上野
上野の国立科学博物館で開かれている特別展、「和食 ~日本の自然、人々の知恵~」の
記事を2回に分け、今日は2回目、料理について載せます。
会期は2024年2月25日(日)までです。
縄文カレンダー

同じ縄文時代でも佐賀県の東名(とうみょう)貝塚と岩手県の崎山貝塚では
食べる物に違いがあります。
崎山貝塚は太平洋に面しており、ブリやカツオ、マグロ、オットセイも食べています。
東名遺跡の出土物

シカ、イノシシ、貝類などを食べていました。
卑弥呼の食膳を再現

春を想定して、ゼンマイ、タケノコ入りの玄米の炊き込みご飯、マダイの塩焼き、
サトイモ、タケノコ、豚肉の煮物、ハマグリとイイダコのワカメ汁、アワビの焼物、
ショウサイフグの一夜干し、炒りエゴマ風味キビモチ、アワ団子のシソの実あえ、
ゆでワラビです。
邪馬台国が大和にあったか北九州にあったかで、食物も変わってくるでしょう。
長屋王の食卓


牛乳を煮詰めた蘇や、醤油に似た醤が登場しています。
長屋王(684-729)は天武天皇の孫で有力な皇族でしたが、
藤原氏の陰謀とされる長屋王の変で自害しています。
当時の庶民の食事

精白度の低い米と青菜の汁に塩が付くという、何とも質素な食事です。
平安時代、保延3年(1137)に崇徳天皇が仁和寺に行幸した時の大臣の御膳

味付けしてない鮑、生鯛、鮭、干し鳥で、酢や塩を付けて食べます。
左は交菓子(まぜくだもの)で、栗、棗、カヤノミが盛ってあります。
天皇・関白の御膳は更に品数が増えます。
崇徳天皇(1119 - 1164)は後に上皇となりますが、保元元年(1156)の保元の乱に敗れて
讃岐に流され、都に帰ることも叶わず亡くなり、後に怨霊として恐れられています。
天正10年(1582)に京都で織田信長が徳川家康を饗応した時の食事の再現

五の膳まであり、これは一の膳です。

信長は自ら膳を家康の前まで運んだとありますから、大変な接待ぶりです。
饗応役は明智光秀で、俗説では材料に腐臭がするのを怒った信長に饗応役を解かれた
光秀が恨んだのが本能寺の変の原因となっています。
江戸時代には蕎麦、寿司、天麩羅などの屋台が盛んでした。


江戸には地方から集まった独身者が多く、便利な外食が重宝されました。
寿司の具は酢で締めたコハダなど江戸前の魚で、脂気の多いマグロは下魚とされていました。
嘉永7年(1854)の2度目のペリー艦隊の来航時に幕府が横浜でもてなした時の食膳



贅を尽くしていますが、生の魚を使う和食は欧米人にはかなり不評だったようです。
幕府も薩摩藩もこれを知って、饗応の席に西洋料理を取り入れようと努めています。
明治20年(1887)に明治天皇夫妻がドイツからの賓客をもてなした時の午餐会の食卓


ドイツの皇族が来られたのでしょうか。
当時の日本は西洋文明の代表であるフランス料理を懸命に学んでいました。
大正時代の中華料理

焼売と揚州炒飯

日清日露戦争をきっかけに中国との行き来が増えるにつれ、安価で作りやすく、
栄養価が高いということで、中華料理が広まりました。
西洋料理が皇室など上からの普及だったのに対して、中華料理は庶民から広まっています。
西洋料理は普及につれ、洋食として進化していきます。
もう和食の一種と言えます。
ビーフカツレツとライスカレー

明治5年(1872)刊の仮名垣魯文著、河鍋暁斉画の料理指南書「西洋料理通」では
ライスを丸く盛りつけた中にカレーを入れるとあります。
1969年4月30日の「サザエさん」によると、磯野家のレパートリーはオデン、やきザカナ、
カレーライス、コロッケ、チャーハンのようです。

コロッケはフランス料理のクロケットが元ですが、大正6年(1917)に「コロッケの唄」が
流行したりして、庶民の日常食になりました。
雑煮文化圏マップ

東日本の切り餅、西日本の丸餅の境界線です。
石川県小松市は丸餅で、日本海航路で普及した昆布が入っています。

材料と料理、それぞれについて多彩な展示が揃っていて、和食とういものの成り立ちを
考えることの出来る、興味深く面白い展覧会です。
展覧会のHPです。
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上野の国立科学博物館で開かれている特別展、「和食 ~日本の自然、人々の知恵~」の
記事を2回に分け、今日は2回目、料理について載せます。
会期は2024年2月25日(日)までです。
縄文カレンダー

