築地
築地本願寺に行ってきました。
本堂は関東大震災で焼失した後、1934年に完成しています。
インド寺院風の変わったデザインは伊東忠太の設計です。



親鸞を祖とする浄土真宗のうち、親鸞の子孫の伝える本願寺は戦国時代に
蓮如の布教活動により飛躍的に信者を増やしています。
その勢力は各地の戦国大名を苦しめ、織田信長とも10年にわたって戦っています。
本願寺は江戸時代に大谷派(東本願寺)と本願寺派(西本願寺)に分かれますが、
築地本願寺は西本願寺に属しています。
佃島初代名主佃忠兵衛報恩塔

佃島は徳川家康が関東入部の際、摂津国佃村と大和田村の漁民が江戸に移住し、
一帯を埋め立てて住み付いたことに始まります。
佃忠兵衛は摂津から移住してきた漁民たちの指導者の一人で、佃島の初代の
名主となっています。
この報恩塔は文久元年(1861)の二百回忌に建てられたものです。
元和3年(1617)に浅草で創建された築地本願寺は明暦の大火で焼失したため、
築地に移転し、万治元年(1658)に仮御堂を完成させています。
築地の用地を埋め立て、移転に協力したのも佃島の漁民たちです。
間新六供養塔

間新六(1680-1703)は赤穂藩主浅野長矩の元家来で、元禄15年(1702)の
赤穂浪士による吉良上野介邸討入りに参加し、翌年、お預けとなった長府藩毛利家の
麻布上屋敷で切腹しています。
この時代の切腹は切腹する者が短刀に手を掛けたところで介錯する者が首を打つのですが、
間新六はやにわに短刀を掴んで実際に切腹を果たしています。
赤穂浪士は浅野長矩と同じ高輪の泉岳寺に葬られていますが、間新六だけは
義兄により築地本願寺に葬られています。
酒井抱一の墓

酒井抱一(1761-1829)は姫路藩主の弟ですが、家を継ぐ可能性が無くなったことを
きっかけにしてか、本願寺派の僧として出家しています。
以後は絵師・俳人として活躍し、江戸琳派の祖となっています。
抱一の法名は等覚院文詮暉真です。
参考
「秋草鶉図」 酒井抱一 19世紀前半(江戸後期) 山種美術館 重要美術品

台湾物故者の霊

太平洋戦争敗戦後、台湾在住の日本人が引き上げたため、台湾で物故した
日本人の墓も放置されていましたが、昭和36年(1961)に墓地の整理が完了し、
約1万3千人の遺骨が納められました。
その後、全員の分骨が日本に持帰られ、築地本願寺に遺骨安置所が建てられました。
築地本願寺のインフォメーション棟には「築地本願寺カフェ Tsumugi」があります。
この時はブラインドが下りていました。

以前、夜に行った時の写真です。

店内は広々として、全席禁煙、ガラス壁で前庭に面しています。
BGMはジャズソングでした。
メニューは食事やドリンクがいろいろ揃っています。


評判の朝食メニュー、「18品の朝ごはん」は浄土真宗の教義である、
阿弥陀如来の第十八願に拠っています。

日本茶のリラックス638円とビューティー638円です。
ポットの1つは写っていません。

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築地本願寺に行ってきました。
本堂は関東大震災で焼失した後、1934年に完成しています。
インド寺院風の変わったデザインは伊東忠太の設計です。



親鸞を祖とする浄土真宗のうち、親鸞の子孫の伝える本願寺は戦国時代に
蓮如の布教活動により飛躍的に信者を増やしています。
その勢力は各地の戦国大名を苦しめ、織田信長とも10年にわたって戦っています。
本願寺は江戸時代に大谷派(東本願寺)と本願寺派(西本願寺)に分かれますが、
築地本願寺は西本願寺に属しています。
佃島初代名主佃忠兵衛報恩塔

佃島は徳川家康が関東入部の際、摂津国佃村と大和田村の漁民が江戸に移住し、
一帯を埋め立てて住み付いたことに始まります。
佃忠兵衛は摂津から移住してきた漁民たちの指導者の一人で、佃島の初代の
名主となっています。
この報恩塔は文久元年(1861)の二百回忌に建てられたものです。
元和3年(1617)に浅草で創建された築地本願寺は明暦の大火で焼失したため、
築地に移転し、万治元年(1658)に仮御堂を完成させています。
築地の用地を埋め立て、移転に協力したのも佃島の漁民たちです。
間新六供養塔

間新六(1680-1703)は赤穂藩主浅野長矩の元家来で、元禄15年(1702)の
赤穂浪士による吉良上野介邸討入りに参加し、翌年、お預けとなった長府藩毛利家の
麻布上屋敷で切腹しています。
この時代の切腹は切腹する者が短刀に手を掛けたところで介錯する者が首を打つのですが、
間新六はやにわに短刀を掴んで実際に切腹を果たしています。
赤穂浪士は浅野長矩と同じ高輪の泉岳寺に葬られていますが、間新六だけは
義兄により築地本願寺に葬られています。
酒井抱一の墓

酒井抱一(1761-1829)は姫路藩主の弟ですが、家を継ぐ可能性が無くなったことを
きっかけにしてか、本願寺派の僧として出家しています。
以後は絵師・俳人として活躍し、江戸琳派の祖となっています。
抱一の法名は等覚院文詮暉真です。
参考
「秋草鶉図」 酒井抱一 19世紀前半(江戸後期) 山種美術館 重要美術品

台湾物故者の霊

太平洋戦争敗戦後、台湾在住の日本人が引き上げたため、台湾で物故した
日本人の墓も放置されていましたが、昭和36年(1961)に墓地の整理が完了し、
約1万3千人の遺骨が納められました。
その後、全員の分骨が日本に持帰られ、築地本願寺に遺骨安置所が建てられました。
築地本願寺のインフォメーション棟には「築地本願寺カフェ Tsumugi」があります。
この時はブラインドが下りていました。

以前、夜に行った時の写真です。

店内は広々として、全席禁煙、ガラス壁で前庭に面しています。
BGMはジャズソングでした。
メニューは食事やドリンクがいろいろ揃っています。


評判の朝食メニュー、「18品の朝ごはん」は浄土真宗の教義である、
阿弥陀如来の第十八願に拠っています。

日本茶のリラックス638円とビューティー638円です。
ポットの1つは写っていません。

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私お茶のことで展覧会へ行ったら
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浄土真宗は大勢力で、東本願寺は明治の始めに北海道に道路を建設(本願寺道路)したり、西本願寺は明治の末に中央アジアに大谷探検隊を派遣したりしています。
西本願寺に属する築地本願寺も意欲的な建物で、あの外観はインパクトが大きく、今では築地のランドマークです。