上野
東京都美術館では「没後50年 藤田嗣治展」が開かれています。
会期は10月8日(月・祝)までです。

エコール・ド・パリを代表する画家、藤田嗣治(レオナール・フジタ、1886-1968)の
没後50年を記念する回顧展で、約120点が展示されています。
会期中、一部展示替があります。
「父の像」 1909年 東京藝術大学
東京美術学校(現在の東京藝術大学)在学中の作品です。
藤田嗣治の父は陸軍軍医で、森鴎外の後の陸軍軍医総監を務めています。
軍服に勲章をいっぱい着けた厳めしい姿ですが、顔は嗣治にそっくりです。
父は画家志望の嗣治に理解があり、フランス留学の費用も出してくれています。
初期の作品はまだ後の藤田らしさはありません。
藤田は1912年にフランスに渡り、パリのモンパルナスに住み、エコール・ド・パリ
の画家との交流を始めます。
やがて、美術学校時代の外光派の影響を受けた作風から離れ、藤田独特の
細い描線と乳白色の地肌の作品が表れてきます。
パリの画壇で自分の場所を得るには、独自性を出さないといけないので、
かなり苦労したことと思います。
「私の部屋、目覚まし時計のある静物」 1921年 ポンピドゥー・センター

細い描線と白地で描いた最初の静物画で、帝展にも出展され、母国日本での
本格的なデビュー作となっています。
眼鏡、パイプ、毛糸、傘、木靴などの品が藤田という人物を想像させています。
「貝殻のある静物」 1924年 高知県立美術館
ベルギーのジェームズ・アンソール(1860-1949)を訪ね、彼の土産物店で買ったらしい
貝殻細工も置かれています。
藤田はピカソやモディリアニ、スーティンなどと交流していましたが、アンソールにも
会いに行っていました。
「エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像」 1922年 シカゴ美術館

パリに住む裕福なアメリカ女性がモデルです。
藤田が大好きだった猫も登場しています。
パリでは人気作家になった藤田に肖像画を描いてもらうのが流行だったそうです。
銀箔や金粉を使い、ソファーの布地の模様も描いて、東洋風で装飾性のある絵に
なっています。
藤田は金箔をよく使っていますが、銀箔を使っているのが確認されるのは
この作品のみとのことです。
「タピスリーの裸婦」 1923年 京都国立近代美術館

藤田独特の「乳白色の肌」を見せています。
ゴヤの「裸のマハ」やマネの「オランピア」を思わせる作品で、
タピスリーのケシの花模様が華やかです。
布地は西洋更紗と呼ばれる、トワル・ド・ジュイで、フジタは職人の仕事を
尊敬していました。
第一次世界後の後のフランスでは裸婦像は再生と成長の象徴として人気が
高かったそうです。
2016年にBunkamuraで開かれた「西洋更紗 トワル・ド・ジュイ展」の記事です。
「舞踏会の前」 1925年 大原美術館

仮面舞踏会を表す仮面と、さまざまの姿の7人の女性が描かれています。
2015年に修復が完了し、12月に東京藝術大学でお披露目展示されました。
「自画像」 1929年 東京国立近代美術館

机に硯を置き、細い線を描く面相筆を手にしています。
パリで成功を収めた藤田の、得意然とした自画像です。
「メキシコに於けるマドレーヌ」 1934年 京都国立近代美術館

パリで評判の画家となった藤田は1931年に個展開催のため、4番目の妻の
マドレーヌと一緒にアメリカ大陸に渡り、展覧会を開き、大きな成功を収めています。
1933年に帰国した後の作品で、背景にメキシコの景色やサボテンが描かれています。
ヨーロッパと中米の対照を表したとのことで、白い肌や服に赤が散りばめられて、
華のある作品です。
マドレーヌは1936年に日本で急逝してしまいます。
「争闘(猫)」 1940年 東京国立近代美術館

