPです。
駒込・千石
駒込の東洋文庫ミュージアムでは「フローラとファウナ 動植物誌の東西交流」展が
開かれています。
会期は5月14日(日)までです。

フローラ(flora)はラテン語で、ある地域と時間の中の植物全体、ファウナ(fauna)は
動物全体を表します。
2023年はドイツ人医師で博物学者のシーボルト(1796-1866)がオランダ商館医として
来日して200年にあたります。
シーボルトは日本の動植物の数多くの標本や書物を持ち帰って、著作にまとめています。
展覧会では東洋文庫の所蔵する動植物の貴重な図鑑、図譜類を展示しています。
「博物誌」 プリニウス 77年成立(1950年、パリ刊行)

自然界の歴史を網羅した、史上初の百科全書的な大著です。
「神農本草経」 1-2世紀頃成立か 作者未詳 1854年刊

中国最古とされる薬学書で、薬用になる動植物、鉱物について記述しています。
「本草和名」 深根輔仁編 918年頃成立 1796年刊

平安時代の医博士、深根輔仁が中国の本草書に書かれた薬物の和名、
日本での産地などをまとめています。
「三才図会」 王圻(おうき) 万暦37年(1609)刊

王圻(1530 - 1615)は明時代の学者で、天文地理や動植物について図入りで
説明した図鑑を制作しています。
三才は天・地・人つまり万物のことです。
内容は不完全なところがあり、右ページのカブトガニ(鱟)は図が不正確です。
「和漢三才図会」 寺島良安 正徳5年(1715)刊

大坂の医師、寺島良安(1654 - ?)が「三才図会」に日本の動植物を加えた図会で、
日本で観察できるものについては実地調査し、約30年かけて完成させています。
カブトガニ(鱟)の図も正確になっています。
「セイロン植物誌」 リンネ 1748年 アムステルダム刊

スウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネ(1707-1778)はリンネ式階層分離体系を
考案し、「分類学の父」と呼ばれています。
「茶の国、中国への旅」 ロバート・フォーチュン 1852年 ロンドン刊

ロバート・フォーチュン(1812-1880)はスコットランドの博物学者で、中国に派遣され、
茶の樹と茶の栽培技術をインドに持ち込んで、茶の製造を行なっています。
幕末の日本を訪れたこともあります。
「家畜と栽培植物の変異」 チャールズ・ダーウィン 1868年 ロンドン刊

チャールズ・ダーウィン(1809-1882)が動物の家畜化と栽培植物、遺伝について
進化論に基いて解説した研究書です。
あらゆる家畜化された鳩の原型をカワラバトだとしています。
「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」 平賀国倫(源内)編 宝暦13年(1763)

平賀源内(1728-1780)が本草学者の田村藍水(1718-1776)と共に、当時開かれた
物産会の展示品のうち、360種類を選んで産地などを解説した、一種の展示品目録です。
朝鮮人参や甘蔗の栽培方法も書かれていて、輸入品だった朝鮮人参や砂糖の
国産化を促す意図もあったようです。
「蒹葭堂雑録」 木村蒹葭堂著 暁鐘成編 1859年刊

木村蒹葭堂(きむらけんかどう、1736-1802)は大坂の文人で、博識と膨大な
コレクションで知られ、広い交友関係を持っていました。
訪れた文化人は、青木木米、伊藤若冲、上田秋成、浦上玉堂、大田南畝、
田能村竹田、円山応挙、最上徳内、本居宣長、与謝蕪村、頼山陽など
極めて多彩です。
「廻国奇観」 エンゲルベルト・ケンペル 1712年 レムゴー刊

エンゲルベルト・ケンペル(1651-1716)はドイツ出身の医師、博物学者で、
長期の世界旅行の途中にオランダ船で長崎の出島に来航しています。
帰国後にペルシャや日本など、滞在した国の見聞をまとめています。
絶滅したとヨーロッパで考えられていたイチョウが日本にあることを発見もしています。
「日本植物誌」 カール・ツンベルク 1784年

カール・ツンベルク(1743-1828)はスウェーデンの博物学者で、リンネに師事しています。
出島のオランダ商館医として日本に滞在し、リンネの分類法と命名法によって
日本の植物をヨーロッパに紹介しています。
「NIPPON」 シーボルト 1832-35年 ライデン刊

シーボルト(1796-1866)はドイツ人医師で、1823年にオランダ商館医として
来日し、塾の開設を許可され、多くの塾生に西洋医学を教授しています。
日本研究の集大成となる書で、開いてあるのは茶についてのページです。
「日本植物誌」 シーボルト 1835-70年 ライデン

日本の植物学者たちの協力で収集した植物標本を元に、約150点の挿絵とともに
生育地や名称、利用法などが詳細に書かれ、約35年かけて制作されています。
「菩多尼訶経」 宇田川榕菴 1834年

宇田川榕菴(1798-1846)は蘭学者で、西洋の化学や植物学などを日本に
紹介しています。
酸素、温度、細胞など数多くの用語は宇田川榕菴の造語です。
西洋植物学の入門書で、リンネの植物分類を紹介しています。
菩多尼訶はラテン語のbotanicaのことで、お経と同じく如是我聞の句で始まる
経文の形式を採っています。
西洋の学問への反発を考慮した、涙ぐましい工夫です。
「草花写生図」 増山正賢 文化8年(1811)

増山正賢(1754-1819)は伊勢長島藩第5代藩主で、文人大名として知られています。
本草学を好み、絵は木村蒹葭堂に学んで、動植物を細密に写生しています。
「本草図譜」 岩崎灌園 文政11年(1828)完成

岩崎灌園(1786-1842)は徒士の幕臣で、本草学者です。
従来の本草書に描かれた図が不完全だったり、欠落していることに不満を持ち、
20年かけて自ら2000種の植物を描いた図譜を制作しています。
日本で最初の植物図鑑とされています。
「桜華八十図」 作者、制作年不明

江戸を中心にした各地の桜80種を集めた写生図集です。
日本では11の野生種を交配させて多くの品種を生んでいます。
「花壇朝顔通」 壷天堂主人著 森春渓画 文化12年(1815)

奈良時代に遣唐使によって薬草として持ち帰られた朝顔は江戸時代後期には
栽培ブームが起こっています。
180種ほどの朝顔を集めた日本最初の朝顔図鑑です。
古代以来、動植物への知識が深まり、正確になっていく様子がよく分かる展示です。
展覧会のHPです。
chariot
駒込の東洋文庫ミュージアムでは「フローラとファウナ 動植物誌の東西交流」展が
開かれています。
会期は5月14日(日)までです。

フローラ(flora)はラテン語で、ある地域と時間の中の植物全体、ファウナ(fauna)は
動物全体を表します。
2023年はドイツ人医師で博物学者のシーボルト(1796-1866)がオランダ商館医として
来日して200年にあたります。
シーボルトは日本の動植物の数多くの標本や書物を持ち帰って、著作にまとめています。
展覧会では東洋文庫の所蔵する動植物の貴重な図鑑、図譜類を展示しています。
「博物誌」 プリニウス 77年成立(1950年、パリ刊行)

