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日本橋三越 「画業60年 松尾敏男回顧展」
三越前
chariot

日本橋三越で2月15日まで開かれている、「画業60年 松尾敏男回顧展」に
行ってきました。

松尾敏男(1926~)は17歳で堅山南風に師事し、1949年に院展初入選、
以来、院展の中心的作家として活動しています。
1946年の初出品以来の約40点、特に院展に出品された大作が多く展示
されています。

ギャラリートークが、3,6,7,13,14日の5回行なわれ、私は6日のトークに
行ってきました。
小柄で細身の方ですが、100人は居るお客さんを前に、1時間ほど掛けて、
一部の作品の解説を含めて話されました。
トークの内容は回毎に変えて話されるとのことでしたので、是非聴きに
行かれることをお奨めします。


「風化」 1967年

キュビズム風の鹿の群れの中に、骨となった鹿も交じっています。
年齢も40代となり、自分の精神は風化していないかと、自省を込めた作品とのことです。
松尾敏男の作品には、生命と死を意識したものが多く見られます。


「洪水」 1972年

牛と、死んだ牛がともに描かれています。
以下、トークより
「戦争の時代の思い出は平和な今も残っている。
野牛が水に呑まれる情景は、その記憶を表したもの」


「貧しき人々」 1977年 4曲1隻

松2-7-2010_002

インドの農村の人々の群像ですが、その姿は毅然としています。
題の意味は、物質的に豊かに暮らしている我々の方が貧しいのではないかという、
問い掛けとのことです。
この頃から、胡粉の白を使った作品が多くなります。


「サルナート想」 1978年 4曲1隻

松2-7-2010_001

サルナートは釈迦が悟りを開いた後、初めて説法した土地、初転法輪の地と
いわれています。
鹿野苑とも呼ばれ、左には鹿のつがいが寛いでいます。
右の、苦行で痩せた釈迦が金色に輝いているのは、仏陀となったことを
表しているのでしょう。
木々を中心にした、大きな画面構成です。


「南風先生像」 1980年

松2-7-2010_007

堅山南風先生の存命中に肖像画をと、おそるおそる申し出たところ、
快諾されて描いた作品とのことです。
白絣に袴姿で立つ姿は、夏の庭の緑の中にふわりと浮き立っています。  
着物と袴には、たらし込みの技法が使われています。
肖像画を手掛けたのはこれが初めてとのことですが、線描による顔の表現は、
人格を見事に写しています。

完成した絵を先生に観てもらって、どう批評されるか冷汗を流して待っていたら、
「私のようなものを描いてもらってありがとう」との言葉をいただいた
とのことです。
先生はこの4ヶ月後に93歳で亡くなられたとのことです。


「朝光のトレド」 1988年 4曲1隻

松2-7-2010_009

朝日を受けたトレド旧市街です。
手前の谷はまだ街灯が付いていますが、丘の上の旧市街は朝日に輝いています。
長い歴史の時間と、一瞬の時間の経過が、同時に描き出されています。
丘の上の教会のシルエットが印象的です。
以下、トークより
「一度、グループで行った時に感激し、後で描きに行った。
ホテルのベランダで朝早くから毎日スケッチしていたら、4日目に熱射病に
なってしまった。
あの体の状態で、これが最後かも知れないと思って、心が乗り移って
描いた気がする」


「夜想譜」 1990年

松2-7-2010_008

夜になって、回転木馬の馬たちが自由に駆け回っています。
回転木馬の持つ、夢幻的な雰囲気がよく表れています。
以下、トークより
「アイガー北壁の取材に行った時に、フランスの田舎の町で、広場にこの
メリーゴーラウンドがあるのを、バスの窓からちらっとを見た。
その時、アイガーではなく、これを描こうと思った。
自分は一つのテーマを追っていくタイプではなく、何かにぶつかりながら
その都度考えていく。
この時も自分の過去のようなものが浮かんだのかも知れない。
子供の頃に見せてもらった映画、シャルル・ボワイエが回転木馬の呼び込みを
演じた、『リリオム』を思い出したのだろうか」