1939年に第2次世界大戦が始まり、翌年フランスはドイツに敗れ、藤田も帰国しています。
黑を背景にして、猫たちが激しく飛び跳ね、絡み合う画面には不穏な雰囲気が漂います。
帰国した藤田は陸軍美術協会理事長に就任し、戦争画を手掛けます。
父が陸軍軍医総監だったこともあり、積極的に関与していくことになります。
藤田を始め、小磯良平、宮本三郎などの描いた戦争画の多くは1946年にGHQに
接収されましたが、1970年に無期限貸与という形で日本に戻され、現在は
国立近代美術館が保管し、数点ずつ展示されています。
「サイパン島同胞臣節を全うす」 1945年 東京国立近代美術館(無期限貸与)

部分

ある意味で藤田嗣治の最高傑作といわれる作品です。
民間人を巻き込んだ玉砕の悲劇を描いていますが、戦局が悪化した時期であり、
戦意高揚というより、鎮魂の思いが表れています。
同じ戦争画でも、宮本三郎の「山下、パーシバル両将軍会見図」や小磯良平の
「娘子関を征く」は、この人が戦争画を描くとこんな風になるだろうという作品です。
藤田の場合は戦前のパリ時代、そして戦後のフランス時代とはまるで画風が変わり、
同じ画家とは思えないほどです。
藤田の作品を観ていると、いつもこの戸惑いが付きまといます。
「私の夢」 1947年 新潟県立近代美術館・万代島美術館

亡くなったマドレーヌとパリへの追慕を表した作品とのことですが、戦後になると
何か異様な雰囲気の絵が現れます。
太平洋戦争後は、藤田は戦争協力者として非難されたりしたこともあって、
1949に日本を離れ、パリに戻っています。
「カフェ」 1949年 ポンピドゥー・センター

ニューヨークでフランス入りの許可をを待っている頃に描いた作品で、パリ時代の
藤田が戻っています。
カフェのテーブルで女性が手紙とインクを置いて、物思わし気な表情をしています。
今ならPCを置いているところでしょう。
頬杖をついたポーズは憂鬱(メランコリー)の寓意とのことで、デューラーの
版画でも有名です。
「ラ・フォンテーヌ頌」 1949年 ポーラ美術館

これもアメリカで描いた作品です。
手先の器用な藤田はフランスの田舎家風の理想の家を小さな模型でつくり、
それをフランスにも持参していて、この絵の室内はその模型から採ったものです。
壁や床の質感まで表された緻密な作品で、肉や魚、卵などの静物は以前のフジタにも
見られたものですが、騒がしい狐たちは戦争画で群像表現に挑んだフジタの経験が
生きているようにも思えます。
「姉妹」 1950年 ポーラ美術館

ベッドの上で、カフェオレとクロワッサンという、フランスの朝食を手にした姉妹です。
手作りの額縁も見所です。
藤田は1955年にフランス国籍を取得し、1959年にランス大聖堂でカトリックの
洗礼を受け、レオナール・フジタとなっています。
「マドンナ」 1963年 ランス市立美術館

1959年公開の映画、「黒いオルフェ」のヒロインを演じた、アフリカ系アメリカ人の
マルペッサ・ドーン(1934-2008)がモデルです。
マリアの周りをアフリカ系の顔のケルビム(天使の一種)が囲み、中世絵画の
趣きがあります。
西洋の美の系譜に異文化の薫りを混ぜるのをフジタは得意としていたとのことで、
フジタの乗りやすい性格も表れています。
この展覧会ではあまり展示されていますが、戦後のフジタは子供を題材にした作品を
数多く描いています。
パリに戻った時にはフジタは忘れられた存在であり、絵を買ってもらうためには
親しみやすい子供を描くとよいと画商に助言されたことに始まるそうです。
子供を題材にした作品は、2013年にBunkamuraで開かれた「レオナール・フジタ展」に
何点か展示されていました。
「レオナール・フジタ展」の記事です。
藤田嗣治の展覧会は何回か開かれていますが、今回も初期から晩年までの作品が揃い、
藤田の軌跡がよく分かる展覧会になっています。
展覧会のHPです。
chariot
東京都美術館では「没後50年 藤田嗣治展」が開かれています。
会期は10月8日(月・祝)までです。

