エコール・ド・パリ
展覧会で観たエコール・ド・パリの画家の作品を集めてみました。
エコール・ド・パリ(パリ派)とは20世紀初頭にパリのモンマルトルやモンパルナスに
集まった芸術家たちのことです。
エコール(派、学校)と呼ばれていますが、同じ作風の人たちが集まっている訳ではなく、
外国人、特にユダヤ系の人たちがが多いのが特徴です。
アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)
アメデオ・モディリアーニはイタリア出身で、ユダヤ系の家に生まれ、早くから芸術家を志し、
1906年にパリに出てきています。
彫刻も手掛けますが、すでに罹っていた結核のため体力が続かず、絵画に専念する
ことになります。
35歳の若さで結核性髄膜炎のため亡くなっており、制作期間はごく短く、死後に高く評価
される画家になっています。
アメデオ・モディリアーニ 「小さなルイーズ」 1915年 個人蔵

健康の悪化で彫刻を断念し、絵画に専念するようになった頃の作品で、
たくましい腕などに彫刻のような量感があり、顔はアフリカ彫刻のようです。
アメデオ・モディリアーニ 「裸婦」 1916年頃 コートールド美術館

モディリアーニの裸婦はざっくりと大胆な描きぶりが魅力で、この作品も
下描きせずに描いています。
顔は丁寧に描かれていますが、身体の部分は勢いよく塗り、髪は絵具の
乾かないうちに引っ掻いて髪の毛の感じを出しています。
ジュール・パスキン(1885-1930)
ジュール・パスキン(本名 ユリウス・モルデカイ・ピンカス)はブルガリアの
ユダヤ系の裕福な穀物商の家に生まれています。
ローマ由来のユリウスと、ユダヤ由来のモルデカイやピンカという両方が入った名前です。
ウィーンやミュンヘンなどで絵を学んだ後、1905年にパリに出ています。
繊細で揺らめくような描法と、真珠母色と呼ばれる淡く輝く色彩の画風で有名で、
最初から人気が高く、下積み時代の無かった画家と言われていますが、
アルコール依存症やうつ病に苦しみ、45歳で亡くなっています。
ジュール・パスキン 「少女たち」
油彩、パステル、カンヴァス 1923年 ポーラ美術館

2015年にはパナソニック汐留ミュージアムで「パスキン展」が開かれました。
「パスキン展」の記事です。
右 「テーブルのリュシーの肖像」 1928年 油彩、カンヴァス 個人蔵
左 「ジメットとミレイユ」 1927年 油彩、カンヴァス パリ市立近代美術館

右は恋人のリュシーの肖像です。
憂いを含んだ顔をしていて、テーブルの花が彩りを添えています。
パスキンは1910年にリュシーに会い、10年後に再会して二人は恋に落ちますが、
その時は双方とも結婚していて、結局、不毛な恋に終わってしまいます。
マルク・シャガール(1887-1985)
シャガールはロシア(現在のベラルーシ)のヴィテブスクで、ユダヤ系の家に生まれています。
1911年にパリに出て、1912年にモンパルナス近くのラ・リュッシュ(蜂の巣)という名の
集合アトリエ兼住居に住みます。
ここはスーティン、モディリアーニ、キスリングらの集まる、エコール・ド・パリの拠点と
なる所です。
1914年にヴィテブスクに戻った時、第一次世界大戦が起き、1917年にロシア革命が起きると
革命政府の文化運動に参加しますが、1923年に再びパリに戻ります。
第二次世界大戦が始まるとアメリカに亡命し、アメリカで妻のベラ・ローゼンフェルトを喪い、
戦後にパリに戻っています。
「日曜日」 1952~54年 ポンピドー・センター

シャガールは1952年、65歳の時にヴァランティーナ・ブロドスキーと結婚します。
輝く朝日に照らされるノートルダム寺院、エッフェル塔とともに、
妻のヴァランティーナとシャガール、雪のヴィテブスクを描いています。
昇る朝日の赤、サーチライトのように伸びる赤、空の強い黄色の中に浮かぶ
二人の顔は、ハート型の中に溶け込んでいて、シャガールの素直な喜びを
表しています。
自分の愛するものを全部描きこむ、子供のような心があります。
「ふたつの頭部と手」 1964年 個人蔵

