両国
両国の江戸東京博物館では特別展、「市民からのおくりもの2019―平成30年度
新収蔵品から―」と特別企画「『青』でみる江戸東京」が開かれています。
会期は9月27日(日)までです。
8月23日(日)までの前期と8月25日(火)からの後期で一部展示替えがあります。

江戸東京博物館が平成30年度に収蔵した1,807点の資料の一部が展示されています。
「徳川秀忠像」 伝冷泉為恭 江戸末期


8月23日までの展示です。
京都の知恩院の所蔵する肖像を冷泉為恭が模写したものと伝えられています。
徳川家康以外の歴代徳川将軍の肖像は極端に少なく、稀な肖像画とのことです。
冷泉為恭(1823~1864)は幕末に大和絵の復興に努めた絵師ですが、幕府との
関係を疑われ、尊皇攘夷派に殺害されています。
「赤坂喰違より水道橋まで仮御番所并〆切矢来場所絵図」
天保10~14年(1839~1843)

8月23日までの展示です。
赤坂の喰違見附から隅田川を経て、神田川に架かる水道橋まで、江戸城の外堀に沿って
番所などの警備場所が描かれています。
赤坂喰違

両国橋

柳橋

水道橋

高橋泥舟(1835~1903)関係の資料が展示されています。
高橋泥舟は幕臣で、最後の将軍徳川慶喜に仕え、その人格識見から勝海舟、
山岡鉄舟と並んで幕末の三舟と呼ばれています。
「高橋泥舟が幼時に書いた手紙」 天保11年(1840)

6歳の時、四国に赴任していた養父の高橋包承に送った手紙で、
「をかしをたんともてきてくだされ候」とあります。
四国は砂糖の和三盆の産地だったので、お菓子でも知られていたのかもしれません。
包承はこれを保管し、後年に泥舟に渡したものと思われ、泥舟は終生大切に持っていた
とのことです。
後に海内無双の槍の名手と謳われた高橋泥舟もこんな可愛い子ども時代があった訳です。
「口宣案」 文久3年(1863)3月12日


高橋泥舟が京都で浪士組の取締役だった時、朝廷から従五位下伊勢守に
任じられた時の辞令です。
通常、武士は幕府が実質的に決定した武家官位を賜りますが、高橋泥舟は
孝明天皇の勅許により賜ったようです。
「庄内紀行」 明治22年(1889)

山形県を旅した時の紀行文で、清川村にある清河八郎の墓に詣でています。
清河八郎(1830~1863)は尊王攘夷派の志士で、浪士組を結成し、これを尊王攘夷の
組織にしようと画策しますが、暗殺されています。
浪士組の一部は後に新選組になっています。
「明治期の泥舟の画文」

富士山、案山子、どくろが描かれています。
大正12年(1923)9月1日の関東大震災関係の資料も多数展示されています。
「大正震災図絵浅草之巻より凌雲閣」 佐藤素洲/筆 荒木重三郎/印刷兼発行
大正12年(1923)11月8日

浅草のランドマークだった凌雲閣(浅草十二階)も倒壊しました。
「大正震災図絵浅草之巻より花屋敷」

火に包まれた浅草花屋敷には動物園があり、子象は救出されましたが、救出できなかった
動物も多かったそうです。
「新版大震災帝都復興双六」 浦野銀次郎/著刊 大正12年(1923)12月15日

振り出しの時計は地震の発生した11時58分を指しています。

浅草寺はほぼ焼失を免れ、浅草花屋敷では子象を救い出しています。


下は本所の陸軍被服廠跡の火災旋風です。
ここに逃げ込んだ人たちは火災の起こした旋風に巻き込まれ、
約38000人が亡くなっています。
現在は、太平洋戦争の空襲の被害者を共に祀った東京都慰霊堂が建っています。
左下のお茶の水のニコライ堂も内部を焼失しています。
汽車の混雑や軍隊の炊き出しも描かれています。
「東京市震災焼失地域図」 1923年9月20日付 東京市役所救護部発行

東側(地図の下方向)が焼失し、本郷区・小石川区(今の文京区)は焼け残っています。
無料で入院できる病院・救護所の案内 1923年 東京市役所発行

築地の聖路加病院や広尾の日本赤十字病院(今の日本赤十字社医療センター)、
三田の済生会病院(今の済生会中央病院)の名もあります。
「飲食物ニ御注意」 1923年 関東戒厳司令部発行

災害の後の伝染病への注意喚起です。
特別企画「『青』でみる江戸東京」として、青に関係した資料も幾つか展示されています。
「紙布(しふ)の裃(鮫小紋)」 19世紀前半

紙布は1~2㎜に切った紙を使って織った布のことで、これは縦糸に絹、
横糸に紙を使っています。
通気性、吸湿性に優れ、肌触りが良いことから、夏の衣料として好まれ、
洗濯も出来るそうです。
裃は武士の正装で、橘の家紋が入っています。
「長板中形浴衣 花丸文に小桜」 清水幸太郎/型付 昭和32年(1957)頃


