両国
両国の江戸東京博物館では企画展「徳川一門 ―将軍家をささえたひとびと―」が
開かれています。
会期は3月6日(日)までです。

徳川家康から慶喜まで15代続いた徳川将軍家と、それを支えた一門についての展示です。
徳川将軍家の系譜

8代将軍吉宗以来、分家の紀伊徳川家と水戸徳川家の系統が将軍職を継いでいます。
「東照大権現像」 天海賛 四代木村了琢筆
江戸時代 德川記念財団

南光坊天海(1536?-1643)は天台宗の僧で、徳川家康に仕えています。
家康の死後の神号を権現と定めたのは天海の案です。
「本小札濃勝糸威二枚胴具足」 江戸時代末期 江戸東京博物館


胴は前後二枚で、兜の前立はカマキリ、勝糸は濃い藍色の威し糸のことです。
清水徳川家3代当主で紀州藩11代藩主、徳川斉順(なりゆき)所用の鎧です。
11代将軍徳川家斉の七男で、14代将軍徳川家茂の父でもあります。
「松の徳葵の賑わい」 明治20年(1887) 江戸東京博物館
明治になり江戸時代を懐かしむ気分から描かれた6枚続きの錦絵で、
徳川家斉が儲けた53人の子を描いています。

左上が家斉、左下の青い着物姿が斉順です。
子どもの絵が多いのは子の多くが幼少時に夭折していることによるものです。

右上の束帯姿が次男で12代将軍の家慶、手前の紫の着物に袴姿が
十五男の斉民です。
「山水図」 松平斉民 明治23年(1890) 徳川記念財団

松平斉民(1814-1891)は11代将軍徳川家斉の十五男で、津山藩松平家を継いでいます。
父の家斉は26人もの男子を儲けていますが、家斉の男系子孫で残っているのは
斉民の系統のみとのことで、斉民自身も78歳の長命で、明治後の徳川一門で
重んじられました。
「徳川慶喜像」 川村清雄 明治時代・19世紀 徳川記念財団

最後の将軍となった15代慶喜(1837-1913)の像で、写真を基に描かれています。
徳川慶喜は初めての水戸徳川家出身の将軍です。
川村清雄(1852-1934)は幕臣の子で、少年時代は徳川慶喜の後の徳川宗家の当主、
家達(いえさと:1863-1940)の遊び相手役の近習として仕え、幕府崩壊後の
明治4年(1871)に徳川家派遣留学生として、法律や政治を学ぶためアメリカに
留学しますが、幼い頃から好きだった絵の才能を認められ、パリやヴェネツィアで
洋画を学んでいます。
「天璋院像」 川村清雄 明治17年(1884) 徳川記念財団蔵

13代将軍徳川家定の正室、天璋院篤姫(1836-1883)の所用です。
天璋院は薩摩島津家の分家の出身で、大奥の中心人物ですが、明治維新後は
質素な生活態度を貫いています。
天璋院の一周忌を前に遺影として制作された作品です。
「小袖 萌黄紋縮緬地雪持竹雀模様」
江戸時代・19世紀 徳川記念財団

藤に蝶をあしらった格子模様の地の裾は雪を被った竹と雀で埋められています。
白糸で刺繍された、竹に積もる雪は盛り上がり、色彩も鮮やかで豪華です。
背には養女となった近衛家の牡丹紋が刺繍されています。
「黒塗牡丹紋散松唐草蒔絵 雛道具」 江戸時代後期 徳川記念財団

天璋院所用の雛飾りです。
「御意之振(桜田門外の変につき)」 安政7年(1860) 個人蔵(徳川宗家文書)
「御意之振」は将軍の発言の記録です。
安政7年(1860)に大老井伊直弼を水戸藩の脱藩者などが暗殺した桜田門外の変の
直後に14代将軍家茂が御三家当主などを集めて会談した時の記録です。
集められたのは徳川茂徳(尾張徳川家)、徳川茂承(紀伊徳川家)、
前田斉泰(加賀前田家)、松平忠国(武蔵国忍藩)です。
水戸徳川家は当主の慶篤が安政の大獄で登城停止となっており、
事件が水戸藩脱藩者の起こしたものであるためか、呼ばれていません。
加賀前田家は外様大名ですが、別格の扱いを受けていることが分かります。
忍藩が呼ばれたのは当時、外国船に対する沿岸警備を命じられていたためでしょうか。
幕末の政情の一端を見せてくれる興味深い資料です。
展覧会のHPです。
江戸東京博物館は4月1日から令和7年度中まで大規模改修工事のため、
全館休館するとのことです。
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両国の江戸東京博物館では企画展「徳川一門 ―将軍家をささえたひとびと―」が
開かれています。
会期は3月6日(日)までです。