シャガールは彫刻や陶器などの立体作品も手掛けています。
2010年に東京藝術大学大学美術館で開かれた「シャガール展」の記事です。
2017年に東京ステーションギャラリーで開かれた「シャガール三次元の世界」展の記事です
モイーズ・キスリング(1891-1953)
モイーズ・キスリングはクラクフ大公国(現在のポーランド)のクラクフ出身の
ユダヤ人で、地元の美術学校で学んだ後、1910年に19歳でパリに出てきます。
そしてエコール・ド・パリの一人として活躍し、「モンパルナスの帝王」とも
呼ばれています。
男気のある人で、1920年にモディリアーニが貧窮のうちに亡くなった時は
葬儀の全費用を負担しています。
モイーズ・キスリング 「水玉の服の少女」 1934年頃

淡い藤色の影を付けて、少女を浮き上がらせています。
水玉の服は平面的に描かれ、観る人の意識は愁いを帯びた表情の顔に集まります。
モイーズ・キスリング 「赤い長椅子の裸婦」 1937年 パリ市立近代美術館

ジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」やティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」に
倣った作品ですが、画面は単純化されています。
裸婦がこちらを見ているのは「ウルビーノのヴィーナス」と同じです。
長椅子の紅色が強調され、裸婦の肌にも反映しています。
ユダヤ人には東欧系(アシュケナージ)と南欧系(セファルディム)とがありますが、
アシュケナージの画家にはシャガールやキスリング、ス―ティン、セファルディムには
パスキン、モディリアーニなどがいます。
ユダヤ教では偶像崇拝を禁じていますが、多くのユダヤ系の画家は人物を描いています。
キスリングがユダヤ系のモイーズという名を嫌い、フランスに同化しようとしていたのに対し、
シャガールが故郷と旧約聖書の世界に親しみを感じていたのは対照的です。
キスリングは成功した画家ですが、パスキン、モディリアーニ、ユトリロはアルコール依存症、
パスキンとモディリアーニは自殺し、スーティンは貧窮のうちに病死しています。
モーリス・ユトリロ(1883-1955)
外国人の多いエコール・ド・パリですが、モーリス・ユトリロはパリ生まれで、
画家のシュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)の子です。
シュザンヌ・ヴァラドンはパリでシャヴァンヌやルノワール、ドガ、ロートレックなどの絵の
モデルもしていました。
「ラパン・アジル、モンマルトル」 1914年

サクレ=クール寺院の北側の、狭い坂道の脇にある酒場のラパン・アジルは、
ピカソやブラックが集ったということで、ユトリロの作品によく描かれています。
隣のサン・ヴァンサン墓地にはユトリロの墓もあります。
『「小さな聖体拝受者」、トルシー=アン=ヴァロワの教会(エヌ県)』
1912年頃 八木コレクション

教会の白壁が灰青色の空に半ば溶け込んで、しみじみとした景色になっています。
googleのストリートビューで見ると、この教会は現在は玄関部分や塀を失っていますが、
ほぼ同じ姿で残っているようです。
ユトリロは絵葉書を見て描くことも多かったので、パリ以外の景色もよく描いています。
マリー・ローランサン(1883-1956)
マリー・ローランサンはパリに生まれ、画家を目指している時にジョルジュ・ブラックと知り合い、
キュビズムの影響を受けています。
マリー・ローランサン 「優雅な舞踏会あるいは田舎での舞踏」
1913年 マリー・ローランサン美術館

キュビズム風のきっぱりした画面構成ですが、少ない色数の淡いパステルカラーで
まとめ、甘美な雰囲気を持たせているところは、ローランサンの特徴が表れています。
やがて、キュビズムから離れ始め、ローランサン独特の甘く優しい女性像を
描くようになります。
マリー・ローランサン 「三人の若い女」
1953年頃 マリー・ローランサン美術館