自然界の歴史を網羅した、史上初の百科全書的な大著です。
「神農本草経」 1-2世紀頃成立か 作者未詳 1854年刊

中国最古とされる薬学書で、薬用になる動植物、鉱物について記述しています。
「本草和名」 深根輔仁編 918年頃成立 1796年刊

平安時代の医博士、深根輔仁が中国の本草書に書かれた薬物の和名、
日本での産地などをまとめています。
「三才図会」 王圻(おうき) 万暦37年(1609)刊

王圻(1530 - 1615)は明時代の学者で、天文地理や動植物について図入りで
説明した図鑑を制作しています。
三才は天・地・人つまり万物のことです。
内容は不完全なところがあり、右ページのカブトガニ(鱟)は図が不正確です。
「和漢三才図会」 寺島良安 正徳5年(1715)刊

大坂の医師、寺島良安(1654 - ?)が「三才図会」に日本の動植物を加えた図会で、
日本で観察できるものについては実地調査し、約30年かけて完成させています。
カブトガニ(鱟)の図も正確になっています。
「セイロン植物誌」 リンネ 1748年 アムステルダム刊

スウェーデンの博物学者カール・フォン・リンネ(1707-1778)はリンネ式階層分離体系を
考案し、「分類学の父」と呼ばれています。
「茶の国、中国への旅」 ロバート・フォーチュン 1852年 ロンドン刊

ロバート・フォーチュン(1812-1880)はスコットランドの博物学者で、中国に派遣され、
茶の樹と茶の栽培技術をインドに持ち込んで、茶の製造を行なっています。
幕末の日本を訪れたこともあります。
「家畜と栽培植物の変異」 チャールズ・ダーウィン 1868年 ロンドン刊

チャールズ・ダーウィン(1809-1882)が動物の家畜化と栽培植物、遺伝について
進化論に基いて解説した研究書です。
あらゆる家畜化された鳩の原型をカワラバトだとしています。
「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」 平賀国倫(源内)編 宝暦13年(1763)

平賀源内(1728-1780)が本草学者の田村藍水(1718-1776)と共に、当時開かれた
物産会の展示品のうち、360種類を選んで産地などを解説した、一種の展示品目録です。
朝鮮人参や甘蔗の栽培方法も書かれていて、輸入品だった朝鮮人参や砂糖の
国産化を促す意図もあったようです。
「蒹葭堂雑録」 木村蒹葭堂著 暁鐘成編 1859年刊

木村蒹葭堂(きむらけんかどう、1736-1802)は大坂の文人で、博識と膨大な
コレクションで知られ、広い交友関係を持っていました。
訪れた文化人は、青木木米、伊藤若冲、上田秋成、浦上玉堂、大田南畝、
田能村竹田、円山応挙、最上徳内、本居宣長、与謝蕪村、頼山陽など
極めて多彩です。
「廻国奇観」 エンゲルベルト・ケンペル 1712年 レムゴー刊

エンゲルベルト・ケンペル(1651-1716)はドイツ出身の医師、博物学者で、
長期の世界旅行の途中にオランダ船で長崎の出島に来航しています。
帰国後にペルシャや日本など、滞在した国の見聞をまとめています。
絶滅したとヨーロッパで考えられていたイチョウが日本にあることを発見もしています。
「日本植物誌」 カール・ツンベルク 1784年

カール・ツンベルク(1743-1828)はスウェーデンの博物学者で、リンネに師事しています。
出島のオランダ商館医として日本に滞在し、リンネの分類法と命名法によって
日本の植物をヨーロッパに紹介しています。
「NIPPON」 シーボルト 1832-35年 ライデン刊

シーボルト(1796-1866)はドイツ人医師で、1823年にオランダ商館医として
来日し、塾の開設を許可され、多くの塾生に西洋医学を教授しています。
日本研究の集大成となる書で、開いてあるのは茶についてのページです。
「日本植物誌」 シーボルト 1835-70年 ライデン

日本の植物学者たちの協力で収集した植物標本を元に、約150点の挿絵とともに
生育地や名称、利用法などが詳細に書かれ、約35年かけて制作されています。
「菩多尼訶経」 宇田川榕菴 1834年

宇田川榕菴(1798-1846)は蘭学者で、西洋の化学や植物学などを日本に
紹介しています。
酸素、温度、細胞など数多くの用語は宇田川榕菴の造語です。
西洋植物学の入門書で、リンネの植物分類を紹介しています。
菩多尼訶はラテン語のbotanicaのことで、お経と同じく如是我聞の句で始まる
経文の形式を採っています。
西洋の学問への反発を考慮した、涙ぐましい工夫です。
「草花写生図」 増山正賢 文化8年(1811)

増山正賢(1754-1819)は伊勢長島藩第5代藩主で、文人大名として知られています。
本草学を好み、絵は木村蒹葭堂に学んで、動植物を細密に写生しています。
「本草図譜」 岩崎灌園 文政11年(1828)完成

岩崎灌園(1786-1842)は徒士の幕臣で、本草学者です。
従来の本草書に描かれた図が不完全だったり、欠落していることに不満を持ち、
20年かけて自ら2000種の植物を描いた図譜を制作しています。
日本で最初の植物図鑑とされています。
「桜華八十図」 作者、制作年不明

江戸を中心にした各地の桜80種を集めた写生図集です。
日本では11の野生種を交配させて多くの品種を生んでいます。
「花壇朝顔通」 壷天堂主人著 森春渓画 文化12年(1815)

奈良時代に遣唐使によって薬草として持ち帰られた朝顔は江戸時代後期には
栽培ブームが起こっています。
180種ほどの朝顔を集めた日本最初の朝顔図鑑です。
古代以来、動植物への知識が深まり、正確になっていく様子がよく分かる展示です。
展覧会のHPです。
東京
東京駅の東京ステーションギャラリーでは「大阪の日本画」展が
開かれています。
会期は6月11日(日)までです。

近代大阪の50名以上の日本画家の作品が展示されています。
会期中、かなりの展示替えがありますので、展覧会のHPでご確認下さい。
第一章 ひとを描く ― 北野恒富とその門下
北野恒富(1880-1947)は金沢の士族の子で、大阪画壇を代表する画家として
活躍し、中村貞以、島成園、生田花朝ら多くの画家を育てています。
中村貞以 「失題」 1921年 大阪中之島美術館

脇息に寄り掛かった女性は目を見開き、何かを見詰めています。
こうもり模様の着物は大きく膨らみ、ボリュームいっぱいで、大正時代らしい
どこか妖しい雰囲気があります。
中村貞以(1980-1982)は船場の鼻緒問屋に生まれています。
2歳の時に手に火傷を負いますが、絵の才能があり、両手で絵筆を挟んで
描きました。
第二章 文化を描く — 菅楯彦、生田花朝
菅楯彦 「阪都四つ橋」 1946年 鳥取県立博物館


長堀川と西横堀川の交差する地点に口の字形に架けられていた四つの橋の
賑わいを描いた作品です。
江戸時代の風俗で、月明かりの下で茶店、魚屋、本屋、易者などが並ぶ中を
人々が行き交っています。
懐旧の情にあふれた作品で、同じ頃に鏑木清方が明治の東京の下町を描いた
「朝夕安居」に通じるものがあります。
菅楯彦は大正時代の終わり頃から失われていく大阪の風情を惜しむ作品を
描いています。
大阪は太平洋戦争末期の1945年に何度も大空襲を受けて焼け野が原となり、
その後に堀川も埋め立てられて、橋も撤去されました。
菅楯彦(1878-1963)は鳥取市出身で、日本画家だった父から少年時代に
絵を習った以外は貧窮の中で独学で絵を学んでいます。
浪速の風俗を描くことを好み、その功績から1962年には初代の大阪市名誉市民に
選ばれています。
生田花朝 「天神祭」 1935年 大阪府立中之島図書館


