赤坂見附
赤坂のニューオータニ美術館では、「野見山暁治展 いつかは会える」が
開かれています。
会期は3月23日(日)までです。

野見山暁治さん(1920~)のステンドグラス壁画の原画を中心にして、
36点が展示されています。
2月22日には学芸員の方のギャラリートークがあったので行ってきました。
野見山暁治さんは現在の福岡県飯塚市出身です。
「自画像」 1937年 油彩、板
小品で、旧制中学の美術部時代の作品です。
良い男に描きすぎていると言われたそうです。
また、その通りに描きすぎているとも評されています。
自画像は、再現では無く、表現であるという意味でしょうか。
1943年に東京美術学校を戦時のため繰上げ卒業し、そのまま応召して
陸軍兵士として満州の牡丹江に送られます。
そこで病を得て内地に送還され、終戦を迎えています。
美術学校在学中にフォービズムに惹かれ、戦後の時代はキュビズムに
近付いています。
「骸骨」 1947年 油彩、カンヴァス
ドクロを描いた作品です。
セザンヌやキュビズムに影響されていた時代にドクロをよく描いていたら、
何人もがドクロを持ち込んできて、部屋の中にドクロが何個もたまって、
気味の悪いことになったそうです。
1952年にフランスに留学し、パリに12年間滞在します。
「パンテオン」 1954年 クレヨン、グワッシュ、インク、紙
住んでいた屋根裏部屋から見た景色をキュビズムに則って描いています。
手前の家並みは赤、遠くは青が入り、灰青色の空にパンテオンがそびえています。
さらりと描かれた、心地良い雰囲気の作品です。
パリではアンフォルメル(非定型の芸術)の起きていた時代で、野見山さんも
その運動に参加します。
2011年に京橋のブリヂストン美術館で開かれた、「アンフォルメルとは何か?
-20世紀フランス絵画の挑戦」展の記事です。
1964年に帰国しますが、きっかけはパリのギメ東洋美術館で北宋画を観て、
東洋画に惹かれる自分に気付いたことにあるそうです。
小林古径と前田青邨が欧州に留学した時に、大英博物館で東晋の画家、
顧愷之(こがいし)の「女史箴(じょししん)図」を模写して、東洋画の線描に
目覚めたという話と似ています。
帰国してもしばらくは浦島太郎状態で、ヨーロッパでの生活が身に染み付いていて、
日本になじめない自分に戸惑っています。
帰国後は東京藝術大学の助教授、教授を勤め、その間に作品の抽象化は
どんどん進んでいきます。
作品のタイトルは、思いついた言葉を付けているだけで、重要な意味は無く、
気にしなくて良いそうです。
「いつかは会える」 2007年 東京メトロ副都心線・明治神宮前駅
ステンドグラス原画 油彩、カンヴァス


完成作は高さ2.6m、横10mあります。
最初のステンドグラス作品で、自分の描いたものがどうステンドグラスになるか、
原宿駅のイメージにどう合わせるか悩んでいます。
そこで、周囲に緑がある一方で若者のファッションの街であることを表す
ことにしています。
野見山さんのステンドグラスは、油彩画の筆触を表すために、墨でドローイングが
加えられています。
作品がステンドグラスになることについては、自分は小説の作家のような
ものであり、それが映画化されたものがステンドグラスだと考えるように
したそうです。
「海の向こうから」 2010年 JR博多駅
ステンドグラス原画 油彩、カンヴァス
完成作は高さ2.54m、横7.5mあります。
野見山さんは小さい頃、博多湾を一緒に観ていた父親から、文化はここから
入ってきたと教わったそうです。
「そらの港」 2012年 福岡空港国際線ターミナル
ステンドグラス原画 油彩、カンヴァス
完成作は高さ3.4m、横10mあります。
福岡空港はアジアへの玄関口なので、アジアの民族衣装や道具の色彩や形を
イメージして描いています。
2011年にはブリヂストン美術館で「野見山暁治展」が開かれていました。
「野見山暁治展」の記事です。
ニューオータニ美術館は展覧会終了日の3月23日(日)をもって休館するとのことです。
2013年の「ロマンティック・バレエの世界 妖精になったバレリーナ」展の記事です。
2012年の「浮世絵に見る江戸美人の化粧 白、紅、黒―三色の美」展の記事
2011年の「ベルナール・ビュフェのまなざし フランスと日本」展の記事
2010年の「造形作家 友永詔三の世界 木彫の乙女たち」展の記事
2009年の「アンドレ・ボーシャン展」の記事
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赤坂のニューオータニ美術館では、「野見山暁治展 いつかは会える」が
開かれています。
会期は3月23日(日)までです。

