上野
上野の東京国立博物館で開かれている新年恒例の「博物館に初もうで」の記事、
その3で、歌川広重の「名所江戸百景」を載せます。
歌川広重と二代広重による「名所江戸百景」119点の図絵のうち、35点が
展示されています。
「名所江戸百景・日本橋雪晴」 安政3年(1856)

シリーズの最初の絵です。
年の初めでしょうか、雪の降った後の日本橋を魚河岸の方から眺めています。
白雪をいただいた富士山や江戸城も見える、さわやかな景色です。
同じ場所を橋向こうの高札場から見た情景が有名な「東海道五十三次日本橋」です。
参考 江戸東京博物館には江戸時代の日本橋の北詰側が実物大で復元されています。

「名所江戸百景・山下町日比谷外さくら田」 安政4年(1857)

羽子板が両方から出ていて、羽根の飛び上がった空には凧が揚がっています。
正月の風景で、男の子と女の子の遊びを巧みに描き出しています。
遠くに富士山も見えます。
赤い門のある大名屋敷は肥前鍋島藩の上屋敷で、現在の日比谷公園の一部です。
幕末維新に活躍した大隈重信や江藤新平はこの頃には活動を始めています。
参考 東京ミッドタウンから見た日比谷公園と奥の皇居です。

「名所江戸百景・するかてふ」 安政3年(1856)

右が呉服を扱う越後屋の江戸本店、その奥が両替店、左が木綿を扱う店です。
現在は右が三井本館、左が三越本店になっています。
通りの延長に富士山が見えるように一帯の町割りがされていたことが分かります。
参考 同じ場所の現在です。

「名所江戸百景・びくにはし雪中」 安政5年(1858)

比丘尼橋は京橋川に架かっていた橋です。
「山くじら」は猪肉の店、「〇やき、十三里」は焼き芋屋の看板で、冬らしい景色です。
〇やきはさつま芋の丸焼き、十三里は栗(九里)より(四里)旨いという意味です。
「名所江戸百景・虎の門外あふひ坂」 安政4年(1857)

葵坂と呼ばれる、現在は埋め立てられている赤坂の溜池と堰堤の夜の情景です。
近くの金刀比羅宮への寒参りをする裸の男たちが提灯を掲げています。
堀や蕎麦屋の屋台の店など、小泉八雲の「怪談」の中の「むじな」を思い出します。
「名所江戸百景・亀戸梅屋舗」 安政4年(1857)

亀戸梅屋舗は臥龍梅という梅の名所でした。
目の前に梅の木を置き、遠くにそぞろ歩きをする人たちを配した、極端な遠近法に
よる作品で、ゴッホがこの絵を模写しています。
「名所江戸百景・両ごく回向院元柳橋」 安政4年(1857)

両国回向院では勧進相撲が行なわれ、現在の大相撲の元となっています。
相撲櫓には、竹竿の先に御幣を付けて天下泰平や興行中の晴天を祈る
出し幣(だしっぺい)が掲げられています。
遠くに雪をいただいた富士山も見える、高く広々とした眺めです。
参考 現在の大相撲は両国国技館で開かれ、相撲櫓も組まれています。

「名所江戸百景・深川洲崎十万坪」 安政4年(1857)

舞い降りようとする鷲の視点から見た江戸湾の湿地帯の雪景色で、
遠くに筑波山が見えます。
斬新な構図の絵で、翼を翻す鷲の姿が印象的です。
参考 深川洲崎十万坪は江東区の東京都現代美術館の東隣りに当たります。

「名所江戸百景・神田明神曙之景」 安政4年(1857)

神田明神の東の端は崖になっていて、日の出を拝む参詣者が多く集まっていました。
江戸の家並が広がり、曙のうっすらとした紅色が上手く表現されています。
参考 2019年元旦の朝8時前の神田明神です。

「名所江戸百景・下谷廣小路」 安政3年(1856)

現在の上野広小路で、右は上野松坂屋の前身、伊藤松坂屋です。
揃いの傘は上野の山に花見に行く習い事の社中とのことで、
弁当を担いだ男衆が従っています。
一種のデモンストレーションです。
参考 傘の一行は右から左へ上野の山に向かっていました。

「名所江戸百景・上野山した」 安政5年(1858)

料理屋の伊勢屋が「しそめし」と書いた暖簾を出しています。
奥の鳥居は五條天神で、後に上野山下から現在地に移転しています。
10年後の慶応4年に起こった上野戦争では、上野の山に立て籠もる彰義隊に対し、
新政府軍は伊勢屋の2階から銃撃しています。
伊勢屋は明治には鴈鍋と名前を変えて営業していました。
参考 伊勢屋は右側にありました。

江戸は安政2年(1855)に発生した安政の大地震で大きな被害を受けています。
名所江戸百景はそこからの復興を謳う意味があったともいわれています。
上野不忍池の蓮もすっかり枯れています。

chariot
上野の東京国立博物館で開かれている新年恒例の「博物館に初もうで」の記事、
その3で、歌川広重の「名所江戸百景」を載せます。
歌川広重と二代広重による「名所江戸百景」119点の図絵のうち、35点が
展示されています。
「名所江戸百景・日本橋雪晴」 安政3年(1856)