天神祭は大阪天満宮の夏祭で、京都の祇園祭、東京の神田祭と並び、
日本三大祭の一つとされています。
大川(旧淀川)で催される船渡御の様子で、多くの船の集まる賑わいを
江戸時代の風俗で描いています。
生田花朝(1889-1978)は大阪生まれで、始め花朝、後に花朝女と号し、
菅楯彦と北野恒富に師事した女性画家です。
祭や寺院など大阪を題材にした華やかな作品を多く描いています。
第三章 新たなる山水を描く — 矢野橋村と新南画
矢野橋村(1890-1965)は今治出身で、大阪陸軍造兵廠での作業中に
左手首切断の事故を起こしています。
その後、日本画家を志し、南画を学んで、新南画と呼ばれる独特の画風を
確立しています。
矢野橋村 「峠道」 1959年 個人蔵

5月14日までの展示です。
空間を広々と取る南画と異なり、大きく曲がった野道を中央に据えた、
奇抜で濃密な画面です。
第四章 文人画 — 街に息づく中国趣味
河邊青蘭 「武陵桃源図」 1908年 大阪中之島美術館


武陵桃源とは理想郷のことで、桃の花の下で喫茶を楽しんでいます。
河邊青蘭(1868-1931)は大阪生まれの女性画家で、橋本青江(1821-1898)に
文人画を学んでいます。
画塾を主宰し、多くの女性画家を育てました。
第五章 船場派 — 商家の床の間を飾る画
東京で会場芸術と呼ばれる大作が描かれていたのとは違い、大阪では船場の商家
の床の間を飾る軸物の注文が多く、展覧会への出展も比較的少なかったそうです。
平井直水 「梅花孔雀図」 1904年 大阪中之島美術館

平井直水(1861-大正年間)は大坂生まれで、花鳥画山水画を得意とし、
特に孔雀の絵に秀でていました。
金島桂華や高畠華宵の師でもあります。
第六章 新しい表現の探求と女性画家の飛躍
島成園 「祭りのよそおい」 1913年 大阪中之島美術館


縁台に腰掛けた女の子たちは振袖に髪飾り、白足袋に革草履や塗り下駄の装いです。
それを見ている女の子は髪に花を挿し、素足に草履姿です。
左端の子の振袖の柄は大津絵のようです。
子どもの世界にも現れた容赦の無い貧富の差を描き出しています。
鏑木清方や藤田嗣治にもこのような現実を描いた作品があります。
島成園(1892-1970)は堺出身で、大阪で絵を描き始め、京都の上村松園、
東京の池田蕉園とともに「三都三園」と称されています。
また、多くの女性画家を育て、大阪の女性画壇に大きな影響を与えたことでも
知られています。
中村貞以 「朝」 1932年 京都国立近代美術館

右隻は赤を基調に髪を洗う女性、左隻は青を基調に髪を整える女性を描き、
間に配した朝顔も赤と青の花を咲かせています。
1932年の院展で日本美術院賞を受賞した作品で、中村貞以は横山大観から
激励されて以来、大観を敬愛し、後に横山大観記念館の理事長も務めています。
中村貞以 「猫」 1948年 東京都現代美術館

5月16日からの展示です。
白い服の清楚な女性に黒い猫が抱かれています。
猫の顔は速水御舟の「翠苔緑芝」の猫に似ています。
白い花模様までていねいに描き込まれていますが、大正時代の作に比べ、
すっきりとした画風になっています。
私も大阪の日本画家は北野恒富、中村貞以、島成園以外はよく知らなかったので、
今回の展覧会では数多くの作家の作品を観ることが出来て、とても刺激になりました。
展覧会のHPです。
chariot
東京駅の東京ステーションギャラリーでは「大阪の日本画」展が
開かれています。
会期は6月11日(日)までです。

近代大阪の50名以上の日本画家の作品が展示されています。
会期中、かなりの展示替えがありますので、展覧会のHPでご確認下さい。
第一章 ひとを描く ― 北野恒富とその門下
北野恒富(1880-1947)は金沢の士族の子で、大阪画壇を代表する画家として
活躍し、中村貞以、島成園、生田花朝ら多くの画家を育てています。
中村貞以 「失題」 1921年 大阪中之島美術館

脇息に寄り掛かった女性は目を見開き、何かを見詰めています。
こうもり模様の着物は大きく膨らみ、ボリュームいっぱいで、大正時代らしい
どこか妖しい雰囲気があります。
中村貞以(1980-1982)は船場の鼻緒問屋に生まれています。
2歳の時に手に火傷を負いますが、絵の才能があり、両手で絵筆を挟んで
描きました。
第二章 文化を描く — 菅楯彦、生田花朝
菅楯彦 「阪都四つ橋」 1946年 鳥取県立博物館


長堀川と西横堀川の交差する地点に口の字形に架けられていた四つの橋の
賑わいを描いた作品です。
江戸時代の風俗で、月明かりの下で茶店、魚屋、本屋、易者などが並ぶ中を
人々が行き交っています。
懐旧の情にあふれた作品で、同じ頃に鏑木清方が明治の東京の下町を描いた
「朝夕安居」に通じるものがあります。
菅楯彦は大正時代の終わり頃から失われていく大阪の風情を惜しむ作品を
描いています。
大阪は太平洋戦争末期の1945年に何度も大空襲を受けて焼け野が原となり、
その後に堀川も埋め立てられて、橋も撤去されました。
菅楯彦(1878-1963)は鳥取市出身で、日本画家だった父から少年時代に
絵を習った以外は貧窮の中で独学で絵を学んでいます。
浪速の風俗を描くことを好み、その功績から1962年には初代の大阪市名誉市民に
選ばれています。
生田花朝 「天神祭」 1935年 大阪府立中之島図書館


天神祭は大阪天満宮の夏祭で、京都の祇園祭、東京の神田祭と並び、
日本三大祭の一つとされています。
大川(旧淀川)で催される船渡御の様子で、多くの船の集まる賑わいを
江戸時代の風俗で描いています。
生田花朝(1889-1978)は大阪生まれで、始め花朝、後に花朝女と号し、
菅楯彦と北野恒富に師事した女性画家です。
祭や寺院など大阪を題材にした華やかな作品を多く描いています。
第三章 新たなる山水を描く — 矢野橋村と新南画
矢野橋村(1890-1965)は今治出身で、大阪陸軍造兵廠での作業中に
左手首切断の事故を起こしています。
その後、日本画家を志し、南画を学んで、新南画と呼ばれる独特の画風を
確立しています。
矢野橋村 「峠道」 1959年 個人蔵

5月14日までの展示です。
空間を広々と取る南画と異なり、大きく曲がった野道を中央に据えた、
奇抜で濃密な画面です。
第四章 文人画 — 街に息づく中国趣味
河邊青蘭 「武陵桃源図」 1908年 大阪中之島美術館