同じ縄文時代でも佐賀県の東名(とうみょう)貝塚と岩手県の崎山貝塚では
食べる物に違いがあります。
崎山貝塚は太平洋に面しており、ブリやカツオ、マグロ、オットセイも食べています。
東名遺跡の出土物

シカ、イノシシ、貝類などを食べていました。
卑弥呼の食膳を再現

春を想定して、ゼンマイ、タケノコ入りの玄米の炊き込みご飯、マダイの塩焼き、
サトイモ、タケノコ、豚肉の煮物、ハマグリとイイダコのワカメ汁、アワビの焼物、
ショウサイフグの一夜干し、炒りエゴマ風味キビモチ、アワ団子のシソの実あえ、
ゆでワラビです。
邪馬台国が大和にあったか北九州にあったかで、食物も変わってくるでしょう。
長屋王の食卓


牛乳を煮詰めた蘇や、醤油に似た醤が登場しています。
長屋王(684-729)は天武天皇の孫で有力な皇族でしたが、
藤原氏の陰謀とされる長屋王の変で自害しています。
当時の庶民の食事

精白度の低い米と青菜の汁に塩が付くという、何とも質素な食事です。
平安時代、保延3年(1137)に崇徳天皇が仁和寺に行幸した時の大臣の御膳

味付けしてない鮑、生鯛、鮭、干し鳥で、酢や塩を付けて食べます。
左は交菓子(まぜくだもの)で、栗、棗、カヤノミが盛ってあります。
天皇・関白の御膳は更に品数が増えます。
崇徳天皇(1119 - 1164)は後に上皇となりますが、保元元年(1156)の保元の乱に敗れて
讃岐に流され、都に帰ることも叶わず亡くなり、後に怨霊として恐れられています。
天正10年(1582)に京都で織田信長が徳川家康を饗応した時の食事の再現

五の膳まであり、これは一の膳です。

信長は自ら膳を家康の前まで運んだとありますから、大変な接待ぶりです。
饗応役は明智光秀で、俗説では材料に腐臭がするのを怒った信長に饗応役を解かれた
光秀が恨んだのが本能寺の変の原因となっています。
江戸時代には蕎麦、寿司、天麩羅などの屋台が盛んでした。


江戸には地方から集まった独身者が多く、便利な外食が重宝されました。
寿司の具は酢で締めたコハダなど江戸前の魚で、脂気の多いマグロは下魚とされていました。
嘉永7年(1854)の2度目のペリー艦隊の来航時に幕府が横浜でもてなした時の食膳



贅を尽くしていますが、生の魚を使う和食は欧米人にはかなり不評だったようです。
幕府も薩摩藩もこれを知って、饗応の席に西洋料理を取り入れようと努めています。
明治20年(1887)に明治天皇夫妻がドイツからの賓客をもてなした時の午餐会の食卓


ドイツの皇族が来られたのでしょうか。
当時の日本は西洋文明の代表であるフランス料理を懸命に学んでいました。
大正時代の中華料理

焼売と揚州炒飯

日清日露戦争をきっかけに中国との行き来が増えるにつれ、安価で作りやすく、
栄養価が高いということで、中華料理が広まりました。
西洋料理が皇室など上からの普及だったのに対して、中華料理は庶民から広まっています。
西洋料理は普及につれ、洋食として進化していきます。
もう和食の一種と言えます。
ビーフカツレツとライスカレー

明治5年(1872)刊の仮名垣魯文著、河鍋暁斉画の料理指南書「西洋料理通」では
ライスを丸く盛りつけた中にカレーを入れるとあります。
1969年4月30日の「サザエさん」によると、磯野家のレパートリーはオデン、やきザカナ、
カレーライス、コロッケ、チャーハンのようです。

コロッケはフランス料理のクロケットが元ですが、大正6年(1917)に「コロッケの唄」が
流行したりして、庶民の日常食になりました。
雑煮文化圏マップ

東日本の切り餅、西日本の丸餅の境界線です。
石川県小松市は丸餅で、日本海航路で普及した昆布が入っています。

材料と料理、それぞれについて多彩な展示が揃っていて、和食とういものの成り立ちを
考えることの出来る、興味深く面白い展覧会です。
展覧会のHPです。
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