上野
東京国立博物館に隣接する黒田記念館が耐震工事を終えて、1月2日にリニューアル
オープンしました。
黒田清輝の、遺産の一部を美術奨励事業に充てるようにとの遺言により設立された施設で、
1928年に竣工しています。


観覧料は無料で、館内は原則撮影可能です。
「故子爵黒田清輝肖像」 高村光太郎 昭和7年(1932)
黒田記念室の入口に置かれています。
養父の黒田清綱の死去に伴い子爵を継いでいます。

1月12日(月・祝)までは代表作の「読書」「舞妓」「智・感・情」「湖畔」が特別室に
展示されています。
次回の展示は3月23日(月)から4月5日(日)までです。
「読書」 1891(明治24)年 重要文化財

フランス留学中の作品です。
モデルは下宿先の肉屋の娘さんで、黒田とは親密な関係にあったそうです。
閉めた鎧戸からの逆光の中で描いていて、光の当たる女性の顔や首筋が輝いています。
服の色もマリア像のように赤と青でまとめ、西洋古典画も吸収したことを示しています。
この作品は師のラファエル・コランに賞賛され、サロンにも入選して、フランス画壇への
デビュー作となっています。
「舞妓」1893(明治26)年

帰国後に最初に仕上げた作品で、初めて京都を訪れた時に描かれています。
モデルは舞妓の「小ゑん」で、女中は「まめどん」と呼ばれていたそうです。
青を基調にしていて、この作品も逆光を使い、鴨川に反射する光も取り入れています。
全体に印象の強い作品で、頬に光の当たった小ゑんの表情には張りがあり、
活き活きとしています。
速水御舟が1920年に描いた「京の舞妓」も出窓に腰掛ける舞妓という構図を使っています。
舞妓は日本画ではよく題材になりますが、日本画では外光を描くことはなく、
この絵のような量感はありません。
まめどんは半身が画面の枠で切れていますが、これは印象派の手法によるそうです。
もっとも印象派も広重などの浮世絵からこの手法を学んでいます。
黒田は1890年代はよく舞妓をモティーフにしたそうですが、東海道線の全線開通が1889年で、
神戸まで20時間以上かかったそうですから、京都に行くのも今ほど簡単ではない時代です。
「湖畔」1897(明治30)年 重要文化財

後の夫人・照子と箱根に避暑に行った折、芦ノ湖畔にたたずむ照子の姿を見て、
制作を思い付いています。
萩を描いた団扇を手に湖を眺める照子は、鼻も高くしっかりとした面立ちをしています。
淡い色彩でまとめられ、同じ着物姿の女性でも、「舞妓」とはかなり異なった印象です。
「智・感・情」 1899(明治32)年 重要文化財

「智・感・情」のうち「情」

まだ芸術としてのはだかに馴染みの無かった明治時代に、啓蒙のために描いた
作品とのことで、明治時代の日本人とは思えないような理想化された体型に
引き伸ばしてあります。
西洋の三美神を思わせる構成ですが、金地を背景にして輪郭線を使い、
体の外には影も無く、日本画の仏画に似ています。
照明を暗くした特別室の正面に置かれていて、ますます仏画のように見えます。

黒田記念室は創建時の形が残っています。

黒田の使ったイーゼルや椅子も展示されています。

「マンドリンを持てる女」 1891(明治24)年

「読書」と同じ頃にフランスで描かれた作品で、こちらはサロンでは落選しています。
このような感傷的な雰囲気の絵は弟分の藤島武二がよく描くことになります。
「昔語り下絵(構図II)」 1896(明治29)年

京都旅行の折、清閑寺の僧の語る平家物語の小督の哀話に感銘を受け、制作した作品です。
路傍で僧が語っているのは、源仲国が小督に聞かせようと笛を吹いている場面です。
悲恋の物語を聴く夫婦者か恋仲の二人、しゃがんで煙管を吹かす女、若い娘などが描かれ、
明治の風俗画ともなっています。
他にも多くの下絵が展示されていて、制作に多くの時間と労力をかけ、努力していたことが
分かりますが、完成作は残念なことに戦災で焼失しています。
黒田清輝は歴史や宗教、思想などを群像表現によって表す、いわゆる構想画を目指していて、
「昔語り」はその試みの一つです。
黒田自身は自分の構想画はまだ中途であると認識していたそうですが、東京美術学校で
教授の黒田に反発していた青木繁の「海の幸」などは黒田の構想画の流れを継いでい
るとも言えます。
西洋絵画を日本に移植し、それを育てるという使命を担わされた黒田清輝という画家について、
改めてゆっくりと見直すことの出来る展示です。
黒田記念館のHPです。
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東京国立博物館に隣接する黒田記念館が耐震工事を終えて、1月2日にリニューアル
オープンしました。
黒田清輝の、遺産の一部を美術奨励事業に充てるようにとの遺言により設立された施設で、
1928年に竣工しています。