武陵桃源とは理想郷のことで、桃の花の下で喫茶を楽しんでいます。
河邊青蘭(1868-1931)は大阪生まれの女性画家で、橋本青江(1821-1898)に
文人画を学んでいます。
画塾を主宰し、多くの女性画家を育てました。
第五章 船場派 — 商家の床の間を飾る画
東京で会場芸術と呼ばれる大作が描かれていたのとは違い、大阪では船場の商家
の床の間を飾る軸物の注文が多く、展覧会への出展も比較的少なかったそうです。
平井直水 「梅花孔雀図」 1904年 大阪中之島美術館

平井直水(1861-大正年間)は大坂生まれで、花鳥画山水画を得意とし、
特に孔雀の絵に秀でていました。
金島桂華や高畠華宵の師でもあります。
第六章 新しい表現の探求と女性画家の飛躍
島成園 「祭りのよそおい」 1913年 大阪中之島美術館


縁台に腰掛けた女の子たちは振袖に髪飾り、白足袋に革草履や塗り下駄の装いです。
それを見ている女の子は髪に花を挿し、素足に草履姿です。
左端の子の振袖の柄は大津絵のようです。
子どもの世界にも現れた容赦の無い貧富の差を描き出しています。
鏑木清方や藤田嗣治にもこのような現実を描いた作品があります。
島成園(1892-1970)は堺出身で、大阪で絵を描き始め、京都の上村松園、
東京の池田蕉園とともに「三都三園」と称されています。
また、多くの女性画家を育て、大阪の女性画壇に大きな影響を与えたことでも
知られています。
中村貞以 「朝」 1932年 京都国立近代美術館

右隻は赤を基調に髪を洗う女性、左隻は青を基調に髪を整える女性を描き、
間に配した朝顔も赤と青の花を咲かせています。
1932年の院展で日本美術院賞を受賞した作品で、中村貞以は横山大観から
激励されて以来、大観を敬愛し、後に横山大観記念館の理事長も務めています。
中村貞以 「猫」 1948年 東京都現代美術館

5月16日からの展示です。
白い服の清楚な女性に黒い猫が抱かれています。
猫の顔は速水御舟の「翠苔緑芝」の猫に似ています。
白い花模様までていねいに描き込まれていますが、大正時代の作に比べ、
すっきりとした画風になっています。
私も大阪の日本画家は北野恒富、中村貞以、島成園以外はよく知らなかったので、
今回の展覧会では数多くの作家の作品を観ることが出来て、とても刺激になりました。
展覧会のHPです。
竹橋
竹橋の東京国立近代美術館で開かれている東京国立近代美術館70周年記念展、
「重要文化財の秘密」の記事その2で、洋画、彫刻、工芸について載せます。
会期は5月14日(日)までです。

以下の作品はすべて5月14日までの展示です。
高橋由一 「鮭」 明治10年(1877)頃 東京藝術大学 重要文化財


高橋由一と言えば思い出す作品です。
長さ120cmという大きな鮭で、洋画では珍しい極端に縦長の画面に描かれています。
日本人は掛軸を見慣れているので、縦長でも違和感は無かったのかもしれません。
皮のたるみ、塩の粒、縄のほつれまで克明に描かれ、身の赤がとても印象的です。
浅井忠 「収穫」 明治23年(1890) 東京藝術大学 重要文化財

美術の教科書でなじみの作品で、フランスに留学する直前に描かれています。
何気ない農村風景を黄金色の中に温かく描き出しています。
浅井忠は工部大学校でアントニオ・フォンタネージの指導を受け、
バルビゾン派の画風を受け継いでいます。
黒土清輝 「湖畔」 明治30年(1897) 東京国立博物館 重要文化財

後の夫人・照子と箱根に避暑に行った折、芦ノ湖畔にたたずむ照子の姿を見て、
制作を思い付いています。
萩を描いた団扇を手に湖を眺める照子は、鼻も高くしっかりとした面立ちをしています。
淡い色彩でまとめられ、同じ着物姿の女性でも、「舞妓」とはかなり異なった印象です。
「舞妓」は1968年に重要文化財の指定を受けていますが、黒田の代表作と言える
この作品の指定は1999年と遅く、その理由は洋画にしては西洋的要素が少ない
というのが理由だったようです。
青木繁 「わだつみのいろこの宮」 明治40年(1907)
石橋財団アーティゾン美術館 重要文化財

上野公園で開かれた東京府勧業博覧会に意気込んで出品した作品です。
「海の幸」の横長に対してこちらはかなり縦長で、浪漫的な気分が表れています。
古事記の中の、無くした釣り針を探しに海底に来た山幸彦と豊玉姫の出会いの
場面です。
柱のように立つ豊玉姫と侍女の姿は彫像を思わせ、エドワード・バーン=ジョーンズの
影響がはっきり出ています。
海の底であることを表すため、豊玉姫の足許からは泡が上がっています。
萬鉄五郎 「裸体美人」 大正元年(1912) 東京国立近代美術館 重要文化財

東京美術学校の卒業制作です。
教授の黒田清輝の描いた「花野」(1907-15年)と同じく、野に横たわる女性を
縦の構図で描いています。
モデルは妻のよ志とのことで、「花野」が古典的でやわらかな雰囲気なのに対して、
こちらは赤や緑が強烈なフォーヴィズム風です。
見上げるような構図、太い輪郭線で描かれ、何か挑戦的な雰囲気です。
萬鉄五郎は日本のフォーヴィズムの先駆者ということですが、卒業制作に
このような絵を描かれた黒田清輝も大変だったろうと思います。
岸田劉生 「道路と土手と塀(切通之写生)」 1915年
東京国立近代美術館 重要文化財

夏の景色のようですが、朝でしょうか、電信柱の影が長く伸びています。
強い日の光に照らされた白い石垣とコンクリートの壁は、細密に立体的に
描き込まれ、ぎらぎらと光っています。
右側の崖は対照的に黒い影になっています。
真中の地面は盛り上がって、まるで生き物のような迫力があります。
代々木に住んでいた時に近所の切通しを描いたとのことですが、いわゆる
東京の風景といった感じではなく、生々しさがあります。
関根正二 「信仰の悲しみ」 大正7年(1918) 大原美術館 重要文化財

20歳で亡くなった関根正二(1899-1919)の代表作で、関根を特徴付ける
ヴァ―ミリオン(朱色)が印象的です。
幻想の光景を描いたということで、関根自身の鎮魂のため現れた者たちの
ようにも見えます。
中村彝 「エロシェンコ氏の像」 大正9年(1920) 東京国立近代美術館 重要文化財

新宿中村屋の相馬夫妻の援助を受け、中村屋に寄寓していた、ロシア生まれの
ウクライナ人作家、エロシェンコの肖像です。
印象派風ですが、燃え立つような筆遣いで、迫るものがあります。
中村彝(なかむらつね、1887-1924)も相馬夫妻の援助を受けましたが、
結核のため、37歳で病死しています。
初代宮川香山 「褐釉蟹貼付台付鉢」 明治14年(1881)
東京国立博物館所 重要文化財

真葛焼の創始者、初代宮川香山(1842-1916)の高浮彫による作品です。
明治14年の第2回内国勧業博覧会に出品されています。
宮川香山は京都出身の陶芸家で、輸出用の横浜眞葛焼の窯を開き、
素材を貼付ける立体的な造形の高浮彫の技法を開発しています。
鈴木長吉 「十二の鷹」 明治26年(1893) 国立工芸館 重要文化財


