渋谷
渋谷区立松涛美術館では特別展、「天神万華鏡」が開かれています。
会期は1月25日(日)までです。

鎌倉の常盤山文庫所蔵のコレクションから天神に関する絵画などを展示するものです。
菅原道真(845-903)は平安時代初期の貴族で、宇多天皇に寵愛されますが、
子の醍醐天皇の時、藤原時平の讒言により、大宰府に左遷され、その地で亡くなります。
その後、時平や醍醐天皇の皇子が次々亡くなり、疫病が流行し、日照りが起き、
遂には清涼殿に落雷があって、左遷の陰謀の関係者を含む多数の死傷者が出ます。
醍醐天皇自身もこの事件に衝撃を受け、3か月後には亡くなってしまいます。
これらを菅原道真の祟りとして恐れた朝廷は道真に正一位太政大臣の位を贈り、
都に北野天満宮、大宰府の墓所に太宰府天満宮を造営して、その霊を鎮めています。
今では学問の神様として親しまれている天神様も元は恐ろしい雷神でした。
「綱敷天神像」 武田信廉 室町時代・16世紀

束帯姿の道真像は神としての姿を表し、これを「束帯天神」と云います。
左遷の旅の途中、上陸した道真は敷物も無かったため、船の纜(ともづな)を巻いて
円座(わらざ)の代わりにしたという言い伝えがあり、「綱敷天神」と呼ばれています。
道真の怒りを表すため、目を剥き、上の歯で下唇を噛み、笏を押さえるようにして
持った姿で描かれることが多いのですがこの絵では梅の木の下で哀しげな表情を
見せています。
梅は道真が屋敷を離れる時に詠んだ歌に拠っています。
東風吹かばにほひをこせよ梅の花主なしとて春を忘るな
前に垂らした平緒の飾りに信廉の号、逍遙軒の落款があります。
武田信廉は武田信玄の同母弟で、絵も巧みでしたが、武田氏滅亡時に殺されています。
「人麿・天神像」 室町~江戸時代・16~17世紀

時代を経るにつれ、道真への恐れは薄らぎ、学識の深かった道真を学問の神様として
敬うようになります。
歌聖とされた柿本人麻呂と漢詩の得意だった道真の取り合わせで、人麻呂は紙と筆を手に
のどかな顔をしていますが、道真は厳しい表情で笏を掴んでいます。
「渡唐天神」 古岳宗亘(こがくそうこう)賛 室町時代 15~16世紀

12月29日までの展示でした。
菅原道真が中国に渡り、無準師範(ぶじゅんしばん)に参禅したという説が
禅宗の僧によって唱えられます。
無準師範(1177-1249)は南宋時代の臨済宗の僧で、道真よりずっと後の人なので
実際にはあり得ない話ですが、広く伝わり、多くの絵にも描かれています。
中国服を着て、冠を着け、頭巾を被り、梅の枝を持った姿で描かれます。
肩から袈裟袋を提げ、師から禅を受け継いだ「師質相承」を示しています。
足袋を履いていますが、中国側では屋外で履を履かない姿は変に見えるそうです。
「月百姿 菅原道真」 月岡芳年筆 明治19年(1886年)

11歳の道真が父の是善の言い付けで、月明かりの梅の花を題材にした漢詩を
つくっているところです。
子供の頃からの才人ぶりを示す逸話ですが、ここにも梅が登場しています。
「役者はんじもの 中村歌右衛門の松王丸」 歌川国貞筆 文化9年(1812)頃

歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」で藤原時平(しへい)の舎人、松王丸を演じる
三代目中村歌右衛門です。
貴人に差しかける長柄傘の袋を持っています。
「菅原伝授手習鑑」は菅原道真の失脚を題材にした、現在でも人気の高い演目です。
「江都名所 湯しま天神社」 歌川広重筆 天保年間(1830-44)

12月29日までの展示でした。
湯島天神は江戸庶民にも親しまれた神社で、本郷台地の端にあることから眺めも
すぐれています。
正面が女坂で向こうに上野不忍池と弁天島が見え、右が男坂で上野広小路に続きます。
学問の神様、湯島天神は境内に梅の木を多く植えてあり、特に受験シーズンと
梅の季節には大勢の参拝客で賑わいます。
祟り神だった天神様も今は参拝者と共に梅の香りを楽しんでいます。
次回の展覧会は「2015 松涛美術館公募展」です。
会期は2月8日(日)から22日(日)までです。
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渋谷区立松涛美術館では特別展、「天神万華鏡」が開かれています。
会期は1月25日(日)までです。