野見山暁治さん(1920~)のステンドグラス壁画の原画を中心にして、
36点が展示されています。
2月22日には学芸員の方のギャラリートークがあったので行ってきました。
野見山暁治さんは現在の福岡県飯塚市出身です。
「自画像」 1937年 油彩、板
小品で、旧制中学の美術部時代の作品です。
良い男に描きすぎていると言われたそうです。
また、その通りに描きすぎているとも評されています。
自画像は、再現では無く、表現であるという意味でしょうか。
1943年に東京美術学校を戦時のため繰上げ卒業し、そのまま応召して
陸軍兵士として満州の牡丹江に送られます。
そこで病を得て内地に送還され、終戦を迎えています。
美術学校在学中にフォービズムに惹かれ、戦後の時代はキュビズムに
近付いています。
「骸骨」 1947年 油彩、カンヴァス
ドクロを描いた作品です。
セザンヌやキュビズムに影響されていた時代にドクロをよく描いていたら、
何人もがドクロを持ち込んできて、部屋の中にドクロが何個もたまって、
気味の悪いことになったそうです。
1952年にフランスに留学し、パリに12年間滞在します。
「パンテオン」 1954年 クレヨン、グワッシュ、インク、紙
住んでいた屋根裏部屋から見た景色をキュビズムに則って描いています。
手前の家並みは赤、遠くは青が入り、灰青色の空にパンテオンがそびえています。
さらりと描かれた、心地良い雰囲気の作品です。
パリではアンフォルメル(非定型の芸術)の起きていた時代で、野見山さんも
その運動に参加します。
2011年に京橋のブリヂストン美術館で開かれた、「アンフォルメルとは何か?
-20世紀フランス絵画の挑戦」展の記事です。
1964年に帰国しますが、きっかけはパリのギメ東洋美術館で北宋画を観て、
東洋画に惹かれる自分に気付いたことにあるそうです。
小林古径と前田青邨が欧州に留学した時に、大英博物館で東晋の画家、
顧愷之(こがいし)の「女史箴(じょししん)図」を模写して、東洋画の線描に
目覚めたという話と似ています。
帰国してもしばらくは浦島太郎状態で、ヨーロッパでの生活が身に染み付いていて、
日本になじめない自分に戸惑っています。
帰国後は東京藝術大学の助教授、教授を勤め、その間に作品の抽象化は
どんどん進んでいきます。
作品のタイトルは、思いついた言葉を付けているだけで、重要な意味は無く、
気にしなくて良いそうです。
「いつかは会える」 2007年 東京メトロ副都心線・明治神宮前駅
ステンドグラス原画 油彩、カンヴァス


完成作は高さ2.6m、横10mあります。
最初のステンドグラス作品で、自分の描いたものがどうステンドグラスになるか、
原宿駅のイメージにどう合わせるか悩んでいます。
そこで、周囲に緑がある一方で若者のファッションの街であることを表す
ことにしています。
野見山さんのステンドグラスは、油彩画の筆触を表すために、墨でドローイングが
加えられています。
作品がステンドグラスになることについては、自分は小説の作家のような
ものであり、それが映画化されたものがステンドグラスだと考えるように
したそうです。
「海の向こうから」 2010年 JR博多駅
ステンドグラス原画 油彩、カンヴァス
完成作は高さ2.54m、横7.5mあります。
野見山さんは小さい頃、博多湾を一緒に観ていた父親から、文化はここから
入ってきたと教わったそうです。
「そらの港」 2012年 福岡空港国際線ターミナル
ステンドグラス原画 油彩、カンヴァス
完成作は高さ3.4m、横10mあります。
福岡空港はアジアへの玄関口なので、アジアの民族衣装や道具の色彩や形を
イメージして描いています。
2011年にはブリヂストン美術館で「野見山暁治展」が開かれていました。
「野見山暁治展」の記事です。
ニューオータニ美術館は展覧会終了日の3月23日(日)をもって休館するとのことです。
2013年の「ロマンティック・バレエの世界 妖精になったバレリーナ」展の記事です。
2012年の「浮世絵に見る江戸美人の化粧 白、紅、黒―三色の美」展の記事
2011年の「ベルナール・ビュフェのまなざし フランスと日本」展の記事
2010年の「造形作家 友永詔三の世界 木彫の乙女たち」展の記事
2009年の「アンドレ・ボーシャン展」の記事
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