写真は以前の展覧会の時のものです。
鷹を観賞する儀式を描いた「架鷹図」に倣った作品で、飾り布や飾り紐も再現されています。
さまざまの色と姿の12羽の鷹がずらりと並び、止まり木を掴んだ姿は精悍で、
今にも飛び立ちそうです。
明治26年(1893)の シカゴ万国博覧会出品に出品されました。
鈴木長吉(1848-1919)は金工家で、輸出用の精緻な技術による工芸品の制作に努め、
帝室技芸員にも任命されています。
板谷波山 「葆光彩磁珍果文花瓶」 大正6年(1917)
泉屋博古館東京 重要文化財

板谷波山(1872-1963)は葆光釉(ほこうゆう)といわれる薄いヴェールのような
釉薬を掛ける技法で有名です。
帝室技芸員にも任命され、陶芸家として最初の文化勲章を受章しています。
作品は高さ50cmほどもあり、桃、枇杷、葡萄を盛った籠がとても細密に描かれ、
絵に立体感があります。
まるで光が器の中に閉じ込められているようで、板谷波山の作風を代表する
端正で優美な作品です。
展覧会のHPです。
chariot
竹橋の東京国立近代美術館で開かれている東京国立近代美術館70周年記念展、
「重要文化財の秘密」の記事その2で、洋画、彫刻、工芸について載せます。
会期は5月14日(日)までです。

以下の作品はすべて5月14日までの展示です。
高橋由一 「鮭」 明治10年(1877)頃 東京藝術大学 重要文化財


高橋由一と言えば思い出す作品です。
長さ120cmという大きな鮭で、洋画では珍しい極端に縦長の画面に描かれています。
日本人は掛軸を見慣れているので、縦長でも違和感は無かったのかもしれません。
皮のたるみ、塩の粒、縄のほつれまで克明に描かれ、身の赤がとても印象的です。
浅井忠 「収穫」 明治23年(1890) 東京藝術大学 重要文化財

美術の教科書でなじみの作品で、フランスに留学する直前に描かれています。
何気ない農村風景を黄金色の中に温かく描き出しています。
浅井忠は工部大学校でアントニオ・フォンタネージの指導を受け、
バルビゾン派の画風を受け継いでいます。
黒土清輝 「湖畔」 明治30年(1897) 東京国立博物館 重要文化財

後の夫人・照子と箱根に避暑に行った折、芦ノ湖畔にたたずむ照子の姿を見て、
制作を思い付いています。
萩を描いた団扇を手に湖を眺める照子は、鼻も高くしっかりとした面立ちをしています。
淡い色彩でまとめられ、同じ着物姿の女性でも、「舞妓」とはかなり異なった印象です。
「舞妓」は1968年に重要文化財の指定を受けていますが、黒田の代表作と言える
この作品の指定は1999年と遅く、その理由は洋画にしては西洋的要素が少ない
というのが理由だったようです。
青木繁 「わだつみのいろこの宮」 明治40年(1907)
石橋財団アーティゾン美術館 重要文化財

上野公園で開かれた東京府勧業博覧会に意気込んで出品した作品です。
「海の幸」の横長に対してこちらはかなり縦長で、浪漫的な気分が表れています。
古事記の中の、無くした釣り針を探しに海底に来た山幸彦と豊玉姫の出会いの
場面です。
柱のように立つ豊玉姫と侍女の姿は彫像を思わせ、エドワード・バーン=ジョーンズの
影響がはっきり出ています。
海の底であることを表すため、豊玉姫の足許からは泡が上がっています。
萬鉄五郎 「裸体美人」 大正元年(1912) 東京国立近代美術館 重要文化財

東京美術学校の卒業制作です。
教授の黒田清輝の描いた「花野」(1907-15年)と同じく、野に横たわる女性を
縦の構図で描いています。
モデルは妻のよ志とのことで、「花野」が古典的でやわらかな雰囲気なのに対して、
こちらは赤や緑が強烈なフォーヴィズム風です。
見上げるような構図、太い輪郭線で描かれ、何か挑戦的な雰囲気です。
萬鉄五郎は日本のフォーヴィズムの先駆者ということですが、卒業制作に
このような絵を描かれた黒田清輝も大変だったろうと思います。
岸田劉生 「道路と土手と塀(切通之写生)」 1915年
東京国立近代美術館 重要文化財

夏の景色のようですが、朝でしょうか、電信柱の影が長く伸びています。
強い日の光に照らされた白い石垣とコンクリートの壁は、細密に立体的に
描き込まれ、ぎらぎらと光っています。
右側の崖は対照的に黒い影になっています。
真中の地面は盛り上がって、まるで生き物のような迫力があります。
代々木に住んでいた時に近所の切通しを描いたとのことですが、いわゆる
東京の風景といった感じではなく、生々しさがあります。
関根正二 「信仰の悲しみ」 大正7年(1918) 大原美術館 重要文化財

20歳で亡くなった関根正二(1899-1919)の代表作で、関根を特徴付ける
ヴァ―ミリオン(朱色)が印象的です。
幻想の光景を描いたということで、関根自身の鎮魂のため現れた者たちの
ようにも見えます。
中村彝 「エロシェンコ氏の像」 大正9年(1920) 東京国立近代美術館 重要文化財

新宿中村屋の相馬夫妻の援助を受け、中村屋に寄寓していた、ロシア生まれの
ウクライナ人作家、エロシェンコの肖像です。
印象派風ですが、燃え立つような筆遣いで、迫るものがあります。
中村彝(なかむらつね、1887-1924)も相馬夫妻の援助を受けましたが、
結核のため、37歳で病死しています。
初代宮川香山 「褐釉蟹貼付台付鉢」 明治14年(1881)
東京国立博物館所 重要文化財

真葛焼の創始者、初代宮川香山(1842-1916)の高浮彫による作品です。
明治14年の第2回内国勧業博覧会に出品されています。
宮川香山は京都出身の陶芸家で、輸出用の横浜眞葛焼の窯を開き、
素材を貼付ける立体的な造形の高浮彫の技法を開発しています。
鈴木長吉 「十二の鷹」 明治26年(1893) 国立工芸館 重要文化財


写真は以前の展覧会の時のものです。
鷹を観賞する儀式を描いた「架鷹図」に倣った作品で、飾り布や飾り紐も再現されています。
さまざまの色と姿の12羽の鷹がずらりと並び、止まり木を掴んだ姿は精悍で、
今にも飛び立ちそうです。
明治26年(1893)の シカゴ万国博覧会出品に出品されました。
鈴木長吉(1848-1919)は金工家で、輸出用の精緻な技術による工芸品の制作に努め、
帝室技芸員にも任命されています。
板谷波山 「葆光彩磁珍果文花瓶」 大正6年(1917)
泉屋博古館東京 重要文化財

板谷波山(1872-1963)は葆光釉(ほこうゆう)といわれる薄いヴェールのような
釉薬を掛ける技法で有名です。
帝室技芸員にも任命され、陶芸家として最初の文化勲章を受章しています。
作品は高さ50cmほどもあり、桃、枇杷、葡萄を盛った籠がとても細密に描かれ、
絵に立体感があります。
まるで光が器の中に閉じ込められているようで、板谷波山の作風を代表する
端正で優美な作品です。
展覧会のHPです。
竹橋
竹橋の東京国立近代美術館では東京国立近代美術館70周年記念展、
「重要文化財の秘密」が開かれています。
会期は5月14日(日)までです。