8月23日までの展示です。
花丸文と小さな桜の花を藍で型染めした浴衣です。
長板中形は型紙を使って長板に貼った木綿を藍染めする、江戸時代中期から
伝わる技法です。
清水幸太郎(1897~1988)は染色家として人間国宝の指定を受けています。
「染付芙蓉手VOC字文皿」 江戸中期

芙蓉手は円周を等分に分割して描く技法で、開いた蓮の花を象っています。
中央のVOCはオランダ東インド会社の頭文字です。
同社の注文により有田で焼成され、ヨーロッパに輸出されたものです。
「名所江戸百景 日本橋雪晴」 歌川広重 安政3年(1856)

8月23日までの展示です。
名所江戸百景シリーズ最初の絵で、年の始めでしょうか、雪の降った後の日本橋を
魚河岸の方から眺めています。
白雪をいただいた富士山や江戸城も見える、さわやかな景色です。
工業生産による最初の顔料であるプルシャンブルーは日本にも輸入されて、
ベロ藍と呼ばれ、広重や北斎の版画によく使われています。
この絵でも濃淡を付けて巧みに使われています。
「名所江戸百景 神田紺屋町」 歌川広重 安政4年(1857)

8月23日までの展示です。
神田紺屋町は現在のJR神田駅の東側にあり、染物屋の町で藍染めが盛んでした。
晒した布には版元の魚屋栄吉を表す魚の字と、広重の替紋のヒロを象った菱型が
染め出されています。
8月25日からは葛飾北斎の浮世絵が展示されます。
「東京二十景 明石町の雨後」 川瀬巴水 昭和3年(1928)

8月23日までの展示です。
築地明石町から月島方向を眺めた景色で、隅田川に汽船が浮かび、月島には工場の
煙突が見えます。
月島は明治時代に隅田川を浚渫した土で造成した埋立地で、工場が建ち並んでいました。
川瀬巴水(1883~1957)は大正から昭和にかけて活躍した風景版画家で、日本各地の
風景を叙情的に描いています。
「東京二十景 馬込の月」 川瀬巴水 昭和5年(1930)

8月23日までの展示です。
空には煌々と輝く月が松の大木を浮かび上がらせ、地上には民家の
小さな灯が見えます。
巴水の住んでいた馬込は当時はこの絵のように畑地だったようです。
展覧会のHPです。
chariot
両国の江戸東京博物館では特別展、「市民からのおくりもの2019―平成30年度
新収蔵品から―」と特別企画「『青』でみる江戸東京」が開かれています。
会期は9月27日(日)までです。
8月23日(日)までの前期と8月25日(火)からの後期で一部展示替えがあります。

江戸東京博物館が平成30年度に収蔵した1,807点の資料の一部が展示されています。
「徳川秀忠像」 伝冷泉為恭 江戸末期


8月23日までの展示です。
京都の知恩院の所蔵する肖像を冷泉為恭が模写したものと伝えられています。
徳川家康以外の歴代徳川将軍の肖像は極端に少なく、稀な肖像画とのことです。
冷泉為恭(1823~1864)は幕末に大和絵の復興に努めた絵師ですが、幕府との
関係を疑われ、尊皇攘夷派に殺害されています。
「赤坂喰違より水道橋まで仮御番所并〆切矢来場所絵図」
天保10~14年(1839~1843)

8月23日までの展示です。
赤坂の喰違見附から隅田川を経て、神田川に架かる水道橋まで、江戸城の外堀に沿って
番所などの警備場所が描かれています。
赤坂喰違

両国橋

柳橋

水道橋

高橋泥舟(1835~1903)関係の資料が展示されています。
高橋泥舟は幕臣で、最後の将軍徳川慶喜に仕え、その人格識見から勝海舟、
山岡鉄舟と並んで幕末の三舟と呼ばれています。
「高橋泥舟が幼時に書いた手紙」 天保11年(1840)

6歳の時、四国に赴任していた養父の高橋包承に送った手紙で、
「をかしをたんともてきてくだされ候」とあります。
四国は砂糖の和三盆の産地だったので、お菓子でも知られていたのかもしれません。
包承はこれを保管し、後年に泥舟に渡したものと思われ、泥舟は終生大切に持っていた
とのことです。
後に海内無双の槍の名手と謳われた高橋泥舟もこんな可愛い子ども時代があった訳です。
「口宣案」 文久3年(1863)3月12日


高橋泥舟が京都で浪士組の取締役だった時、朝廷から従五位下伊勢守に
任じられた時の辞令です。
通常、武士は幕府が実質的に決定した武家官位を賜りますが、高橋泥舟は
孝明天皇の勅許により賜ったようです。
「庄内紀行」 明治22年(1889)