エコール・ド・パリを代表する画家、藤田嗣治(レオナール・フジタ、1886-1968)の
没後50年を記念する回顧展で、約120点が展示されています。
会期中、一部展示替があります。
「父の像」 1909年 東京藝術大学
東京美術学校(現在の東京藝術大学)在学中の作品です。
藤田嗣治の父は陸軍軍医で、森鴎外の後の陸軍軍医総監を務めています。
軍服に勲章をいっぱい着けた厳めしい姿ですが、顔は嗣治にそっくりです。
父は画家志望の嗣治に理解があり、フランス留学の費用も出してくれています。
初期の作品はまだ後の藤田らしさはありません。
藤田は1912年にフランスに渡り、パリのモンパルナスに住み、エコール・ド・パリ
の画家との交流を始めます。
やがて、美術学校時代の外光派の影響を受けた作風から離れ、藤田独特の
細い描線と乳白色の地肌の作品が表れてきます。
パリの画壇で自分の場所を得るには、独自性を出さないといけないので、
かなり苦労したことと思います。
「私の部屋、目覚まし時計のある静物」 1921年 ポンピドゥー・センター

細い描線と白地で描いた最初の静物画で、帝展にも出展され、母国日本での
本格的なデビュー作となっています。
眼鏡、パイプ、毛糸、傘、木靴などの品が藤田という人物を想像させています。
「貝殻のある静物」 1924年 高知県立美術館
ベルギーのジェームズ・アンソール(1860-1949)を訪ね、彼の土産物店で買ったらしい
貝殻細工も置かれています。
藤田はピカソやモディリアニ、スーティンなどと交流していましたが、アンソールにも
会いに行っていました。
「エミリー・クレイン=シャドボーンの肖像」 1922年 シカゴ美術館

パリに住む裕福なアメリカ女性がモデルです。
藤田が大好きだった猫も登場しています。
パリでは人気作家になった藤田に肖像画を描いてもらうのが流行だったそうです。
銀箔や金粉を使い、ソファーの布地の模様も描いて、東洋風で装飾性のある絵に
なっています。
藤田は金箔をよく使っていますが、銀箔を使っているのが確認されるのは
この作品のみとのことです。
「タピスリーの裸婦」 1923年 京都国立近代美術館

藤田独特の「乳白色の肌」を見せています。
ゴヤの「裸のマハ」やマネの「オランピア」を思わせる作品で、
タピスリーのケシの花模様が華やかです。
布地は西洋更紗と呼ばれる、トワル・ド・ジュイで、フジタは職人の仕事を
尊敬していました。
第一次世界後の後のフランスでは裸婦像は再生と成長の象徴として人気が
高かったそうです。
2016年にBunkamuraで開かれた「西洋更紗 トワル・ド・ジュイ展」の記事です。
「舞踏会の前」 1925年 大原美術館

仮面舞踏会を表す仮面と、さまざまの姿の7人の女性が描かれています。
2015年に修復が完了し、12月に東京藝術大学でお披露目展示されました。
「自画像」 1929年 東京国立近代美術館

机に硯を置き、細い線を描く面相筆を手にしています。
パリで成功を収めた藤田の、得意然とした自画像です。
「メキシコに於けるマドレーヌ」 1934年 京都国立近代美術館

パリで評判の画家となった藤田は1931年に個展開催のため、4番目の妻の
マドレーヌと一緒にアメリカ大陸に渡り、展覧会を開き、大きな成功を収めています。
1933年に帰国した後の作品で、背景にメキシコの景色やサボテンが描かれています。
ヨーロッパと中米の対照を表したとのことで、白い肌や服に赤が散りばめられて、
華のある作品です。
マドレーヌは1936年に日本で急逝してしまいます。
「争闘(猫)」 1940年 東京国立近代美術館

1939年に第2次世界大戦が始まり、翌年フランスはドイツに敗れ、藤田も帰国しています。
黑を背景にして、猫たちが激しく飛び跳ね、絡み合う画面には不穏な雰囲気が漂います。
帰国した藤田は陸軍美術協会理事長に就任し、戦争画を手掛けます。
父が陸軍軍医総監だったこともあり、積極的に関与していくことになります。
藤田を始め、小磯良平、宮本三郎などの描いた戦争画の多くは1946年にGHQに
接収されましたが、1970年に無期限貸与という形で日本に戻され、現在は
国立近代美術館が保管し、数点ずつ展示されています。
「サイパン島同胞臣節を全うす」 1945年 東京国立近代美術館(無期限貸与)