明治以降の日本画、洋画、彫刻、工芸の重要文化財のうち、約50点を展示する
展覧会です。
細かい展示替えがありますので、展覧会のHPでご確認下さい。
記事は2回に分け、今回は日本画を載せます。
狩野芳崖 「悲母観音」 明治21年(1888) 東京藝術大学 重要文化財

5月8日までの展示です。
観音菩薩は中空で水瓶を傾け、その下で童子が観音を見上げています。
仏画を基本にしていますが、西洋風の空間表現も取り入れ、近代日本画の
先駆となった作品です。
狩野芳崖の絶筆で、未完のままで芳崖が亡くなったので、盟友の橋本雅邦が
仕上げています。
狩野芳崖は幕末に狩野派を学び、明治には東京美術学校の設立にも関わった
フェノロサに見出されていますが、東京美術学校の教官就任を前に亡くなっています。
橋本雅邦 「白雲紅樹」 明治23年(1890) 東京藝術大学 重要文化財

4月23日までの展示です。
洋画の技法を用いて奥行きを見せています。
菱田春草 「王昭君」 明治35年(1902)
善寶寺(東京国立近代美術館寄託) 重要文化財

4月16日までの展示です。
絵師に賄賂を贈らなかったために醜い肖像画を描かれ、そのため匈奴に
嫁ぐことになった王昭君の悲劇を題材にしています。
色彩は明るく、やわらかな光を感じる作品で、輪郭線が無いので王昭君や
後宮の女性の姿は淡く浮かんでいます。
菱田春草 「賢首菩薩」 明治40年(1907) 東京国立近代美術館 重要文化財

4月16日までの展示です。
朦朧体の時期から、今度は色彩研究の時期に移ります。
賢首菩薩とは華厳宗第3祖の法蔵のことで、則天武后の庇護を受けて華厳宗を
大成させています。
則天武后に華厳の教えを述べた時、側にあった金の獅子像を使って説明した
という逸話から、横に金獅子が置かれています。
細かい点描を使って色彩を表現するという、斬新な技法に依っていますが、
これも斬新な分だけ当初は不評だったようです。
補色の効果を狙ったり、一部にカドミウムイエローなど西洋絵具も用いるなどして、
色彩についていろいろな工夫をしています。
菱田春草は遠近感を出すための線遠近法を採らなかったそうですが、
椅子の描き方には線遠近法が入っています。
菱田春草 「黒き猫」 明治43年(1910)
永青文庫(熊本県立美術館寄託) 重要文化財

部分

5月9日から 5月14日までの展示です。
背景は無くなり、上に広がる柏葉に対して、下にいる黒い猫が画面を
引き締めています。
黄金色の柏葉は柔らかな描線で、猫は毛のふわふわした感じまで
表しています。
猫は黒一色ではなく、口のところが分かるように濃淡を付けてあります。
簡潔で、琳派のような装飾的な世界に行き着いています。
展覧会に出品のため描いていた絵が気に入らず、近所の焼き芋屋の猫を借りてきて、
5日間で仕上げたそうです。
横山大観 「生々流転」 大正12(1923)年9月 東京国立近代美術館 重要文化財




5月14日までの展示です。
絹本墨画の巻物で、全長40m以上ありますが、全場面が展示されています。
水が雨となって山に降り、川を下り、野を越え、やがて海に注ぎ、龍となって
空に昇るまでを、季節の移ろいも交えて描き上げています。
会得した水墨の技法を集大成した作品で、大観の代表作となっています。
上野で展覧会に出品した9月1日に関東大震災が起きていますが、
幸い被災を免れています。
今村紫紅 「近江八景」 明治45年(1912) 東京国立博物館 重要文化財

4月18日から 5月14日までの展示です。
画像は「比良」です。
今村紫紅(1880-1916)は日本画の革新を目指して精力的に活動した画家です。
近江八景は中国の瀟湘八景に倣って選ばれ、広重の浮世絵でも有名な景色ですが、
今村紫紅は大胆に再構成して第6回文展に出品しています。
今村紫紅 「熱国之巻(熱国之朝)」(部分) 大正3年(1914)
東京国立博物館 重要文化財


今村紫紅 「熱国之巻(熱国之夕)」(部分) 大正3年(1914)
東京国立博物館 重要文化財


朝之巻は4月16日まで、夕之巻は4月18日から 5月14日までの展示です。
タヒチに行ったゴーギャンに倣って、貨物船に乗りインドに向かい、バンコク、
シンガポール、ラングーンなどを経由してカルカッタに着いています。
作品はこの時見た光景を元にして描いた絵巻物で、今村紫紅の代表作です。
黄土を塗った明るい画面に点描を用いて、童話のような異国の風物を描いています。
「絵になる最初」 竹内栖鳳 大正2年(1913) 京都市美術館 重要文化財

5月14日までの展示です。
絵のモデルになるため着物を脱いだ少女が、その着物で体を隠して、
羞いの表情を見せた瞬間を描いています。
左手の仕草に気持ちが良く現れています。
下村観山 「弱法師(よろぼし)」 大正4年(1915) 東京国立博物館 重要文化財



5月1日までの展示です。
能の「弱法師」を題材にした作品で、下村観山の代表作です。
讒言を信じた父によって家を逐われた俊徳丸は盲目となり、あちこち彷徨ったのち、
春の彼岸の日に四天王寺に辿り着きます。
満開の梅の傍らに立つ俊徳丸は痩せ衰えた姿で、杖を持ち、大きな赤い入り日に
向かって合掌しています。
束の間の極楽の様を表していて、能の家に生まれた下村観山ならでは作品といえます。
川合玉堂 「行く春」 大正5年(1916) 東京国立近代美術館 重要文化財


右隻

左隻

5月1日までの展示です。
東京国立近代美術館では毎年、春になると展示される作品です。
長瀞の川下りの経験を基にした作品と思われます。
桜の散る谷川につながれた水車舟は粉挽き用ですが、回る水車が春の興趣を増しています。
土田麦僊 「湯女」 二曲一双の右隻 大正7年(1918) 東京国立近代美術館 重要文化財

5月2日から 5月14日までの展示です。
大和絵の構図を使い、松に藤の花という日本画の伝統的な画題に、
ルノワールのような豊満な湯女(ゆな)を配しています。
湯女の姿には春の気だるさもただよっています。
村上華岳 「日高河清姫図」 大正8年(1919) 東京国立近代美術館 重要文化財

5月2日から 5月14日までの展示です。
能や歌舞伎の道成寺物の元になった、安珍清姫伝説を描いています。
足袋だけを履いて夢中で安珍を追いかけた清姫は日高川にさえぎられます。
何かに憑かれたように、目は閉じ、前と後ろに手を泳がせています。
細く、柔らかな線描と、黒い笠、黒い帯が、清姫の想いの儚さと悲しみを
表しています。
清姫の心を映すように山や川の景色も揺らめいています。
鏑木清方「築地明石町」 昭和2年(1927) 東京国立近代美術館 重要文化財