徳川家康から慶喜まで15代続いた徳川将軍家と、それを支えた一門についての展示です。
徳川将軍家の系譜

8代将軍吉宗以来、分家の紀伊徳川家と水戸徳川家の系統が将軍職を継いでいます。
「東照大権現像」 天海賛 四代木村了琢筆
江戸時代 德川記念財団

南光坊天海(1536?-1643)は天台宗の僧で、徳川家康に仕えています。
家康の死後の神号を権現と定めたのは天海の案です。
「本小札濃勝糸威二枚胴具足」 江戸時代末期 江戸東京博物館


胴は前後二枚で、兜の前立はカマキリ、勝糸は濃い藍色の威し糸のことです。
清水徳川家3代当主で紀州藩11代藩主、徳川斉順(なりゆき)所用の鎧です。
11代将軍徳川家斉の七男で、14代将軍徳川家茂の父でもあります。
「松の徳葵の賑わい」 明治20年(1887) 江戸東京博物館
明治になり江戸時代を懐かしむ気分から描かれた6枚続きの錦絵で、
徳川家斉が儲けた53人の子を描いています。

左上が家斉、左下の青い着物姿が斉順です。
子どもの絵が多いのは子の多くが幼少時に夭折していることによるものです。

右上の束帯姿が次男で12代将軍の家慶、手前の紫の着物に袴姿が
十五男の斉民です。
「山水図」 松平斉民 明治23年(1890) 徳川記念財団

松平斉民(1814-1891)は11代将軍徳川家斉の十五男で、津山藩松平家を継いでいます。
父の家斉は26人もの男子を儲けていますが、家斉の男系子孫で残っているのは
斉民の系統のみとのことで、斉民自身も78歳の長命で、明治後の徳川一門で
重んじられました。
「徳川慶喜像」 川村清雄 明治時代・19世紀 徳川記念財団

最後の将軍となった15代慶喜(1837-1913)の像で、写真を基に描かれています。
徳川慶喜は初めての水戸徳川家出身の将軍です。
川村清雄(1852-1934)は幕臣の子で、少年時代は徳川慶喜の後の徳川宗家の当主、
家達(いえさと:1863-1940)の遊び相手役の近習として仕え、幕府崩壊後の
明治4年(1871)に徳川家派遣留学生として、法律や政治を学ぶためアメリカに
留学しますが、幼い頃から好きだった絵の才能を認められ、パリやヴェネツィアで
洋画を学んでいます。
「天璋院像」 川村清雄 明治17年(1884) 徳川記念財団蔵

13代将軍徳川家定の正室、天璋院篤姫(1836-1883)の所用です。
天璋院は薩摩島津家の分家の出身で、大奥の中心人物ですが、明治維新後は
質素な生活態度を貫いています。
天璋院の一周忌を前に遺影として制作された作品です。
「小袖 萌黄紋縮緬地雪持竹雀模様」
江戸時代・19世紀 徳川記念財団

藤に蝶をあしらった格子模様の地の裾は雪を被った竹と雀で埋められています。
白糸で刺繍された、竹に積もる雪は盛り上がり、色彩も鮮やかで豪華です。
背には養女となった近衛家の牡丹紋が刺繍されています。
「黒塗牡丹紋散松唐草蒔絵 雛道具」 江戸時代後期 徳川記念財団

天璋院所用の雛飾りです。
「御意之振(桜田門外の変につき)」 安政7年(1860) 個人蔵(徳川宗家文書)
「御意之振」は将軍の発言の記録です。
安政7年(1860)に大老井伊直弼を水戸藩の脱藩者などが暗殺した桜田門外の変の
直後に14代将軍家茂が御三家当主などを集めて会談した時の記録です。
集められたのは徳川茂徳(尾張徳川家)、徳川茂承(紀伊徳川家)、
前田斉泰(加賀前田家)、松平忠国(武蔵国忍藩)です。
水戸徳川家は当主の慶篤が安政の大獄で登城停止となっており、
事件が水戸藩脱藩者の起こしたものであるためか、呼ばれていません。
加賀前田家は外様大名ですが、別格の扱いを受けていることが分かります。
忍藩が呼ばれたのは当時、外国船に対する沿岸警備を命じられていたためでしょうか。
幕末の政情の一端を見せてくれる興味深い資料です。
展覧会のHPです。
江戸東京博物館は4月1日から令和7年度中まで大規模改修工事のため、
全館休館するとのことです。
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