60歳前後から描き始め、10年近くかけて死の数年前に完成した作品とのことです。
ギリシャ神話のミューズを思わせる3人の女性は首飾りや月桂冠やスカーフを
着けています。
顔を寄せ合った緊密な画面構成で、体の線が放射状に延びています。
その簡潔さにはキュビズムの面影を感じます。
藤田嗣治(1886-1968)
藤田嗣治は軍医の子として東京に生まれ、早くから画家を志し、東京美術学校を卒業後、
1913年にフランスに渡ります。
モンパルナスに住み着き、モディリアーニ、パスキン、スーティンなど、エコール・ド・パリの
画家たちと親交を結びます。
日本画の技法を採り入れた藤田の絵は大評判となり、藤田はパリの寵児となっています。
ところが第二次世界大戦が勃発し、日本に戻った藤田は以後、多くの戦争画を描くことに
なります。
戦後、率先して戦争画を描いたことで日本に居辛くなった藤田は再びフランンスに渡り、
1955年にフランス国籍を取得し、1959年にランス大聖堂でカトリックの洗礼を受け、
レオナール・フジタとなっています。
藤田嗣治 「猫のいる自画像」 1926年

リトグラフによる作品です。
お馴染みのおかっぱ頭にロイド眼鏡で、藤田嗣治のよく用いた面相筆を持って、
猫と一緒におさまっています。
藤田嗣治 「舞踏会の前」 1925年 大原美術館

「乳白色の肌」の技法を生み出し、エコール・ド・パリの画家として絶頂期
だった頃の作品です。
仮面舞踏会を表す仮面と、さまざまの姿の7人の女性が描かれています。
藤田嗣治は人気が高く、何度も展覧会が開かれています。
2018年に東京都美術館で開かれた「没後50年 藤田嗣治展」の記事です。
2013年にBunkamuraザ・ミュージアムで開かれた「レオナール・フジタ展」の記事です。
第二次世界大戦はエコール・ド・パリの画家たちの運命を大きく変えています。
ユダヤ人のシャガールとキスリングはアメリカに亡命し、同じくユダヤ人のスーティンは
隠れ住んでいるうちに持病を悪化させて亡くなり、
ローランサンはパリを占領したドイツ軍に自宅を接収されています。
戦後にフランスに戻った藤田は、「日本に捨てられた」と語っていました。
chariot
展覧会で観たエコール・ド・パリの画家の作品を集めてみました。
エコール・ド・パリ(パリ派)とは20世紀初頭にパリのモンマルトルやモンパルナスに
集まった芸術家たちのことです。
エコール(派、学校)と呼ばれていますが、同じ作風の人たちが集まっている訳ではなく、
外国人、特にユダヤ系の人たちがが多いのが特徴です。
アメデオ・モディリアーニ(1884-1920)
アメデオ・モディリアーニはイタリア出身で、ユダヤ系の家に生まれ、早くから芸術家を志し、
1906年にパリに出てきています。
彫刻も手掛けますが、すでに罹っていた結核のため体力が続かず、絵画に専念する
ことになります。
35歳の若さで結核性髄膜炎のため亡くなっており、制作期間はごく短く、死後に高く評価
される画家になっています。
アメデオ・モディリアーニ 「小さなルイーズ」 1915年 個人蔵

健康の悪化で彫刻を断念し、絵画に専念するようになった頃の作品で、
たくましい腕などに彫刻のような量感があり、顔はアフリカ彫刻のようです。
アメデオ・モディリアーニ 「裸婦」 1916年頃 コートールド美術館

モディリアーニの裸婦はざっくりと大胆な描きぶりが魅力で、この作品も
下描きせずに描いています。
顔は丁寧に描かれていますが、身体の部分は勢いよく塗り、髪は絵具の
乾かないうちに引っ掻いて髪の毛の感じを出しています。
ジュール・パスキン(1885-1930)
ジュール・パスキン(本名 ユリウス・モルデカイ・ピンカス)はブルガリアの
ユダヤ系の裕福な穀物商の家に生まれています。
ローマ由来のユリウスと、ユダヤ由来のモルデカイやピンカという両方が入った名前です。
ウィーンやミュンヘンなどで絵を学んだ後、1905年にパリに出ています。
繊細で揺らめくような描法と、真珠母色と呼ばれる淡く輝く色彩の画風で有名で、
最初から人気が高く、下積み時代の無かった画家と言われていますが、
アルコール依存症やうつ病に苦しみ、45歳で亡くなっています。
ジュール・パスキン 「少女たち」
油彩、パステル、カンヴァス 1923年 ポーラ美術館