4月16日までの展示です。
2022年度に重要文化財に指定されました。
花火模様の小紋の着物に、抱き柏の黒の羽織の女性が振返っています。
涼やかな目元をして、富士額の髪の生え際も細やかに描かれています。
明治に流行した、イギリス巻とも夜会巻とも言われる髪型や袖から覗く
金の指輪は時代の変化も表しています。
季節は秋の初め、女性は素足で、朝顔の葉は枯れかけています。
モデルは清方の弟子だった、江木ませ子とのことです。
築地明石町は明治に外国人居留地となり、西洋の香りのする場所に
なっていて、作品にも横に西洋式の柵、後ろに洋式帆船が見えます。
前田青邨 「洞窟の頼朝」 昭和4年(1929) 大倉集古館 重要文化財

4月18日から 5月14日までの展示です。
伊豆で挙兵し、石橋山の合戦に破れた頼朝主従が洞窟に篭っている場面を描いた、
前田青邨の代表作で、2010年に重要文化財に指定されています。
丸く固まって座る頼朝や土肥実平など7人の主従は、昂然とした頼朝の辺りは明るく、
周辺は暗く描かれ、緊密な画面になっています。
頼朝の赤糸威大鎧など、甲冑の表現も素晴らしく、武者たちの鎧の千切れた威糸や、
矢のほとんど残っていない箙は戦いの激しさを語っています。
小林古径 「髪」 昭和6年(1931) 永青文庫(熊本県立美術館寄託) 重要文化財

4月18日から 5月14日までの展示です。
仏画のような端正な線描による、気品のある画面です。
少女の着物の濃い青、帯の赤、頬の薄紅色が絵を晴れやかにしています。
女性の腕の、左右を交差させた置き方は、古代エジプト絵画を参考に
しているとのことで、二人の目の線もエジプト風です。
福田平八郎 「漣」 1932年 大阪市立近代美術館 重要文化財

4月16日までの展示です。
画風転換の記念となる作品で、銀地の水面に立つさざなみを群青の1色だけで
描いています。
題名がないと、水面を描いたものかどうかはっきりしないほど抽象化されています。
画面の上の隙間を少なくして、遠近感も出しています。
現在観ても斬新な作品ですから、80年前にはさぞ日本画として意表を衝いた絵に
見えたことでしょう。
初めは銀(プラチナ)箔地に描くつもりだったのが、表具屋が間違えて金箔の屏風を
持ってきたので、仕方なくその上にプラチナ箔を貼って描いたところ、以外に良い具合に
なったということです。
上村松園 「母子」 昭和9年(1934) 東京国立近代美術館 重要文化財

4月18日から 5月14日までの展示です。
絵の道を進む上村松園を支え続けた母はこの年に亡くなっています。
落着いた色合いの着物姿で抱いた子供を優しく見つめる母親はお歯黒をして、
眉を剃っています。
眉を剃るのは青眉と言い、結婚して子供の出来た女性のする化粧です。
上村松園は母への思いをこの青眉に込め、随筆集の題も「青眉抄」としています。
安田靫彦 「黄瀬川陣」 昭和15/16年(1940/41) 東京国立近代美術館 重要文化財



5月14日までの展示です。
富士川の合戦で平家を破った直後の源頼朝が駿河の黄瀬川に陣を張って
いたところ、奥州平泉から弟の源義経が駆け付け、兄弟の対面を果たす場面です。
頼朝は鎧直垂を着て端然と座し、赤糸威の大鎧や太刀、弓矢などの武具を置いています。
顔は神護寺の伝源頼朝像に拠っています。
到着したばかりの義経は紫裾濃(むらさきすそご)の大鎧を着て、毛抜形太刀を佩き、
綾蘭笠(あやいがさ)を脱ごうと、紐に手を掛けているところです。
二人の鎧はそれぞれ青梅の御嶽神社に所蔵されている大鎧を参考にしています。
展覧会のHPです。
chariot
竹橋の東京国立近代美術館では東京国立近代美術館70周年記念展、
「重要文化財の秘密」が開かれています。
会期は5月14日(日)までです。

明治以降の日本画、洋画、彫刻、工芸の重要文化財のうち、約50点を展示する
展覧会です。
細かい展示替えがありますので、展覧会のHPでご確認下さい。
記事は2回に分け、今回は日本画を載せます。
狩野芳崖 「悲母観音」 明治21年(1888) 東京藝術大学 重要文化財

5月8日までの展示です。
観音菩薩は中空で水瓶を傾け、その下で童子が観音を見上げています。
仏画を基本にしていますが、西洋風の空間表現も取り入れ、近代日本画の
先駆となった作品です。
狩野芳崖の絶筆で、未完のままで芳崖が亡くなったので、盟友の橋本雅邦が
仕上げています。
狩野芳崖は幕末に狩野派を学び、明治には東京美術学校の設立にも関わった
フェノロサに見出されていますが、東京美術学校の教官就任を前に亡くなっています。
橋本雅邦 「白雲紅樹」 明治23年(1890) 東京藝術大学 重要文化財

4月23日までの展示です。
洋画の技法を用いて奥行きを見せています。
菱田春草 「王昭君」 明治35年(1902)
善寶寺(東京国立近代美術館寄託) 重要文化財

4月16日までの展示です。
絵師に賄賂を贈らなかったために醜い肖像画を描かれ、そのため匈奴に
嫁ぐことになった王昭君の悲劇を題材にしています。
色彩は明るく、やわらかな光を感じる作品で、輪郭線が無いので王昭君や
後宮の女性の姿は淡く浮かんでいます。
菱田春草 「賢首菩薩」 明治40年(1907) 東京国立近代美術館 重要文化財

4月16日までの展示です。
朦朧体の時期から、今度は色彩研究の時期に移ります。
賢首菩薩とは華厳宗第3祖の法蔵のことで、則天武后の庇護を受けて華厳宗を
大成させています。
則天武后に華厳の教えを述べた時、側にあった金の獅子像を使って説明した
という逸話から、横に金獅子が置かれています。
細かい点描を使って色彩を表現するという、斬新な技法に依っていますが、
これも斬新な分だけ当初は不評だったようです。
補色の効果を狙ったり、一部にカドミウムイエローなど西洋絵具も用いるなどして、
色彩についていろいろな工夫をしています。
菱田春草は遠近感を出すための線遠近法を採らなかったそうですが、
椅子の描き方には線遠近法が入っています。
菱田春草 「黒き猫」 明治43年(1910)
永青文庫(熊本県立美術館寄託) 重要文化財

部分

5月9日から 5月14日までの展示です。
背景は無くなり、上に広がる柏葉に対して、下にいる黒い猫が画面を
引き締めています。
黄金色の柏葉は柔らかな描線で、猫は毛のふわふわした感じまで
表しています。
猫は黒一色ではなく、口のところが分かるように濃淡を付けてあります。
簡潔で、琳派のような装飾的な世界に行き着いています。
展覧会に出品のため描いていた絵が気に入らず、近所の焼き芋屋の猫を借りてきて、
5日間で仕上げたそうです。
横山大観 「生々流転」 大正12(1923)年9月 東京国立近代美術館 重要文化財




5月14日までの展示です。
絹本墨画の巻物で、全長40m以上ありますが、全場面が展示されています。
水が雨となって山に降り、川を下り、野を越え、やがて海に注ぎ、龍となって
空に昇るまでを、季節の移ろいも交えて描き上げています。
会得した水墨の技法を集大成した作品で、大観の代表作となっています。
上野で展覧会に出品した9月1日に関東大震災が起きていますが、
幸い被災を免れています。
今村紫紅 「近江八景」 明治45年(1912) 東京国立博物館 重要文化財