山形県を旅した時の紀行文で、清川村にある清河八郎の墓に詣でています。
清河八郎(1830~1863)は尊王攘夷派の志士で、浪士組を結成し、これを尊王攘夷の
組織にしようと画策しますが、暗殺されています。
浪士組の一部は後に新選組になっています。
「明治期の泥舟の画文」

富士山、案山子、どくろが描かれています。
大正12年(1923)9月1日の関東大震災関係の資料も多数展示されています。
「大正震災図絵浅草之巻より凌雲閣」 佐藤素洲/筆 荒木重三郎/印刷兼発行
大正12年(1923)11月8日

浅草のランドマークだった凌雲閣(浅草十二階)も倒壊しました。
「大正震災図絵浅草之巻より花屋敷」

火に包まれた浅草花屋敷には動物園があり、子象は救出されましたが、救出できなかった
動物も多かったそうです。
「新版大震災帝都復興双六」 浦野銀次郎/著刊 大正12年(1923)12月15日

振り出しの時計は地震の発生した11時58分を指しています。

浅草寺はほぼ焼失を免れ、浅草花屋敷では子象を救い出しています。


下は本所の陸軍被服廠跡の火災旋風です。
ここに逃げ込んだ人たちは火災の起こした旋風に巻き込まれ、
約38000人が亡くなっています。
現在は、太平洋戦争の空襲の被害者を共に祀った東京都慰霊堂が建っています。
左下のお茶の水のニコライ堂も内部を焼失しています。
汽車の混雑や軍隊の炊き出しも描かれています。
「東京市震災焼失地域図」 1923年9月20日付 東京市役所救護部発行

東側(地図の下方向)が焼失し、本郷区・小石川区(今の文京区)は焼け残っています。
無料で入院できる病院・救護所の案内 1923年 東京市役所発行

築地の聖路加病院や広尾の日本赤十字病院(今の日本赤十字社医療センター)、
三田の済生会病院(今の済生会中央病院)の名もあります。
「飲食物ニ御注意」 1923年 関東戒厳司令部発行

災害の後の伝染病への注意喚起です。
特別企画「『青』でみる江戸東京」として、青に関係した資料も幾つか展示されています。
「紙布(しふ)の裃(鮫小紋)」 19世紀前半

紙布は1~2㎜に切った紙を使って織った布のことで、これは縦糸に絹、
横糸に紙を使っています。
通気性、吸湿性に優れ、肌触りが良いことから、夏の衣料として好まれ、
洗濯も出来るそうです。
裃は武士の正装で、橘の家紋が入っています。
「長板中形浴衣 花丸文に小桜」 清水幸太郎/型付 昭和32年(1957)頃


8月23日までの展示です。
花丸文と小さな桜の花を藍で型染めした浴衣です。
長板中形は型紙を使って長板に貼った木綿を藍染めする、江戸時代中期から
伝わる技法です。
清水幸太郎(1897~1988)は染色家として人間国宝の指定を受けています。
「染付芙蓉手VOC字文皿」 江戸中期

芙蓉手は円周を等分に分割して描く技法で、開いた蓮の花を象っています。
中央のVOCはオランダ東インド会社の頭文字です。
同社の注文により有田で焼成され、ヨーロッパに輸出されたものです。
「名所江戸百景 日本橋雪晴」 歌川広重 安政3年(1856)

8月23日までの展示です。
名所江戸百景シリーズ最初の絵で、年の始めでしょうか、雪の降った後の日本橋を
魚河岸の方から眺めています。
白雪をいただいた富士山や江戸城も見える、さわやかな景色です。
工業生産による最初の顔料であるプルシャンブルーは日本にも輸入されて、
ベロ藍と呼ばれ、広重や北斎の版画によく使われています。
この絵でも濃淡を付けて巧みに使われています。
「名所江戸百景 神田紺屋町」 歌川広重 安政4年(1857)

8月23日までの展示です。
神田紺屋町は現在のJR神田駅の東側にあり、染物屋の町で藍染めが盛んでした。
晒した布には版元の魚屋栄吉を表す魚の字と、広重の替紋のヒロを象った菱型が
染め出されています。
8月25日からは葛飾北斎の浮世絵が展示されます。
「東京二十景 明石町の雨後」 川瀬巴水 昭和3年(1928)

8月23日までの展示です。
築地明石町から月島方向を眺めた景色で、隅田川に汽船が浮かび、月島には工場の
煙突が見えます。
月島は明治時代に隅田川を浚渫した土で造成した埋立地で、工場が建ち並んでいました。
川瀬巴水(1883~1957)は大正から昭和にかけて活躍した風景版画家で、日本各地の
風景を叙情的に描いています。
「東京二十景 馬込の月」 川瀬巴水 昭和5年(1930)

8月23日までの展示です。
空には煌々と輝く月が松の大木を浮かび上がらせ、地上には民家の
小さな灯が見えます。
巴水の住んでいた馬込は当時はこの絵のように畑地だったようです。
展覧会のHPです。
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