シリーズの最初の絵です。
年の初めでしょうか、雪の降った後の日本橋を魚河岸の方から眺めています。
白雪をいただいた富士山や江戸城も見える、さわやかな景色です。
同じ場所を橋向こうの高札場から見た情景が有名な「東海道五十三次日本橋」です。
参考 江戸東京博物館には江戸時代の日本橋の北詰側が実物大で復元されています。

「名所江戸百景・山下町日比谷外さくら田」 安政4年(1857)

羽子板が両方から出ていて、羽根の飛び上がった空には凧が揚がっています。
正月の風景で、男の子と女の子の遊びを巧みに描き出しています。
遠くに富士山も見えます。
赤い門のある大名屋敷は肥前鍋島藩の上屋敷で、現在の日比谷公園の一部です。
幕末維新に活躍した大隈重信や江藤新平はこの頃には活動を始めています。
参考 東京ミッドタウンから見た日比谷公園と奥の皇居です。

「名所江戸百景・するかてふ」 安政3年(1856)

右が呉服を扱う越後屋の江戸本店、その奥が両替店、左が木綿を扱う店です。
現在は右が三井本館、左が三越本店になっています。
通りの延長に富士山が見えるように一帯の町割りがされていたことが分かります。
参考 同じ場所の現在です。

「名所江戸百景・びくにはし雪中」 安政5年(1858)

比丘尼橋は京橋川に架かっていた橋です。
「山くじら」は猪肉の店、「〇やき、十三里」は焼き芋屋の看板で、冬らしい景色です。
〇やきはさつま芋の丸焼き、十三里は栗(九里)より(四里)旨いという意味です。
「名所江戸百景・虎の門外あふひ坂」 安政4年(1857)

葵坂と呼ばれる、現在は埋め立てられている赤坂の溜池と堰堤の夜の情景です。
近くの金刀比羅宮への寒参りをする裸の男たちが提灯を掲げています。
堀や蕎麦屋の屋台の店など、小泉八雲の「怪談」の中の「むじな」を思い出します。
「名所江戸百景・亀戸梅屋舗」 安政4年(1857)

亀戸梅屋舗は臥龍梅という梅の名所でした。
目の前に梅の木を置き、遠くにそぞろ歩きをする人たちを配した、極端な遠近法に
よる作品で、ゴッホがこの絵を模写しています。
「名所江戸百景・両ごく回向院元柳橋」 安政4年(1857)

両国回向院では勧進相撲が行なわれ、現在の大相撲の元となっています。
相撲櫓には、竹竿の先に御幣を付けて天下泰平や興行中の晴天を祈る
出し幣(だしっぺい)が掲げられています。
遠くに雪をいただいた富士山も見える、高く広々とした眺めです。
参考 現在の大相撲は両国国技館で開かれ、相撲櫓も組まれています。

「名所江戸百景・深川洲崎十万坪」 安政4年(1857)

舞い降りようとする鷲の視点から見た江戸湾の湿地帯の雪景色で、
遠くに筑波山が見えます。
斬新な構図の絵で、翼を翻す鷲の姿が印象的です。
参考 深川洲崎十万坪は江東区の東京都現代美術館の東隣りに当たります。

「名所江戸百景・神田明神曙之景」 安政4年(1857)

神田明神の東の端は崖になっていて、日の出を拝む参詣者が多く集まっていました。
江戸の家並が広がり、曙のうっすらとした紅色が上手く表現されています。
参考 2019年元旦の朝8時前の神田明神です。

「名所江戸百景・下谷廣小路」 安政3年(1856)

現在の上野広小路で、右は上野松坂屋の前身、伊藤松坂屋です。
揃いの傘は上野の山に花見に行く習い事の社中とのことで、
弁当を担いだ男衆が従っています。
一種のデモンストレーションです。
参考 傘の一行は右から左へ上野の山に向かっていました。

「名所江戸百景・上野山した」 安政5年(1858)

料理屋の伊勢屋が「しそめし」と書いた暖簾を出しています。
奥の鳥居は五條天神で、後に上野山下から現在地に移転しています。
10年後の慶応4年に起こった上野戦争では、上野の山に立て籠もる彰義隊に対し、
新政府軍は伊勢屋の2階から銃撃しています。
伊勢屋は明治には鴈鍋と名前を変えて営業していました。
参考 伊勢屋は右側にありました。

江戸は安政2年(1855)に発生した安政の大地震で大きな被害を受けています。
名所江戸百景はそこからの復興を謳う意味があったともいわれています。
上野不忍池の蓮もすっかり枯れています。

- 関連記事
-
- 「博物館に初もうで」 東京国立博物館 2023年 その4 「都(京名所)八題」 (2023/01/14)
- 「DOMANI・明日展 2022-23」 国立新美術館 (2023/01/12)
- 「博物館に初もうで」 東京国立博物館 2023年 その3 「名所江戸百景」 (2023/01/10)
- 「おいしいボタニカル・アート 食を彩る植物のものがたり」展 SOMPO美術館 (2023/01/08)
- 「博物館に初もうで」 東京国立博物館 2023年 その2 (2023/01/07)