4月18日から 5月14日までの展示です。
画像は「比良」です。
今村紫紅(1880-1916)は日本画の革新を目指して精力的に活動した画家です。
近江八景は中国の瀟湘八景に倣って選ばれ、広重の浮世絵でも有名な景色ですが、
今村紫紅は大胆に再構成して第6回文展に出品しています。
今村紫紅 「熱国之巻(熱国之朝)」(部分) 大正3年(1914)
東京国立博物館 重要文化財


今村紫紅 「熱国之巻(熱国之夕)」(部分) 大正3年(1914)
東京国立博物館 重要文化財


朝之巻は4月16日まで、夕之巻は4月18日から 5月14日までの展示です。
タヒチに行ったゴーギャンに倣って、貨物船に乗りインドに向かい、バンコク、
シンガポール、ラングーンなどを経由してカルカッタに着いています。
作品はこの時見た光景を元にして描いた絵巻物で、今村紫紅の代表作です。
黄土を塗った明るい画面に点描を用いて、童話のような異国の風物を描いています。
「絵になる最初」 竹内栖鳳 大正2年(1913) 京都市美術館 重要文化財

5月14日までの展示です。
絵のモデルになるため着物を脱いだ少女が、その着物で体を隠して、
羞いの表情を見せた瞬間を描いています。
左手の仕草に気持ちが良く現れています。
下村観山 「弱法師(よろぼし)」 大正4年(1915) 東京国立博物館 重要文化財



5月1日までの展示です。
能の「弱法師」を題材にした作品で、下村観山の代表作です。
讒言を信じた父によって家を逐われた俊徳丸は盲目となり、あちこち彷徨ったのち、
春の彼岸の日に四天王寺に辿り着きます。
満開の梅の傍らに立つ俊徳丸は痩せ衰えた姿で、杖を持ち、大きな赤い入り日に
向かって合掌しています。
束の間の極楽の様を表していて、能の家に生まれた下村観山ならでは作品といえます。
川合玉堂 「行く春」 大正5年(1916) 東京国立近代美術館 重要文化財


右隻

左隻

5月1日までの展示です。
東京国立近代美術館では毎年、春になると展示される作品です。
長瀞の川下りの経験を基にした作品と思われます。
桜の散る谷川につながれた水車舟は粉挽き用ですが、回る水車が春の興趣を増しています。
土田麦僊 「湯女」 二曲一双の右隻 大正7年(1918) 東京国立近代美術館 重要文化財

5月2日から 5月14日までの展示です。
大和絵の構図を使い、松に藤の花という日本画の伝統的な画題に、
ルノワールのような豊満な湯女(ゆな)を配しています。
湯女の姿には春の気だるさもただよっています。
村上華岳 「日高河清姫図」 大正8年(1919) 東京国立近代美術館 重要文化財

5月2日から 5月14日までの展示です。
能や歌舞伎の道成寺物の元になった、安珍清姫伝説を描いています。
足袋だけを履いて夢中で安珍を追いかけた清姫は日高川にさえぎられます。
何かに憑かれたように、目は閉じ、前と後ろに手を泳がせています。
細く、柔らかな線描と、黒い笠、黒い帯が、清姫の想いの儚さと悲しみを
表しています。
清姫の心を映すように山や川の景色も揺らめいています。
鏑木清方「築地明石町」 昭和2年(1927) 東京国立近代美術館 重要文化財


4月16日までの展示です。
2022年度に重要文化財に指定されました。
花火模様の小紋の着物に、抱き柏の黒の羽織の女性が振返っています。
涼やかな目元をして、富士額の髪の生え際も細やかに描かれています。
明治に流行した、イギリス巻とも夜会巻とも言われる髪型や袖から覗く
金の指輪は時代の変化も表しています。
季節は秋の初め、女性は素足で、朝顔の葉は枯れかけています。
モデルは清方の弟子だった、江木ませ子とのことです。
築地明石町は明治に外国人居留地となり、西洋の香りのする場所に
なっていて、作品にも横に西洋式の柵、後ろに洋式帆船が見えます。
前田青邨 「洞窟の頼朝」 昭和4年(1929) 大倉集古館 重要文化財

4月18日から 5月14日までの展示です。
伊豆で挙兵し、石橋山の合戦に破れた頼朝主従が洞窟に篭っている場面を描いた、
前田青邨の代表作で、2010年に重要文化財に指定されています。
丸く固まって座る頼朝や土肥実平など7人の主従は、昂然とした頼朝の辺りは明るく、
周辺は暗く描かれ、緊密な画面になっています。
頼朝の赤糸威大鎧など、甲冑の表現も素晴らしく、武者たちの鎧の千切れた威糸や、
矢のほとんど残っていない箙は戦いの激しさを語っています。
小林古径 「髪」 昭和6年(1931) 永青文庫(熊本県立美術館寄託) 重要文化財

4月18日から 5月14日までの展示です。
仏画のような端正な線描による、気品のある画面です。
少女の着物の濃い青、帯の赤、頬の薄紅色が絵を晴れやかにしています。
女性の腕の、左右を交差させた置き方は、古代エジプト絵画を参考に
しているとのことで、二人の目の線もエジプト風です。
福田平八郎 「漣」 1932年 大阪市立近代美術館 重要文化財

4月16日までの展示です。
画風転換の記念となる作品で、銀地の水面に立つさざなみを群青の1色だけで
描いています。
題名がないと、水面を描いたものかどうかはっきりしないほど抽象化されています。
画面の上の隙間を少なくして、遠近感も出しています。
現在観ても斬新な作品ですから、80年前にはさぞ日本画として意表を衝いた絵に
見えたことでしょう。
初めは銀(プラチナ)箔地に描くつもりだったのが、表具屋が間違えて金箔の屏風を
持ってきたので、仕方なくその上にプラチナ箔を貼って描いたところ、以外に良い具合に
なったということです。
上村松園 「母子」 昭和9年(1934) 東京国立近代美術館 重要文化財

4月18日から 5月14日までの展示です。
絵の道を進む上村松園を支え続けた母はこの年に亡くなっています。
落着いた色合いの着物姿で抱いた子供を優しく見つめる母親はお歯黒をして、
眉を剃っています。
眉を剃るのは青眉と言い、結婚して子供の出来た女性のする化粧です。
上村松園は母への思いをこの青眉に込め、随筆集の題も「青眉抄」としています。
安田靫彦 「黄瀬川陣」 昭和15/16年(1940/41) 東京国立近代美術館 重要文化財



5月14日までの展示です。
富士川の合戦で平家を破った直後の源頼朝が駿河の黄瀬川に陣を張って
いたところ、奥州平泉から弟の源義経が駆け付け、兄弟の対面を果たす場面です。
頼朝は鎧直垂を着て端然と座し、赤糸威の大鎧や太刀、弓矢などの武具を置いています。
顔は神護寺の伝源頼朝像に拠っています。
到着したばかりの義経は紫裾濃(むらさきすそご)の大鎧を着て、毛抜形太刀を佩き、
綾蘭笠(あやいがさ)を脱ごうと、紐に手を掛けているところです。
二人の鎧はそれぞれ青梅の御嶽神社に所蔵されている大鎧を参考にしています。
展覧会のHPです。