上野
上野の東京都美術館では「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展」が開かれています。
会期は4月9日(日)までです。

エゴン・シーレ(1890-1918)の作品約50点を中心にして、ウィーンのレオポルド美術館の
所蔵する同時代の作家の作品を展示する展覧会です。
レオポルド美術館は世界最大のエゴン・シーレのコレクションで知られています。
エゴン・シーレはオーストリアのウィーン近郊に生まれ、幼い頃から芸術の才能に恵まれ、
ウィーン工芸学校で学んだ後、1906年にウィーン美術アカデミーに入学しています。
アドルフ・ヒトラーも翌年と翌々年に受験しますが不合格で、芸術家への道を諦めています。
しかし、シーレはアカデミーの古典主義的な教育方針に不満を持ち、工芸学校の
先輩であるグスタフ・クリムト(1862-1918)に近付き、援助も受けています。
「ほおずきのある自画像」 1912年

自負心の強そうな顔つきをしていて、ほおずきの赤い実や細い茎が緊張感を
生み出しています。
ゴッホを尊敬していて、筆遣いもぐいぐいとして、力強さがあります。
「自分を見つめる人II(死と男)」 1911年

影のように後ろに貼り付いている男は死神に見え、突き出された腕には不安、
不条理を感じます。
シーレの作品の多くには表現主義的な荒々しさが見られます。
「母と子」 1912年

母は子をしっかりと抱きしめていますが、子どもは驚いたように目を見開き、
こちらを見ています。
人に安心感を与えない、不穏な雰囲気があります。
「悲しみの女」 1912年

絵のモデルになり、同棲もしていたヴァリ・ノイツィルを描いています。
後ろで半分顔を覗かせているのはシーレ自身とのことで、意味ありげな絵です。
「縞模様のドレスを着て座るエーディト・シーレ」 1915年

シーレは1914年に、通りの向かいに住んでいたハルムス家のエーディトと結婚します。
シーレはヴァリとの関係もそのまま続けたかったのですが、そんな身勝手なことが
出来る筈もなく、二人は別れてしまいます。
作品は鉛筆とグワッシュを使い、色彩も穏やかで、縞模様もていねいに描かれ、
エーディトもつつましやかな表情をしています。
「カール・グリュンヴァルドの肖像」1917年
豊田市美術館の所蔵です。
暗い背景の中で、椅子に掛けている白い服の人物の姿が強調されています。
荒々しいタッチの画面ですが、組んだ手やシャツの描線は確かで、
力にあふれています。
若い晩年の作品は作風が穏やかになり、その分デッサン力の高さが
際立っています。
カール・グリュンヴァルドは第1次世界大戦で兵役に就いていたシーレの上官で、
後援者ともなっています。
エゴン・シーレは大戦中も絵の才能を認められて、前線勤務を免れ、絵品を描く
ことも出来て、評判も得ますが、大戦の終わった1918年にスペイン風邪に掛かり、
妊娠中のエーディトとほぼ同時に亡くなっています。
ヴァリも従軍看護婦として勤務中の1917年に猩紅熱で亡くなっています。
また、クリムトも1918年にインフルエンザで亡くなっています。
風景画のコーナーは撮影可能です。
「吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)」 1912年

幹や枝は大きく曲がり、ひびのように広がっています。
風景画というより抽象画のようです。
「ドナウ河畔の街シュタインII」 1913年

ドナウ川クルーズの起点、オーストリアのクレムス近くの景色のようです。
縦横の構図で、上半分にドナウ河を大きく取り、下には横から見た建物を
並べています。
「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街IV)」 1914年

シーレは母の故郷、チェコのクルマウ(現チェスキー・クルムロフ)をたびたび訪れ、
その風景を描いています。
建物の配置や色彩は記憶や空想に拠っているところもあるそうです。
エゴン・シーレは早くに才能を開花させた画家ですが、もしもっと生きていたら、
後にどんな作品を描いたろうかと思わせます。
展覧会にはクリムト、オスカー・ココシュカなどの作品も数点ずつ展示されています。
「シェーンブルン庭園風景」 グスタフ・クリムト 1916年

大きな作品で、筆遣いは均一で装飾性があり、色調も整っていて、穏やかな空間が
広がっています。
展覧会のHPです。
人気の高い展覧会で、私の行った28日(土)はグッズ売り場に長い行列が出来ていました。
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上野の東京都美術館では「レオポルド美術館 エゴン・シーレ展」が開かれています。
会期は4月9日(日)までです。