「五浦潮音」 1991年 6曲1双

左隻
松2-7-2010_005

右隻
松2-7-2010_006

茨城県の五浦は、東京美術学校を逐われた岡倉天心が、後に弟子の菱田春草や
横山大観たちと篭った所です。
岸壁に建つ六角堂は天心自身の設計とのことです。
中に見えるのは岡倉天心の姿で、飛翔する鷹のような鳥は春草、大観、観山らを
表しているのでしょう。
以下、トークより
「五浦は日本美術院にとって原点の地なので、いつかは描きたかった。
6曲1双だと場所を取り、他の出展者のスペースを減らしてしまうので、
院展ではまず左隻だけを出展した。
天心先生の思いを伝えるには右隻も描かねばと思い、後で右隻を完成させた」


「郭公の来る頃」 1992年

松2-7-2010_003

以下、トークより
「草草会は、大変尊敬していた高山辰雄先生による、書生の頃に戻った絵を
描いて展示しようという集まりで、私も誘われた。
先生の亡くなられるまで23回続いた。
この絵は、今までとは違う牡丹にしようと思って描いた。
いつも行っている福島県須賀川の牡丹園では、山から郭公の声が聞こえてくる。
郭公は雌雄で呼び合って鳴くので、2羽描き入れた。


「生々」 2008年

松2-7-2010_004

最近の作品で、画題としては珍しい、子豚です。
1匹だけ、チラリとこちらを見ているところがユーモラスです。


以下は、トークのあらましです。
この回では、画家としての生い立ちについて話されました。

「60年展を開き、皆さんに自分の思いを伝えることの出来るのは一つの
収穫であり、幸せ。
小学校に入る前から、ちゃぶ台で広告の裏に絵を描いていた。
大久保小学校の1年生の時、東京市(今の東京23区)のコンクールに
学校代表として出品するよう言われた。
クレヨンで、瓦屋根の家、チャップリン姿のチンドン屋、転んだ子供、
真っ赤なモミジの木を描いた。
新宿のほてい屋(今の伊勢丹)に展示され、いつもは苦虫を噛み潰した
ような顔の父が、「並んでいたよ」とにっこり笑ったのを覚えている。
これが最初の出品作。

中学生時代、肋膜炎になって3ヶ月休んだ時に絵を描いたのが、
自分にとっての最初の自覚的な絵画。
まったく退屈を感じず、時間の経つのを忘れた。
真剣に生きる方法として、絵を描くことを自覚した。
先ず、古本屋で南画の本を買って勉強し、更に日本画の本で、
顔料を使って描いた。

東京美術学校に入れと言われたが、まったく勉強していなかったので、
数学など出来そうになかった。
また、絵画は学校で教わるものか、自分で求めるものではないかと思った。
尊敬できる師に付いて学ぼうと、17歳の時に堅山南風先生のところに入門した。
再興日本美術院展の綱領、『芸術の自由研究を主とす。故に教師なし先輩あり。
教習なし研究あり』は自分の金科玉条」

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【2010/02/07 20:27】 美術館・博物館 | トラックバック(0) | コメント(2) |
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  • 下ちゃんさん、こんばんは。
  • 「夜想曲」は「やそうきょく」ですから、「夜想譜」は「やそうふ」と読むと思います。

    【2013/01/21 19:36】 url[chariot #/8nqih4Y] [ 編集]
  • 『夜想譜』
  • 初めまして。
    松尾敏男さんの絵画作品、『夜想譜』って何と読むのでしょうか?
    色々と調べても分からないので、ここにコメントさせてもらいました。
    よろしくお願いします。

    【2013/01/21 12:43】 url[下ちゃん #-] [ 編集]
    please comment















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