2015年にはパナソニック汐留ミュージアムで「パスキン展」が開かれました。
「パスキン展」の記事です。
右 「テーブルのリュシーの肖像」 1928年 油彩、カンヴァス 個人蔵
左 「ジメットとミレイユ」 1927年 油彩、カンヴァス パリ市立近代美術館

右は恋人のリュシーの肖像です。
憂いを含んだ顔をしていて、テーブルの花が彩りを添えています。
パスキンは1910年にリュシーに会い、10年後に再会して二人は恋に落ちますが、
その時は双方とも結婚していて、結局、不毛な恋に終わってしまいます。
マルク・シャガール(1887-1985)
シャガールはロシア(現在のベラルーシ)のヴィテブスクで、ユダヤ系の家に生まれています。
1911年にパリに出て、1912年にモンパルナス近くのラ・リュッシュ(蜂の巣)という名の
集合アトリエ兼住居に住みます。
ここはスーティン、モディリアーニ、キスリングらの集まる、エコール・ド・パリの拠点と
なる所です。
1914年にヴィテブスクに戻った時、第一次世界大戦が起き、1917年にロシア革命が起きると
革命政府の文化運動に参加しますが、1923年に再びパリに戻ります。
第二次世界大戦が始まるとアメリカに亡命し、アメリカで妻のベラ・ローゼンフェルトを喪い、
戦後にパリに戻っています。
「日曜日」 1952~54年 ポンピドー・センター

シャガールは1952年、65歳の時にヴァランティーナ・ブロドスキーと結婚します。
輝く朝日に照らされるノートルダム寺院、エッフェル塔とともに、
妻のヴァランティーナとシャガール、雪のヴィテブスクを描いています。
昇る朝日の赤、サーチライトのように伸びる赤、空の強い黄色の中に浮かぶ
二人の顔は、ハート型の中に溶け込んでいて、シャガールの素直な喜びを
表しています。
自分の愛するものを全部描きこむ、子供のような心があります。
「ふたつの頭部と手」 1964年 個人蔵

シャガールは彫刻や陶器などの立体作品も手掛けています。
2010年に東京藝術大学大学美術館で開かれた「シャガール展」の記事です。
2017年に東京ステーションギャラリーで開かれた「シャガール三次元の世界」展の記事です
モイーズ・キスリング(1891-1953)
モイーズ・キスリングはクラクフ大公国(現在のポーランド)のクラクフ出身の
ユダヤ人で、地元の美術学校で学んだ後、1910年に19歳でパリに出てきます。
そしてエコール・ド・パリの一人として活躍し、「モンパルナスの帝王」とも
呼ばれています。
男気のある人で、1920年にモディリアーニが貧窮のうちに亡くなった時は
葬儀の全費用を負担しています。
モイーズ・キスリング 「水玉の服の少女」 1934年頃

淡い藤色の影を付けて、少女を浮き上がらせています。
水玉の服は平面的に描かれ、観る人の意識は愁いを帯びた表情の顔に集まります。
モイーズ・キスリング 「赤い長椅子の裸婦」 1937年 パリ市立近代美術館

ジョルジョーネの「眠れるヴィーナス」やティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」に
倣った作品ですが、画面は単純化されています。
裸婦がこちらを見ているのは「ウルビーノのヴィーナス」と同じです。
長椅子の紅色が強調され、裸婦の肌にも反映しています。
ユダヤ人には東欧系(アシュケナージ)と南欧系(セファルディム)とがありますが、
アシュケナージの画家にはシャガールやキスリング、ス―ティン、セファルディムには
パスキン、モディリアーニなどがいます。
ユダヤ教では偶像崇拝を禁じていますが、多くのユダヤ系の画家は人物を描いています。
キスリングがユダヤ系のモイーズという名を嫌い、フランスに同化しようとしていたのに対し、
シャガールが故郷と旧約聖書の世界に親しみを感じていたのは対照的です。
キスリングは成功した画家ですが、パスキン、モディリアーニ、ユトリロはアルコール依存症、
パスキンとモディリアーニは自殺し、スーティンは貧窮のうちに病死しています。
モーリス・ユトリロ(1883-1955)
外国人の多いエコール・ド・パリですが、モーリス・ユトリロはパリ生まれで、
画家のシュザンヌ・ヴァラドン(1865-1938)の子です。
シュザンヌ・ヴァラドンはパリでシャヴァンヌやルノワール、ドガ、ロートレックなどの絵の
モデルもしていました。
「ラパン・アジル、モンマルトル」 1914年