鎌倉の常盤山文庫所蔵のコレクションから天神に関する絵画などを展示するものです。
菅原道真(845-903)は平安時代初期の貴族で、宇多天皇に寵愛されますが、
子の醍醐天皇の時、藤原時平の讒言により、大宰府に左遷され、その地で亡くなります。
その後、時平や醍醐天皇の皇子が次々亡くなり、疫病が流行し、日照りが起き、
遂には清涼殿に落雷があって、左遷の陰謀の関係者を含む多数の死傷者が出ます。
醍醐天皇自身もこの事件に衝撃を受け、3か月後には亡くなってしまいます。
これらを菅原道真の祟りとして恐れた朝廷は道真に正一位太政大臣の位を贈り、
都に北野天満宮、大宰府の墓所に太宰府天満宮を造営して、その霊を鎮めています。
今では学問の神様として親しまれている天神様も元は恐ろしい雷神でした。
「綱敷天神像」 武田信廉 室町時代・16世紀

束帯姿の道真像は神としての姿を表し、これを「束帯天神」と云います。
左遷の旅の途中、上陸した道真は敷物も無かったため、船の纜(ともづな)を巻いて
円座(わらざ)の代わりにしたという言い伝えがあり、「綱敷天神」と呼ばれています。
道真の怒りを表すため、目を剥き、上の歯で下唇を噛み、笏を押さえるようにして
持った姿で描かれることが多いのですがこの絵では梅の木の下で哀しげな表情を
見せています。
梅は道真が屋敷を離れる時に詠んだ歌に拠っています。
東風吹かばにほひをこせよ梅の花主なしとて春を忘るな
前に垂らした平緒の飾りに信廉の号、逍遙軒の落款があります。
武田信廉は武田信玄の同母弟で、絵も巧みでしたが、武田氏滅亡時に殺されています。
「人麿・天神像」 室町~江戸時代・16~17世紀

時代を経るにつれ、道真への恐れは薄らぎ、学識の深かった道真を学問の神様として
敬うようになります。
歌聖とされた柿本人麻呂と漢詩の得意だった道真の取り合わせで、人麻呂は紙と筆を手に
のどかな顔をしていますが、道真は厳しい表情で笏を掴んでいます。
「渡唐天神」 古岳宗亘(こがくそうこう)賛 室町時代 15~16世紀

12月29日までの展示でした。
菅原道真が中国に渡り、無準師範(ぶじゅんしばん)に参禅したという説が
禅宗の僧によって唱えられます。
無準師範(1177-1249)は南宋時代の臨済宗の僧で、道真よりずっと後の人なので
実際にはあり得ない話ですが、広く伝わり、多くの絵にも描かれています。
中国服を着て、冠を着け、頭巾を被り、梅の枝を持った姿で描かれます。
肩から袈裟袋を提げ、師から禅を受け継いだ「師質相承」を示しています。
足袋を履いていますが、中国側では屋外で履を履かない姿は変に見えるそうです。
「月百姿 菅原道真」 月岡芳年筆 明治19年(1886年)

11歳の道真が父の是善の言い付けで、月明かりの梅の花を題材にした漢詩を
つくっているところです。
子供の頃からの才人ぶりを示す逸話ですが、ここにも梅が登場しています。
「役者はんじもの 中村歌右衛門の松王丸」 歌川国貞筆 文化9年(1812)頃

歌舞伎の「菅原伝授手習鑑」で藤原時平(しへい)の舎人、松王丸を演じる
三代目中村歌右衛門です。
貴人に差しかける長柄傘の袋を持っています。
「菅原伝授手習鑑」は菅原道真の失脚を題材にした、現在でも人気の高い演目です。
「江都名所 湯しま天神社」 歌川広重筆 天保年間(1830-44)

12月29日までの展示でした。
湯島天神は江戸庶民にも親しまれた神社で、本郷台地の端にあることから眺めも
すぐれています。
正面が女坂で向こうに上野不忍池と弁天島が見え、右が男坂で上野広小路に続きます。
学問の神様、湯島天神は境内に梅の木を多く植えてあり、特に受験シーズンと
梅の季節には大勢の参拝客で賑わいます。
祟り神だった天神様も今は参拝者と共に梅の香りを楽しんでいます。
次回の展覧会は「2015 松涛美術館公募展」です。
会期は2月8日(日)から22日(日)までです。
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