エゴン・シーレ(1890-1918)の作品約50点を中心にして、ウィーンのレオポルド美術館の
所蔵する同時代の作家の作品を展示する展覧会です。
レオポルド美術館は世界最大のエゴン・シーレのコレクションで知られています。
エゴン・シーレはオーストリアのウィーン近郊に生まれ、幼い頃から芸術の才能に恵まれ、
ウィーン工芸学校で学んだ後、1906年にウィーン美術アカデミーに入学しています。
アドルフ・ヒトラーも翌年と翌々年に受験しますが不合格で、芸術家への道を諦めています。
しかし、シーレはアカデミーの古典主義的な教育方針に不満を持ち、工芸学校の
先輩であるグスタフ・クリムト(1862-1918)に近付き、援助も受けています。
「ほおずきのある自画像」 1912年

自負心の強そうな顔つきをしていて、ほおずきの赤い実や細い茎が緊張感を
生み出しています。
ゴッホを尊敬していて、筆遣いもぐいぐいとして、力強さがあります。
「自分を見つめる人II(死と男)」 1911年

影のように後ろに貼り付いている男は死神に見え、突き出された腕には不安、
不条理を感じます。
シーレの作品の多くには表現主義的な荒々しさが見られます。
「母と子」 1912年

母は子をしっかりと抱きしめていますが、子どもは驚いたように目を見開き、
こちらを見ています。
人に安心感を与えない、不穏な雰囲気があります。
「悲しみの女」 1912年

絵のモデルになり、同棲もしていたヴァリ・ノイツィルを描いています。
後ろで半分顔を覗かせているのはシーレ自身とのことで、意味ありげな絵です。
「縞模様のドレスを着て座るエーディト・シーレ」 1915年

シーレは1914年に、通りの向かいに住んでいたハルムス家のエーディトと結婚します。
シーレはヴァリとの関係もそのまま続けたかったのですが、そんな身勝手なことが
出来る筈もなく、二人は別れてしまいます。
作品は鉛筆とグワッシュを使い、色彩も穏やかで、縞模様もていねいに描かれ、
エーディトもつつましやかな表情をしています。
「カール・グリュンヴァルドの肖像」1917年
豊田市美術館の所蔵です。
暗い背景の中で、椅子に掛けている白い服の人物の姿が強調されています。
荒々しいタッチの画面ですが、組んだ手やシャツの描線は確かで、
力にあふれています。
若い晩年の作品は作風が穏やかになり、その分デッサン力の高さが
際立っています。
カール・グリュンヴァルドは第1次世界大戦で兵役に就いていたシーレの上官で、
後援者ともなっています。
エゴン・シーレは大戦中も絵の才能を認められて、前線勤務を免れ、絵品を描く
ことも出来て、評判も得ますが、大戦の終わった1918年にスペイン風邪に掛かり、
妊娠中のエーディトとほぼ同時に亡くなっています。
ヴァリも従軍看護婦として勤務中の1917年に猩紅熱で亡くなっています。
また、クリムトも1918年にインフルエンザで亡くなっています。
風景画のコーナーは撮影可能です。
「吹き荒れる風の中の秋の木(冬の木)」 1912年

幹や枝は大きく曲がり、ひびのように広がっています。
風景画というより抽象画のようです。
「ドナウ河畔の街シュタインII」 1913年

ドナウ川クルーズの起点、オーストリアのクレムス近くの景色のようです。
縦横の構図で、上半分にドナウ河を大きく取り、下には横から見た建物を
並べています。
「モルダウ河畔のクルマウ(小さな街IV)」 1914年

シーレは母の故郷、チェコのクルマウ(現チェスキー・クルムロフ)をたびたび訪れ、
その風景を描いています。
建物の配置や色彩は記憶や空想に拠っているところもあるそうです。
エゴン・シーレは早くに才能を開花させた画家ですが、もしもっと生きていたら、
後にどんな作品を描いたろうかと思わせます。
展覧会にはクリムト、オスカー・ココシュカなどの作品も数点ずつ展示されています。
「シェーンブルン庭園風景」 グスタフ・クリムト 1916年

大きな作品で、筆遣いは均一で装飾性があり、色調も整っていて、穏やかな空間が
広がっています。
展覧会のHPです。
人気の高い展覧会で、私の行った28日(土)はグッズ売り場に長い行列が出来ていました。
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「縞模様のドレスを着て座るエーディト・シーレ」これいいですね。日本の漫画家に似た感じの絵を描く人がいた様な。影響を受けているのでしょうか。
日本の漫画にも通じるものがありそうです。