観覧料は無料で、館内は原則撮影可能です。
「故子爵黒田清輝肖像」 高村光太郎 昭和7年(1932)
黒田記念室の入口に置かれています。
養父の黒田清綱の死去に伴い子爵を継いでいます。

1月12日(月・祝)までは代表作の「読書」「舞妓」「智・感・情」「湖畔」が特別室に
展示されています。
次回の展示は3月23日(月)から4月5日(日)までです。
「読書」 1891(明治24)年 重要文化財

フランス留学中の作品です。
モデルは下宿先の肉屋の娘さんで、黒田とは親密な関係にあったそうです。
閉めた鎧戸からの逆光の中で描いていて、光の当たる女性の顔や首筋が輝いています。
服の色もマリア像のように赤と青でまとめ、西洋古典画も吸収したことを示しています。
この作品は師のラファエル・コランに賞賛され、サロンにも入選して、フランス画壇への
デビュー作となっています。
「舞妓」1893(明治26)年

帰国後に最初に仕上げた作品で、初めて京都を訪れた時に描かれています。
モデルは舞妓の「小ゑん」で、女中は「まめどん」と呼ばれていたそうです。
青を基調にしていて、この作品も逆光を使い、鴨川に反射する光も取り入れています。
全体に印象の強い作品で、頬に光の当たった小ゑんの表情には張りがあり、
活き活きとしています。
速水御舟が1920年に描いた「京の舞妓」も出窓に腰掛ける舞妓という構図を使っています。
舞妓は日本画ではよく題材になりますが、日本画では外光を描くことはなく、
この絵のような量感はありません。
まめどんは半身が画面の枠で切れていますが、これは印象派の手法によるそうです。
もっとも印象派も広重などの浮世絵からこの手法を学んでいます。
黒田は1890年代はよく舞妓をモティーフにしたそうですが、東海道線の全線開通が1889年で、
神戸まで20時間以上かかったそうですから、京都に行くのも今ほど簡単ではない時代です。
「湖畔」1897(明治30)年 重要文化財

後の夫人・照子と箱根に避暑に行った折、芦ノ湖畔にたたずむ照子の姿を見て、
制作を思い付いています。
萩を描いた団扇を手に湖を眺める照子は、鼻も高くしっかりとした面立ちをしています。
淡い色彩でまとめられ、同じ着物姿の女性でも、「舞妓」とはかなり異なった印象です。
「智・感・情」 1899(明治32)年 重要文化財

「智・感・情」のうち「情」

まだ芸術としてのはだかに馴染みの無かった明治時代に、啓蒙のために描いた
作品とのことで、明治時代の日本人とは思えないような理想化された体型に
引き伸ばしてあります。
西洋の三美神を思わせる構成ですが、金地を背景にして輪郭線を使い、
体の外には影も無く、日本画の仏画に似ています。
照明を暗くした特別室の正面に置かれていて、ますます仏画のように見えます。

黒田記念室は創建時の形が残っています。

黒田の使ったイーゼルや椅子も展示されています。

「マンドリンを持てる女」 1891(明治24)年

「読書」と同じ頃にフランスで描かれた作品で、こちらはサロンでは落選しています。
このような感傷的な雰囲気の絵は弟分の藤島武二がよく描くことになります。
「昔語り下絵(構図II)」 1896(明治29)年

京都旅行の折、清閑寺の僧の語る平家物語の小督の哀話に感銘を受け、制作した作品です。
路傍で僧が語っているのは、源仲国が小督に聞かせようと笛を吹いている場面です。
悲恋の物語を聴く夫婦者か恋仲の二人、しゃがんで煙管を吹かす女、若い娘などが描かれ、
明治の風俗画ともなっています。
他にも多くの下絵が展示されていて、制作に多くの時間と労力をかけ、努力していたことが
分かりますが、完成作は残念なことに戦災で焼失しています。
黒田清輝は歴史や宗教、思想などを群像表現によって表す、いわゆる構想画を目指していて、
「昔語り」はその試みの一つです。
黒田自身は自分の構想画はまだ中途であると認識していたそうですが、東京美術学校で
教授の黒田に反発していた青木繁の「海の幸」などは黒田の構想画の流れを継いでい
るとも言えます。
西洋絵画を日本に移植し、それを育てるという使命を担わされた黒田清輝という画家について、
改めてゆっくりと見直すことの出来る展示です。
黒田記念館のHPです。
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