サクレ=クール寺院の北側の、狭い坂道の脇にある酒場のラパン・アジルは、
ピカソやブラックが集ったということで、ユトリロの作品によく描かれています。
隣のサン・ヴァンサン墓地にはユトリロの墓もあります。
『「小さな聖体拝受者」、トルシー=アン=ヴァロワの教会(エヌ県)』
1912年頃 八木コレクション

教会の白壁が灰青色の空に半ば溶け込んで、しみじみとした景色になっています。
googleのストリートビューで見ると、この教会は現在は玄関部分や塀を失っていますが、
ほぼ同じ姿で残っているようです。
ユトリロは絵葉書を見て描くことも多かったので、パリ以外の景色もよく描いています。
マリー・ローランサン(1883-1956)
マリー・ローランサンはパリに生まれ、画家を目指している時にジョルジュ・ブラックと知り合い、
キュビズムの影響を受けています。
マリー・ローランサン 「優雅な舞踏会あるいは田舎での舞踏」
1913年 マリー・ローランサン美術館

キュビズム風のきっぱりした画面構成ですが、少ない色数の淡いパステルカラーで
まとめ、甘美な雰囲気を持たせているところは、ローランサンの特徴が表れています。
やがて、キュビズムから離れ始め、ローランサン独特の甘く優しい女性像を
描くようになります。
マリー・ローランサン 「三人の若い女」
1953年頃 マリー・ローランサン美術館

60歳前後から描き始め、10年近くかけて死の数年前に完成した作品とのことです。
ギリシャ神話のミューズを思わせる3人の女性は首飾りや月桂冠やスカーフを
着けています。
顔を寄せ合った緊密な画面構成で、体の線が放射状に延びています。
その簡潔さにはキュビズムの面影を感じます。
藤田嗣治(1886-1968)
藤田嗣治は軍医の子として東京に生まれ、早くから画家を志し、東京美術学校を卒業後、
1913年にフランスに渡ります。
モンパルナスに住み着き、モディリアーニ、パスキン、スーティンなど、エコール・ド・パリの
画家たちと親交を結びます。
日本画の技法を採り入れた藤田の絵は大評判となり、藤田はパリの寵児となっています。
ところが第二次世界大戦が勃発し、日本に戻った藤田は以後、多くの戦争画を描くことに
なります。
戦後、率先して戦争画を描いたことで日本に居辛くなった藤田は再びフランンスに渡り、
1955年にフランス国籍を取得し、1959年にランス大聖堂でカトリックの洗礼を受け、
レオナール・フジタとなっています。
藤田嗣治 「猫のいる自画像」 1926年

リトグラフによる作品です。
お馴染みのおかっぱ頭にロイド眼鏡で、藤田嗣治のよく用いた面相筆を持って、
猫と一緒におさまっています。
藤田嗣治 「舞踏会の前」 1925年 大原美術館

「乳白色の肌」の技法を生み出し、エコール・ド・パリの画家として絶頂期
だった頃の作品です。
仮面舞踏会を表す仮面と、さまざまの姿の7人の女性が描かれています。
藤田嗣治は人気が高く、何度も展覧会が開かれています。
2018年に東京都美術館で開かれた「没後50年 藤田嗣治展」の記事です。
2013年にBunkamuraザ・ミュージアムで開かれた「レオナール・フジタ展」の記事です。
第二次世界大戦はエコール・ド・パリの画家たちの運命を大きく変えています。
ユダヤ人のシャガールとキスリングはアメリカに亡命し、同じくユダヤ人のスーティンは
隠れ住んでいるうちに持病を悪化させて亡くなり、
ローランサンはパリを占領したドイツ軍に自宅を接収されています。
戦後にフランスに戻った藤田は、「日本に捨てられた」と語っていました。
- 関連記事
エコールドパリは流派ではないので、いろいろな作風の画家がいて、人間ドラマもあり、興味深い人たちです。
初めてコメントさせていただきます。
エコールドパリについて、改めて勉強になることが多々。
ありがとうございました。
エコールドパリについて、改めて勉強になることが多々。
ありがとうございました。