部分

ある意味で藤田嗣治の最高傑作といわれる作品です。
民間人を巻き込んだ玉砕の悲劇を描いていますが、戦局が悪化した時期であり、
戦意高揚というより、鎮魂の思いが表れています。
同じ戦争画でも、宮本三郎の「山下、パーシバル両将軍会見図」や小磯良平の
「娘子関を征く」は、この人が戦争画を描くとこんな風になるだろうという作品です。
藤田の場合は戦前のパリ時代、そして戦後のフランス時代とはまるで画風が変わり、
同じ画家とは思えないほどです。
藤田の作品を観ていると、いつもこの戸惑いが付きまといます。
「私の夢」 1947年 新潟県立近代美術館・万代島美術館

亡くなったマドレーヌとパリへの追慕を表した作品とのことですが、戦後になると
何か異様な雰囲気の絵が現れます。
太平洋戦争後は、藤田は戦争協力者として非難されたりしたこともあって、
1949に日本を離れ、パリに戻っています。
「カフェ」 1949年 ポンピドゥー・センター

ニューヨークでフランス入りの許可をを待っている頃に描いた作品で、パリ時代の
藤田が戻っています。
カフェのテーブルで女性が手紙とインクを置いて、物思わし気な表情をしています。
今ならPCを置いているところでしょう。
頬杖をついたポーズは憂鬱(メランコリー)の寓意とのことで、デューラーの
版画でも有名です。
「ラ・フォンテーヌ頌」 1949年 ポーラ美術館

これもアメリカで描いた作品です。
手先の器用な藤田はフランスの田舎家風の理想の家を小さな模型でつくり、
それをフランスにも持参していて、この絵の室内はその模型から採ったものです。
壁や床の質感まで表された緻密な作品で、肉や魚、卵などの静物は以前のフジタにも
見られたものですが、騒がしい狐たちは戦争画で群像表現に挑んだフジタの経験が
生きているようにも思えます。
「姉妹」 1950年 ポーラ美術館

ベッドの上で、カフェオレとクロワッサンという、フランスの朝食を手にした姉妹です。
手作りの額縁も見所です。
藤田は1955年にフランス国籍を取得し、1959年にランス大聖堂でカトリックの
洗礼を受け、レオナール・フジタとなっています。
「マドンナ」 1963年 ランス市立美術館

1959年公開の映画、「黒いオルフェ」のヒロインを演じた、アフリカ系アメリカ人の
マルペッサ・ドーン(1934-2008)がモデルです。
マリアの周りをアフリカ系の顔のケルビム(天使の一種)が囲み、中世絵画の
趣きがあります。
西洋の美の系譜に異文化の薫りを混ぜるのをフジタは得意としていたとのことで、
フジタの乗りやすい性格も表れています。
この展覧会ではあまり展示されていますが、戦後のフジタは子供を題材にした作品を
数多く描いています。
パリに戻った時にはフジタは忘れられた存在であり、絵を買ってもらうためには
親しみやすい子供を描くとよいと画商に助言されたことに始まるそうです。
子供を題材にした作品は、2013年にBunkamuraで開かれた「レオナール・フジタ展」に
何点か展示されていました。
「レオナール・フジタ展」の記事です。
藤田嗣治の展覧会は何回か開かれていますが、今回も初期から晩年までの作品が揃い、
藤田の軌跡がよく分かる展覧会になっています。
展覧会のHPです。
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いつも楽しく拝見させていただいてます。
チケットが来たら、日傘さして、
半分凍らせたペットボトルに 飲み物いれて、とんでゆきます、
ワクワクします。ww
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チケットが来たら、日傘さして、
半分凍らせたペットボトルに 飲み物いれて、とんでゆきます、
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大久保 正雄『旅する哲学者 美への旅』第153回灼熱の夏の午後、森陰の道を歩いて
【2018/08/21 20:08】
【2018/08/21 20:08】
今回も多くの作品が揃って、とても充実した展覧会なので、楽しんでください。